実はぶっちゃけ結構バカにしてたっていうか、2chのそれまでのイメージが、
猫虐殺生中継とかそういう悪いなんてもんじゃないのばっかりだったもんで
どうなのかなーって思っていたんだけど、普通に面白くって。
で、これってどこまで本当なのかな?っていう興味で読んでみた。
ら、普通になんかドラマで脚本やキャラがたっているっていうより割と事実そのまま
ドラマにしてあったんだ、と思ってすごく驚いた。
まあ多少ドラマの方が、ドラマチックになるように変えてはいたけど大筋同じだし、
これはドラマが造りすぎなのでは?と思っていた箇所が実は事実でほんと驚いた。
これは確かに、リアルに参加していた人たちって面白かっただろうし、
感動もしただろうし、本や映画、ドラマになってもなんか自分の記念みたいな感じが
したのではないかなーと思った。
山田くんが好きなので、ますます映画版が見たくなったさ…。
普通手なんてつながないし、少なくとも好意もってなかったら食事ふたりきりではいかないし、
そんなもんフリーに決まってるじゃん!
つかこれはもう好きでしょう。告られるの待ってるでしょう。
ってすごく思いながら読み進めてしまったよ。
ドラマより一層感動したのが、2chのログが彼女にばれた、のではなくて
自分から見せたっていうところ。
偉いなー。
それに絶対女子としては、見せられた方が嬉しいでしょう。
人にもよるだろうけど、私は。
最初はちょっとひくかもしれないけど、みんな応援してくれてるわけで
キスシーンとかはっきり書かれてるのはすっごい恥ずかしいけど
自分の身元がばれてるわけじやないしお互い知らない人同士だし
2chの下品な側面のレスとかがいい感じにゆるめてくれてるし。
内緒にされてるよりずっといい。
で結局これ2年前の話になるんだけど、その後どうなったのかな?
うまくいってて欲しいなあ。
それにしても、準ヲタってなんのことだろう…?
エロ同人誌なんて買わないけど、というか同人誌ってあんまり持ってないけど
あんまりってことは友達から貰ったのとかが数冊家にあったりするわけで
エロは勘弁して欲しいけど声優さんとかコスプレとか普通に好きだったり理解があるから
あんまり所謂Aボーイがきもいとは思わないんだよね。
きもいのは趣味じやなく、見た目とおどおどした態度で、普通に美容院行ってお風呂入って
ユニクロとコムサ着てくれたら、そして何より自信持ってくれたら、
大抵の女子にとってAボーイったって普通の男の子な気がするんですけど…。
見た目が普通だったら、ヲタクでも趣味として普通に受け入れられるよね?
あれ、違う?
そう思うのは自分もおたくだから?(@゜▽゜;A
違ったというよりそれ以上の内容であり、非常に興味深い内容でした。
馬鹿なこと言って申し訳無いんだけども、ガンダムSEED DESTINYで、
オーブ軍の階級が一佐だったのでなんだろう…と思っていたら、
自衛隊の階級だったんだね。
アニメで言っていて初めて知ったっていうのも
どうなんだろうって感じだけど、
それだけ自衛隊についての知識に乏しい人が多いのも事実ではないかと思う。
事実そう思って手に取った本だし、目から鱗の内容が多かった。
知ろうとしていないのも悪いならば、知らされていないという現実もあるし。
知ろうとするのがなんとなくダメなようなタブーなような、そういうふうになってはいないだろうか?
戦争を放棄するのは素晴らしいけれど、正当防衛まで放棄するのはよくないのでは。
戦争を放棄したから防衛までいちいち過剰防衛になったら戦争になっちゃうから
と防衛しない、防衛できる体制を整えない。
多分攻めてこないだろう、攻めてきてもアメリカ様が守ってくれるだろう
そんなことでいいんだろうか?
言葉狩りなんてくだらない。
それに、前々から思っていたことだけれど、どうしても気が合わない子とどうしても仲良くしないといけないんだろうか?
俺のものは俺のもの、おまえのものは俺のもの、っていうジャイアンみたいなやつで、
しかも時たまいい人になるジャイアンと違って本当にただのいじめっこでしかない人と、
頭を下げてつきあわなければいけない?それは友達か?下僕じゃないの?
