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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
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2008.12.26 Fri
武田 斐三郎 (たけだ あやさぶろう)

文政10年9月15日(1827年11月4日)
伊予大洲藩(現在の愛媛県大洲市)下級藩士(御旗組小頭)武田敬忠の次男として、伊予国喜多郡中村に生まれました。
名は斐。通称は斐三郎で、後に成章と称しました。
兄は敬孝。(孝明天皇に仕えた人です。)
体が弱く子供時代はとても甘えたで、兄とよく比較されて馬鹿呼ばわりされていたようです。しかし手先が器用で、子供が3人ほど乗れる小船を自作し、大人たちを驚かせたこともあったそうです。

13歳のとき、父が亡くなります。
漢学を学び、語学に興味を覚えます。

18歳。大阪へ行き、緒方洪庵の適塾に入って蘭学を学びます。
当時の適塾は、国中から逸材が集まる蘭学塾として有名でした。語学だけではなく、西洋医学、西洋砲術、西洋兵学なども教えていました。
他に、大村益次郎や大鳥圭介、福沢諭吉らもここで学んでいました。門弟は三千人ほどいたそうです。
斐三郎は塾頭になるという優秀さでした。

その後江戸へ留学し、伊東玄朴に英語、佐久間象山に西洋兵学、箕作阮(みつくりげんぽ)に蘭学を習います。特に航海、築城、造兵の料目に励んだといいます。
優秀さを買われて幕臣に抜擢されます。

嘉永6年(1853年)
ロシア使節プチャーチンが長崎に来航して開国を要求したとき、箕作に従い長崎へ出張し、通訳の手伝いをしたようです。
米国水師提督ペリーが浦賀に来航した際の調査にも出向いたといいます。

翌年、正式に露使応接掛の勘定奉行兼海防掛の川路聖膜(かわじ としあきら)と筒井肥前守付属となり、露西亜船御用取扱を拝命します。

安政元年(1854年)3月
松前蝦夷地御用掛の目付堀 利煕(ほり としひろ)と勘定吟味役村垣範正の配下として蝦夷地出張。

5月5日
ペリーとの会談に出席し、名村五八郎の代わりに通訳をします。
※ペリーは斐三郎のことを、「オランダ語を書けるが殆ど話せない。しかし高貴の血筋を引く者だろう」と日誌に記しています。

堀と村垣と共に国後島探査に向かいます。

12月
堀と村垣が蝦夷地直轄、箱館詰を命じられ、箱館奉行に任じられた為付き従います。

安政2年(1855年)
機械、弾薬製造の任につき、亀田役所(五稜郭)、弁天岬砲台の築造及び
諸術調所(幕府に設置を許可された西洋科学を伝授する高等教育機関)設置を計画します。
また、商人小嶋又次郎の娘美那子と結婚しました。
※小嶋家は内潤町(現在の末広町)で雑貨酒類を販売する商家で、町名主もつとめていました。

安政3年(1856年)8月
諸術調所教授役となります。
また、斐三郎の私塾も付設されました。幕府の学校でありながら、幕臣に限らず門戸をひらいた為、全国から多数の入学希望者が殺到しました。
※江戸の官設学校は、幕士、藩士の区別が厳しいものでした、斐三郎は純粋な人材教育の為身分の公私貴賎に拘わらず学術の成績によって等級を分けました。

前島密や新島襄、山尾庸三、井上勝、蛯子末次郎、水野行敏、今井兼輔らも入学を希望して箱館へやってきました。
※新島は斐三郎が江戸に戻ったのと入れ違いになり、入学はできませんでした。

眼光が鋭く、雷先生と言われるほど厳しかったようです。
※幕府御雇い外国人のラファエル・パンペリーは、
「愛すべき性格で侍だった。誰かに腹が立ったときどうしたらよいかと訊くと『侍は無視するか刀を抜いて殺すかだ。それ以外のことをすれば相手の水準に自分を落とすことになる』と答え、私はその言葉を癇癪を抑える教訓として肝に命じた。後に支那で無傷で過ごせたのはこの言葉のお陰だ」と語っています。

弁天岬台場に備える大砲など、兵器を自家製造すべく、奉行所から反射炉の建設を命じられます。

安政4年(1857年)
五稜郭の建設が始まります。
台場も五稜郭も、蘭書を元に斐三郎が設計し、最新式で堅牢なものでした。
※弁天台場は五稜郭戦争時新選組の面々が政府軍を相手に立てこもりました。
明治29年函館港改良工事で取り壊す際、あまりの頑丈さに当時の技術でも苦労するほどでした。

高炉が完成しますが、火入れに失敗。

文久元年(1861年)
高炉を再度建設しましたが、鉄がうまく熔けませんでした。
生徒たちを連れて箱館丸に乗り込み、日本初の修学旅行に出かけます。
亀田丸を4ヵ月にわたり操船してロシアの黒竜江を遡行、航海測量をしながら露領ニコライスキーに行き交易を行ないました。

文久2年
蝦夷地南部の地質調査にラファエルらが派遣され、斐三郎が同行。
斐三郎は高炉を彼らに見てもらい、何故鉄がうまく熔けないのかを教えてもらい、改良します。
ラファエルたちは、彼が蘭語の本の小さな図(イラストのようなもので、設計に必要なものは何も書かれていませんでした)だけを見て作ったと聞き、
それだけでよくここまで(空気の送り方に欠陥があった以外は完璧でした)作れたものだと舌を巻きました。

文久3年(1863年)5月
妻の美那子が病の為27歳で亡くなります。

元治元年(1864年)3月
斐三郎は江戸へ戻ります。

7月
幕府の開成所教授並となります。

明治4年
兵部省に出仕、兵学寮・士官学校の教授、長官を務めるなど草創期に大きく貢献します。
累進して砲兵大佐となり、士官学校学科提理となり、従5位に叙せられました。

明治13年1月28日
病没。54歳でした。

※日本初のストーブを考案するなど他にも数々の業績のある斐三郎。
レリーフが、五稜郭内にあります。彼の知識と行動力に肖ろうと人々が顔の部分を触るので、その部分だけが人々の手で磨かれて光っています。

参考
「箱館五稜郭物語」河合敦
「北海道人名字彙」河野常吉
「函館人物誌」近江幸雄
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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