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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.05.09 Thu
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2009.01.02 Fri
保科 正之(ほしな まさゆき)

慶長16年(1611年)5月7日
第二代将軍 徳川秀忠の四男として生まれます。
幼名は幸松。幸松麿(ゆきまつまろ)、幸松丸。
母は側室のお静(お志津、のちの浄光院)。秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘です。
秀忠の正室お江与の方は、側室を持つことを許さなかった為、秀忠はお静の妊娠を知りお江与にばれないように
お静を武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預けます。
※秀忠側近の老中・土井利勝他数名しか知らない極秘事項でした。

元和3年(1617年)
武家の男子は、7歳から学問と武芸の稽古を始めなければなりません。
見性院は、信濃国高遠藩主の保科正光(甲斐武田氏の家臣・保科正直の長男)に正之を託します。
正之は、保科正光の養子となり養育されました。

元和9年(1623年)
7月27日、秀忠から息子の徳川家光(正之の異母兄)が第二代将軍になる。

寛永3年(1626年)9月15日
お江与の方が江戸城西の丸で死去します。享年54歳。

寛永6年(1629年)
お江与の方が亡くなったことで、18歳にして初めて父・秀忠と面会します。
しかしこれも周囲には極秘のうちに行われました。

寛永9年(1632年)1月
秀忠は家光に正之のことを告げないまま死去。

家光は、鷹狩りの途中に立ち寄った保科家の菩提をつとめるお寺の住職から自分に異母弟がいることを初めて聞き、早速対面。
弟の忠長とは不仲な家光でしたが、自分に忠実な7歳下の正之には絶大な信頼を寄せることとなります。

寛永8年(1631年)10月7日
正之の養父正光が享年71歳で亡くなります。
遺領を継ぎ、21歳で高遠藩3万石の藩主となり正四位下肥後守兼左近衛中将を拝受します。
以後、通称・肥後守と称されます。

寛永13年(1636年)
出羽(でわ)国山形藩20万石を拝領。
村山郡白岩領主酒井忠重に対して起きた白岩一揆の関係者を捕縛し、処刑します。

寛永20年(1643年)
3万石を加増され陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられます。
以後、会津松平家が幕末まで会津藩主を務めることとなります。
同時に幕領で南山(みなみやま)5万石余を私領同様の取扱いで預かりました。
三代将軍家光は、正之を実弟として可愛がり、幕政にも重く用いました。
正之は郷村仕置の法令を布達し、領内産物の他領流出の防止、市場の再興、特産物の蝋、漆の納入および買い方の決定などを正保年間(1644~48)までに確定します。

慶安1年(1648年
領内総検地を実施します。

慶安4年(1651年)4月
家光が病死します。
家光は亡くなる直前、枕元に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家(息子の家綱。11歳)を頼みおく」と言いました。
正之は家光の手を握り、「身命をなげうち、ご奉公致します」と言ったそうです。
正之はその後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画します。

慶安4年(1651年)4月~7月
次の将軍が11歳の幼君であることを知った由比正雪は幕府転覆、徳川将軍討取りの為に決起。
慶安事件(由比正雪の乱)を起こします。

慶安5年(1652年)9月13日
承応の変(戸次庄左衛門の乱)という老中討取り計画が起こります。

これらの事件を受けて、幕府は政策を見直し、浪人対策に力を入れる様になります。
末期養子の禁を緩和し、各藩のお家断絶を緩和させました。
各藩には浪人の採用を奨励します。
正之は幼将軍家綱の後見として幕政に参与し、それまでの武断政治から法律や学問によって世を治める文治政治へと移行し幕政を安定させました。