どうしてもジャイアンと付き合わなくたって、のび太と友達でいたいっていう人が他にいるのに、
そんなありがたい友達放置してまで仲良くしないといけないものなのか?
殴られておもちゃも取り上げられてまで?
自分の子供がそんなことしてたら、親だったら
誰とでも仲良くしようとすることは偉いことだし理想だけれど、世の中いろんな人がいるから
どうしてもダメなこともある。
近寄って軋轢を生むよりも距離を置いて、仲良くしたいと言ってくれる人をありがたいと思って
けしてないがしろにせずにその人たちとまず仲良くしなさい。
っていわないだろうか?
そうしてのび太としずかちゃんが仲良くしていたら、ジャイアンだって仲間に入りたくて
反省して近づいてくるかもしれないし。
しずかちゃん無視してジャイアンに頭下げてるのび太、それが今の日本の姿だと思う。
それじゃあドラえもんだってさじなげちゃうと思うけど…。
『靖国問題』については、違憲だと思う。ので、駄目だとは思うが、
単純に日本のために戦ってなくなった人に、国の人間が頭を下げに行くことの何が駄目なのか
と思うし、百歩譲って駄目であったとして、内政干渉されるのは腹立たしい。
危機管理に興味が無くて、平和という言葉に騙されて、自分の身は自分で守る気も無い国民。
平和をうたっている割には、戦争を放棄した、として軍隊という言葉狩りをしているだけの日本と、
永世中立国として均衡を保つだめ国軍と兵役があり、国民ひとりひとりが有事の際には立ち上がる知識も
技術も学んでいる国と、
どちらが本当の平和を愛する姿だろうか?
右の頬を叩かれて左の頼も差し出していられるのは、父なる神のついているイエス様だけだ。
両頬を叩いただけでは空き足らず暴行してくる相手に立ち向かうには、身を守る意志と力が必要なのだ。
っていう一文にとてもどきっときてしまった。
うーわー。
結構なんていうか、「ちゃんとやんなきゃ」「頑張らなきゃ」っていうのが近頃の?口癖だったり
したので。自分が。
ああでもそうかも。ちゃんとしなくっちゃって思ってやるより、やりたくて普通にやっているほうが
ちゃんとしなくちゃって考えてやってるっていうのはどこかに無理が生じているってことだよね。
すっごい痛かったです。
うわどうしよう、みたいな。
高橋さんの母との話で、彼女に対してマイナスの気持ちを抱いているとき
それは彼女ではなくて、真一郎くんとの間が不安定だから、というのもすごくよく分かる。
もう駄目かも、と思ってから、別れることになるまでの日々の辛さ。
別れることが決まったときの、虚しさとちょっとほっとした感じ。
すべて忘れて抱き合えたら元通りになれるのに、でも駄目。
そして、期待している言葉は相手の口からは出てこない。反対のことばかり。
世界中が思い出の拷問。
これって失恋したことがある人には、絶対みんなわかることだと思う。
私には、女を見る目の無い彼に対して、彼の将来が心配になる感じでとても悲しくなって、
同じ言葉を使っているはずなのに全然通じない、聞く耳を持ってくれない悲しい気分
が記憶にすごくあるから、「嫉妬とかではなく彼女が嫌い」という雫石の言葉はすごくよくわかる。
でも大抵男は馬鹿で子供だから、見えていないものなのだ。
しかも、自分の好きな女を馬鹿にされた、という怒りで、「何も分かっていないのはおまえだ」
と嫉妬に狂って酷いことを言っているだけだと決め付けがちなのだ。
甘やかすのは離れなくさせる黒い魔法
っていうのも恐いことだなあ…。優しさと甘やかされるのと、紙一重で、判断が難しい。
受けるときも与えるときも、この判断は難しいなあ。私には雫石みたいに、ここまでが優しさ、
これ以上言うと甘やかしになる、っていう判断つける自信がない。
むしろ、無理だという自信があるくらいだ。
人が出会うのには意味があって、出会ったときに秘められている約束が終ると一緒にいられない
という言葉、雫石には痛かったけど、でも本当のことなんだなと思う。
手放したものの分スペースができている、こういう考え方も、自然に前向きで、自由でいいなと思った。
失うと、喪失感ばかりで頭がいっぱいになるけれど、そういう考え方もできるんだな。
引越しに家賃で貯金がなくて、生活はリアルで、っていうのは個人的にリアルだった。
自分も、まったく雫石と同じ状況で、ここにひとりで住み続ける意味を見出せなかったんだ。私の場合。
一緒に住む、近くに住む、というだけの話で、仕事場からは遠かったし、家賃は高かったし。
楽しめたり逃げられるところがあまりなかったから、ぷち引きこもりになっていて、
それが駄目だと思ってわざと大嫌いな渋谷や新宿に出かけたりしていた。
自分では、リハビリみたいな気持ちでいた。私はひとりなんだぞってわからなくちゃ、
わかった上で動かなくちゃ、と思っていた。
そういうときに食べる行為ってものすごくエネルギーがいる。なんでなんだろうね。
急にくっと喉がつまった感じで、もう匂いも味も感じなくて本当に食べられない。
流し込めない。感情で胸がいっぱいになっても、胃はからっぽのはずなのに。
人間って不思議だ。
何度手順を頭の中で繰り返しても体が動かない。これもずっしりときた。
私は結構、ずーっとこんな調子だ。がんじがらめになって重くて動けないんだ。
どうしたら振り払えるんだろう?私もそれをたちきってくれる楓からの電話が欲しいです。〈笑〉
その3の片岡さんはただただ普通にいい人で、真一郎くんがすごく遠くにいっちゃって、
嬉しかったり悲しかったりだった。
機会があったら貫い揃えたいです。
手にとってみたのがこれ。
北海道出身者なので、地名なんかでアイヌ語に親しみはあるけれど、
意味まではっきりと分かっていることっていうのはとても少ないので、
本州にもアイヌ語の地名があるというのはとても面白かった。
今ハワイ語をちらっと勉強ともいえないほどにだけど見ているけど、
こういうひとつの単語がいくつも変形したり、意味もたくさんある言葉って
とっても難しいけど凄く魅力があるなと思う。
そしてハワイなら英語、アイヌなら和人の言葉を、割に普通に生活に取り入れて
自分の言葉とまぜこぜで話しているところなんかも共通していると思う。
北海道の地名って至るところにアイヌ語が元になっているのがあって、
沙流とか登別とか響きが特殊だと気付き易いんだけど、函館とかもそうだったんだなあ。
地球岬は、すっかり地球を見渡せる岬だと思っていたのに、あれもアイヌ語に漢字を当てはめただけなんだよね。
工リモ岬も、岬岬ってことだよね。なんだか面白い。
自分でも調べてみたい…けどきりがなさそうな…。
でもこういう系統の本は、是非また読んでみたいです。
でも融通のきかないありがちなマナー本と違って(いやそんなん読んだことないけど)
新宿のホテルからは、大切な友人の誕生日を台無しにされたというのに詫び状がワープロ文で届いたし、
あったまきて金券つっかえしたけどそれきり何も言ってこない。
頭きて当然だよな?やっぱり。と。
「お世話様です」
という人が結構いて、違和感を覚えてたんだけど、これもやっぱりそうだよね?