承応元年(1652年)11月
飲料水不足解消の為、多摩川から水を引く計画が始まります。

承応2年(1653年)
玉川上水、完成。

承応3年(1654年)6月
玉川上水から江戸市中への通水が開始されます。
農民に低利で米金を貸与する社倉法を実施。

明暦2年(1656年)
長女・媛姫(はるひめ)は上杉家に嫁しましたが、実母・於万の方が4女・摩須を殺そうと盛った毒を謝って飲んでしまい急死します。
於万の方は、側室の産んだ摩須が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先より大藩の前田家に嫁ぐのが許せず、暗殺しようとしたようです。
媛姫は上杉家菩提所である林泉寺に葬られ、正之は於万の方を遠ざけて後の上杉家の綱勝急死の際の末期養子に関して援助しています。
※この事件がきっかけで正之は女性不信に陥り、会津家訓十五箇条の第四条に婦人女子の言 一切聞くべからずと入っているのはそのせいだと考えられています。

明暦3年(1657年)1月18日
明暦の大火が起こります。
正之は焼け出された庶民を救済し、主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅。
火除け空き地として上野に広小路を設置。
芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させました。
また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張します。
そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはありませんでした。

万治元年(1658年)
定免制によって藩財政の収入を安定させるなど会津藩の藩体制を揺るぎないものとします。
殉死の禁止、領民の風俗匡正、人身売買の厳禁、孝子節婦の表彰、高齢者の養老扶持の支給なども行いました。
正之は朱子学と神道の信奉者で、朱子学は山崎闇斎(あんさい)に、神道は吉川惟足に学び、『輔養編』『玉山(ぎょくざん)講義附録』『二程治教(にていちきょう)録』『伊洛(いらく)三子伝心録』を編纂し、『会津神社誌』『会津風土記』なども残しています。
朱子学を元に身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めました。
※神儒一致を唱え熱烈な朱子学徒であったため、他の学問を弾圧した面もあります。
岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していた為藩政への積極的な参画を避けました。
加賀藩主・前田綱紀が朱子学以外の書物も収集していたことに苦言を呈していたこともあります。
また、儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したために赤穂藩に流されてしまいました。

会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とし、大名証人制度の廃止を政策として打ち出しました。

万治2年(1659年)
明暦の大火の際、橋が無いことで逃げられず10万人の死傷者を出したため、防備の面から隅田川には千住大橋のみにしていた橋を
両国にも架けることを決定。
(寛文元年(1661年)説あり)

寛文6年(1666年)
領内の寺社を整理して神仏習合を排斥。

一方藩政では、入部と同時に家臣の知行を俸禄制とし、城代、家老、奉行、加判制と月番制、軍役などの制度を改正整備します。
若松滞在は生涯3度のみでしたが、腹心の家老らが統治にあたります。
また朱子学を藩学として奨励。好学尚武の藩風を作り上げました。
また90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給します。
※日本の年金制度の始まりとされます。

寛文8年(1668年)4月11日
『会津家訓十五箇条』を定め、首席家老 田中正玄(まさはる)を江戸屋敷に呼んでこれを授けます。
※草案者は、諸説ありますが、保科正之と山崎闇斎が共同で作成したのではないかと考えられています。

第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。
以来、会津藩ではこれを藩是(はんぜ)とし様々な決断をしました。
※幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで官軍と戦いました。

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
  口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
  もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
  評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
  思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし 
  はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 
  歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若し志をうしない 
  遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
  すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

  右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
  寛文8年戊申4月11日

寛文9年(1669年)
嫡男正経に家督を譲り隠居します。

寛文12年(1672年)12月18日
江戸三田の藩邸で死去。享年63(満61歳没)。
生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学んでおり、神式で葬られ
没後は猪苗代の土津(はにつ)神社に祀られました。
また、その分霊が札幌市の琴似神社に祀られています。
墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にあります。
以後、第2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られています。

延宝3年(1675年)
墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られます。

正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められましたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通しました。
第3代・正容になって漸く松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列しました。
同時代の水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されています。

参考
「保科正之の一生」三戸岡 道夫
「保科正之」中村 彰彦
「幕末の会津藩」星 亮一
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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