すっきりしたよ。
ご苦労様とお疲れ様の違いと同じようなもんで、結構みんな見下して言ってんだよね。
高校の時の構内放送で、先生が先生を呼ぶときも、
「おりましたら職員室までおいで下さい」
って言ってる人の多いこと多いこと。
みたいなもんだよね、お世話様も。
そういや人に
「本日は退社させて頂きました、と言うのは退職したみたいでおかしい、
失礼させて頂きましたが正しい」
と言っていたお局様は、「そうでございますか」「お世話様でございます」と言っていたなあ…。
退社で正解だし、左様で御座いますか、だし、お世話になっておりますなんだけどねえ。
ご飯のお代わりは一口ご飯を残して所望するのがマナー、というのは全く知らなかった。
それと、冠婚葬祭については私は今までまともな経験が全然無いので
へ~と思うことが多かった。こういうことって、まあお葬式は兎も角としても経験をつまないと
いくらマナーを覚えていても雰囲気におされてきちんとできないものだよなあとも思います。
一番感心したのが、ありがとうと失礼します、の話。
いやー、でもやっぱりノックして「失礼します」は言ってしまうよぉ…。
そういう上司の下にいたら別だけど…。
普通に就職活動の面接なんかで、「お時間いただきありがとうございます」は言えないよ…。
確かに「ありがとう」つていうのは、本当に少ない。そして、「すみません」で代用していることって
とっても多い。
読んだ後自覚してると、つい言っちゃってることのなんと多いことか。
でもまあ「(お手を煩わせて)すみません」という意味で使ってることが多いしまだしもかな。
プライベートでは結構ありがとういいますよ。
それと、西側ではありがとうって言い易いですよ。
東側、例えば東京で、「ありがとう」って言ったら、馴れ馴れしいなーって受け取られるけど、
大阪で「ありがとう」「おおきに」は普通に絶対必ずと言っていいほどみんな言うからね。
レジで釣銭を貰って「ありがとうございます」だと店員よりも丁寧で変だし、
「どうも」もぶっきらぼうだし、結局「すみません」って言ってしまう私。
でも考えて言っているだけまだマシと思ってください。(笑)
標準語の中に敬語や感謝の言葉って、めっちゃあらたまった場面ならいいけど
中途半端な場面だと入れにくいんだよねえ。と私は感じる。
関西弁だと、方言が既に「~してはる」とか「~していらっしゃる」って意味だし、
親しみ易く「ありがとう」「おおきに」ってぱぱっと言えるんだよね。
ああでも、気をつけよう。ありがとうでいい場面はありがとうを言うように気をつけようっと。
年齢は一応オトナの部類。でも、子供があるわけじゃない自分には、
父と息子どっちの気持ちも分かる気がした。
冒頭の手紙のやり取りの抜粋で既に、つい涙ぐんでしまった。
訊きたいのは、外人部隊に志願したいと思う心境。
が、然程重い意味があったわけではないようである。
それにしても、大学の授業のフランス語と習い事の空手で、軍人になろう
しかも外人部隊に、なんていう発想が凄い。
若さと書いてあるけれど、本人の資質によるところも大きいだろう。
違和感を感じたのは、大学に拘る父親の姿。
世代的にどうしてもそういうものなのかもしれないが、大学が大事だと懸命に語る手紙の文章に
理解できないものを感じた。
ただなにも考えないで遊びほうけてみたかった、という意味では大学へ行きたかったかも
と思うが、大学を卒業していない今、優秀なスタッフとして扱われて派遣されて仕事に不自由していない。
でも大学に拘ってしまう世代なんでしょうかね。
この雄一郎さんは「違う、父の思い過ごしだ」と言うけれど、
興味の無い学部に無理矢理行かされて、仕送りもなく、勉学は役に立たなくて
バイト先で学んだことのなんと大きいことか。
っていう感覚、私には物凄くよく分かる。
興味の無い学部、大学へ行かされて、金を散々使うと恩に着せられ、興味の無い仕事につくために勉強をする。
苦痛でしかありえなかったけれど、親は大学生、大学卒業という肩書きにとても拘った。
お陰様で、私はしなくてもいい苦労と回り道を10年させられた。
大学に行っていないことより、浪費した10年の方が私の人生にとっては重い。
人によっては、雄一郎さんが黙ってフランスヘ行ってしまった事を不思議に思う人もいるだろう。
でも、親が厳しい家庭というのはそういうものだ。
親は絶対に正しい。正しい親に育てられた子供は、絶対に間違ったことをしてはいけない。
だから、大学を卒業できないとか、ましてやサラリーマンにならず外人部隊に行くなんて
そんなことはとんでもない。
それでもそれをどうしてもしたかったら、黙って家を出るしかないのだ。
それ以外に方法は、誰がなんと言おうとも絶対にない。話し合いなんて絶対にありえないのだ。
厳しい親というのは自分が間違っていたかも、とは絶対に考えないから。
間違っていないという考えの親に少しでも事前に漏らして計画がばれて止められたら、
止められてしまったら二度とそれはできなくなる。
それくらい、厳しい親の家庭っていうのは親の存在がでかい。
親がルールだ。
だから、止められないためには隠すしかない。
これは本当に、それしかないことで、親という人間は、そこまできて初めて気付くか、
さもなければ親という『職権乱用』で子供が間違っていると吹聴し、子供を責めるかどちらかなのだ。
正直、外人部隊と言ったらエリア88のエトランゼしか知らない私だけど、
やっぱり軍隊って、軍隊じゃないですか。
戦争が無くても、軍隊でしょう。
志願したくなる気持ちは結構よく分かるけれど、実践してしまうって凄いと思う。
帰ってきてくれと再三繰り返される言葉が辛い。
無理を言わないと言う言葉自体が無理を言っているんだが、
お父さん本人は絶対気が付いていないのだろう。
なかなかやる、という妹の反応は面白かった。兄弟っていな。
外人部隊ってそんなに駄目なことなんだろうか?
時代とか土地柄の問題か?
そんなに誇れない内緒にしておきたいことだとは思えなかった。
まあ最後の方ではお父さんもだいぶ理解を示していたみたいだけど。
軍隊にいたことがあるおじいちゃんの反応は一番面白かった。
1通目は普通のお手紙。
2通目は伍長の心構えを書いて来ちゃうところがすごいな。
おじいちゃんの立場で、自分の孫が軍人になって
息子がそれを他言無用と言っているのを見てどう思っていたのかな。
『いざというときに』という文言に、きちんと”いざというとき”を知っていて、
経験していて、それが起こりそうなったら受け止める
おじいちゃんの気概に感動した。
フリーペーパーでレビューを見た時は、面白そうだと思ったんだよね。
日常を送っている主人公に、ふと舞い込んでくるとなり町との戦争のお知らせ。
この設定は確かに面白いし、奇抜でもある。
深い意味があるようでもある。
が。
正直、面白いとは言い難い。
戦争が、となり町という狭い範囲で起こる。
しかも主人公は日常を営んでいて、戦争の実感が無い。
その設定は確かに面白いし、言いたいことも分からないではない。
が、なんというか。今時のブンガクってこういうのなのかな。と思う。
『インストール』を読んだときと似たような読後感だ。
設定は面白い。でも、これで賞を貰うような文章なの?
これで何が言いたいの?
インストールに比べたら、まあ書いてる人がオトナな分、言いたいことはもうちょっと分かる。
んだけどそれがどうもわざとらしい気がするし、結局主人公と職員が恋っぽい雰囲気に陥っているのも
女の書く文章って結局こうなのかなと思わされる。
コンセプトは面白いんだけどなあ。
如何せん軽い。重みがない。その実感の無い軽さを描きたかったのかもしれないが。
そして男ってロマンチストではあるかもしれないが、こう都合良く女の理想通りに
飯を作ってくれたり恋に落ちてくれたり、黙って受身にセックスしてくれるような生き物じゃないと思いますが。
書類の写し(?)が挿絵代わりに挟んであり、よくできていて面白いと思っただけに、
弟が死ぬんだろうなとか、本意かそうではないかはおいといて彼氏か結婚相手がいるんだろうなとか
全部簡単に予想がつき、なにも裏切ってくれなかった。
これで新人賞、ねえ…。
う~ん…。
まあつまんなくはない。読んで損するわけじやないし、こういうのが好きな人もいるでしょう。
私はもっと重みのある、言いたいことが分かって伝わって、自分の身になるような文の方が好きです。
なぜなのか図書館で戦争の資料のところにこの本があって見つけたので読んでみた。
タイトルの奇抜さで一気に広まったのだと思うけれど、実際読んでみなさんはどう思ったんだろう?
バカの壁、という言葉はとても面白いと思う。
全体的に、分かりやすいとも思う。
なんでまたあんなに流行ったのかと思う部分もあるし、
あれだけ流行って多くの人が読んだのなら、これを読んで考えた方が結構変わったんだろうか?
とも思う。
y=axの公式は面白かった。
私は意識の世界は割と大事に考えている方なので、百パーセント納得、というわけではない。
が、幼稚園のときにふと思って、でも誰も同意してくれなかったことが
偉い学者先生が貨幣論として本を出していたりするのだ。
やっぱり疑問なことだよな?と思ったりしてすっきりした。
犯罪者の脳など、色色と興味深いこともあり、やはり脳というか人の体とは面白いなと再認識した。
こういうのが日本だなあ、でも現代の日本には限りなく零に近くなっているものだなと思う。
こしても、どうして日本史で日勤争がこういうものだって教えてくれなかったんだろう。
受験に関係なくても、すごく重要なことだし、興味をこれだけ抱いたら年号だって暗記するのが苦じゃなかっただろうにと思う。
敵の砲撃に遭って伍長ひとりしか残らなかったのに、生き残った彼はたった一人で砲を撃ちつづけ、
その音に皆が励まされたであるとか。
薙射の姿勢のまま全滅した部隊であるとか。
軍人でないのに命をかけた人たちまでいる。
昭和9年まで国民も知らなくて、海軍も重視しておらず慌てて表彰したというけど、
と間違われたから無事ロシアに捕まらず済んで、軍艦を見たと報告したのに
偉そうな態度取られて印鑑まで作らされて、それを怒るどころか大切にして、
命をかけて国のためにしたことの証だと子孫に伝えた人。
そしてその文書の電報を打つために、施設のある場所まで命がけで航海した5人の人たち。
機密だと言われたから奥さんに行き先も告げず、戻ってからも何も言わなかったなんて。
国のために。なんの見返りも求めずに。
今日本が、憲法の問題とかそういう話はおいといて戦争になったとして、
それが日露戦争並に、戦わなければどうしても守れない戦争だったとして、
国民がこんなに国のために頑張れるだろうか?
「愛国心とか言葉の意味自体わかんないしー」とか言うパーギャルばっかじゃん。
戦争が起きたって関係無いって思うだろうし、できることも無いだろうし。
インテリデンツァたちはそれはそれで、憲法がどうのとか、自衛隊がどうのとか
そういう議論ばかりしていそうだし。
変な団体はきっと正論を振りかざして、戦争反対と叫ぶだろう。
いや、戦争は反対なんだけども。それはもちろんそうなんだけど。
てもそうなってしまったとき、どうする?
首相が開戦を決めたとして、それに国民は従えるだろうか。
従えるほど、開戦止む無しの戦争だと思えるきちんとした判断を下すリーダーを首相に選んでいるだろか。
選んでいない気がする。
自分の命を捨ててでも守りたいものはある。でも、それを賭けられる政府や国だろうか。
私が守りたい日本は、桜や紅葉、美しい山河、そこに生きる愛する人たち。
けして政府の要人じゃないし、警察に「印鑑作って来い」って言われたらぶちギレるだろうなあ。
「拇印でいいだろう。っていうか印鑑作らせるならおまえが金払え!」って思いそうだし
そんなに従順に政府という国に尽くしてあげようという気にはならない。
それに、核を持たず、自衛隊という『軍』しか持っていない日本が、核もいろんな兵器も軍隊も持っている
国と戦争なんかして勝てるとも思えない。
戦争をしない、と言って武器も持たないでいるけれど、それで国を守れるんだろうか。
兵役もなくて、みんなが自分には関係のないもの、と思っている防衛の力は、役に立つんだろうか。
イラク派遣のときみたいに、現場の人は板ばさみになって孤立したりしないだろうか。
自覚もなく力も知識も無く、頭上に砲弾が降って来たとき、戦うどころか逃げることすら叶わない気がする。
戦争ってなんだろう。
どうしてなくならないのかは、なんとなく分かる気がする。
戦国時代に生まれ変わるなら武士!と言っていた私。
先祖が武士らしいから取り敢えず武士!っていうノリもあるにはあったけど、
やはり清く正しく美しく、必死に生きたいと思ったから。
まあ武士をかなり美化してるところがあるってのは認めるけど。
そんな自分としては、どうしても戦争が起きるなら、前線に行きたい。
だけど、今の近代のゲーム感覚で仁義の欠片も存在しなさそうな戦争で前線に出るのは嫌だなあ…。
香田証生さんらを殺害したアルカイダのリーダーが、米軍の空爆で死亡したというニュースを見た今日。
思うことはいろいろと複雑です。
でもこれも運命と思って、表紙を見て、中身をばらばらと見て、借りてみた。
結果、とても良かったと思う。
何故迷ったかと言うと、戦争を経験した人の自伝のイメージの悪さ。
どんなにひどい環境で、どんなに自分が頑張ってきたか。
ひたすらそれが書かれて、接していて辛くなったり気持ち悪くなったりする。
というのは、自分の想像力が旺盛なのが悪いのかもしれないのだが。
小学校二年生のとき、学校で戦争のアニメ映画を見せられて、今思えば今ほどの質もなく
ちやちな作りだったのにも関わらず、私を含め特に女の子たちは泣くわ気持ち悪くなるわ。
私は確か耐えて前編を見て、家に帰ってあまりの受けたショックに親にも言えず、
目を閉じるとまざまざと映画のシーンが浮かんできて声を殺して泣いていたのを発見された。
で、そんな子が多かったらしく、後編については見たくない人は見なくてもよいということになった。
男子は「すげえ、目玉とびててんぜおもしれ~」なんて言って大喜びで見ていたものだけど。
そしてその後に班ごとに描かされた戦争反対のポスターも、結局赤や黒のクレヨンばかり使って描いた覚えがある。
幼い私の中に植え付けられた戦争は、悲惨と恐怖だった。結局それしか残らなかった。
それ自体はけして間違ってはいないのだけど、それが恐くて私は知ろうという作業を自主的に
しなくなった。恐くてできなくなった。
若い人が戦争のことを年配者に語られることを毛嫌いするのは、押し付けられてやるからなのと、
よく分からないけど兎に角恐いし、悲惨だし、またそう思わなければならないもの、だからではないだろうか。
この本を読んで、そのイメージが少し変わった。
何が違うのかというと、悲惨とか痛みとかそういうことはもちろん描かれてあるのだけれど、
結局はその中で返しく生きていて、自分が可哀想だと喧伝したいわけじゃなくて
ただ事実を知って欲しいというそういう姿勢が伝わってくるからではないだろうか。
波乱万丈とはこういうことを言うのかとも思ったし、辛くて涙も出れば、嬉しくて涙も出た。
作り物の小説に負けない『面白さ』があった。
そして悲惨だということしか伝わらない戦争映画よりもきちんと事実が伝わってきた。
例えば、焼夷弾の恐さを初めて理解できた。
なぜあんなにすぐに燃え上がるのか、いくら布や紙や木だからと言って、火の粉ひとつで
一瞬で火達磨になってしまう映画の描写の意味が理解できず、ただ恐かった。
川に殺到して亡くなった人たちの写真を見せられても、恐いとしか思わなかった。
分からないものに対する恐怖だった。
しかし、油が飛び散って沌みていればそれは燃えるだろうと納得もしたし、
呼吸するだけで肺が焼ける熟さを想像もした。
それで抱いた恐怖はきちんと理解した上での恐怖だ。
戦争って言ったら取り敢えずおとなしく泣きそうに鎮痛な面持ちで聞いていたらいい、
そういう今の日本社会の雰囲気が、私は少し違うと思っている。
鎮痛な面持ちでいることも大切かもしれない。でも、その中で強く生きた人、今も生き抜いている人
その強さの前でただなんとなく流されて弱々しくしおらしくしているのって正解だろうか。
それって結局個々の人格を無視して、押し付けられた形骸を、やはり形だけ見ているだけじゃないだろうか。
戦争というよ拒否反応を取り敢えず示すことが、戦争を放棄した日本の優等生な態度だと勘違いしては
いないだろうか。
私はどちらかと言えば体験主義で、でもどうしても体験できないものは想像力で補えるとも思っている。
そのためには経験者から話を聞いたり、映像や写真などで見ることが必須なわけで、
だからアニメ映画を8歳の時に見たのも間違いではないんだけど、それにしては8歳の子に
理解できる内容よりも、どぎつい描写が多かった。今で言ったらR15とかになるんじやなかろうか。
やっぱり事実を知るっていうのは大切だ。知った上じゃないと意見なんて言えない。
そしてその事実は沢山、例えば第二次世界大戦、と言ったらその時代に生きて参加していた人の数だけ事実がある。
戦争が悲惨だったという人もいれば、かっこいい服着せてもらって楽しかった、という人もいる。
そんないくつもの事実を知って、自分の中で消化していかなければ、私のような戦争を知らない世代が戦争を知ることは難しい。
ただ悲惨なものとして語られても、なかなか入ってこないものだ。
これだけ『面白い』ものならば、誰しも知ろうとするし素直に受け入れられるだろうと思うのだが。
『戦争はいけない』ということは何度か教えられてきたけれど、戦争がどういうものか、
戦後がどういうものかを、「可哀想だったんだよ」という言葉以外で教えられたのはこれが初めてのような気がする。
戦争は悲惨で、人は迄しく、美しく、こんなにも儚い。
不思議だ。
それにしても、戦争というのは、なくすことってできるんだろうか。
戦争の悲惨さなんて、分からないはずがない。
分かっていなくても、実際に戦争に立って、身の危険にさらされながら人を殺していて
ぐったりこないはずもないと思う。
それでもなくならない。
戦争をしようと決める人が、戦争を生身の体験として知っていたらやめようと思うだろうか。自分が前線
で戦わなくちゃならないとしたら。
それとも、それでも利害関係であったり宗教とかプライドのために、戦いを決めるだろうか。
政府に言われてわけがわからないままに、もしくは自分の意志とはまったく違うのに戦争をする
ということは普通にある。例えばイラク戦争のときのアメリカ兵とか。
戦争ではないけど自衛隊であるとか。
上官の命令に叛けないから、戦争を起こさないことはできない。
ならばこれが自分の身近に、こいつを倒さなければ自分たちが危ない、という戦争だったとしたら
尚更やめることもできないだろう。
戦争の反対は平和。国語のテストではそれが正解だけれど、そんなことはありえない。
平和だったら戦争がないわけもなく、戦争だったら平和がないわけでもない。
現に地球のどこかで戦争が起きていても、どこか別のところでは平和がある。
戦争の反対は話し合い、と言った人がある。これはかなり正しいと私は思う。
しかしながら話し合ってもどうしても解決しないことっていうのは世の中にはたくさんある。
それを、放置しないで解決するにはどうしたらいいのか。
考えれば考えるほど、戦争がなくなることなんてありえないような気がしてくる。
戦争が楽しくてやりたくてやる人っていうのは、いるとは思うけれど割合としては少数派であるはずだと思う。
それでも戦争は起きる。
今この間にも。
そして人が悲惨な思いをするのは戦争だけじゃない。
逆にいえば、だからこそ戦争が起きるのかもしれないと思う。
毎日忙しさに追われていてそんな暇が無い気分になって、
結局は動物実験をしていないメーカーの化粧品を選ぶだけに終わっていて、それはそれでいいんだけど
料理が好きなら、同じように化粧品も手間暇かけて自分で作ったら楽しいんじゃないの?
と思い。
表紙が綺麗だったこともあって図書館から借りて来ました。
キッチンでつくると言っても、材料が全部キッチンにあるものじゃなくて、
クエン酸とかグリセリンとか苛性ソーダとか、いろいろ必要なものがあるし
買出しに行けて無くてまだ何一つ作ってないんだけど、読んでるだけで楽しかった。
ココアとかオートミールとか、ちょっと え?って思うのも普通に使えるんだ~っていう驚きがあった。
レシピはメモしたんで、是非チャレンジしてみたいな。
実際にはそれよりももっと多くのものと戦わなければならない。
兵力の足りなさや、それに対する下からの不満、この戦いが正しいのかという迷い、
飢餓、母国の情勢、政治、その他諸々。
心情として日本側に肩入れして読みがちではあるけれど、ロシア側の事情も
綴られており、やはり感じることが多い。
戦うというのは一体どんな気持ちなのだろう。
しかも、命をかけて戦う、というのは。
相手のことを知っていて、顔を見て会話もした仲でも殺しあわなければならないとか。
つい悲惨なことばかり考えてしまうけれど、戦士たちは自分の誇りにかけて
手を抜かずに相手と戦うことが相手への手向けになるとして、必死で戦うという場面を多く見る。
大切なら戦いたくなくなるのではと思ってしまうけれど、そういう簡単なものでもないらしい。
スポーツですらまともにやったことがないのに、
ましてや命を確実にやりとりするための駒として出る戦争なんて経験したことがないから
本当に全然分からない。
でもなんというか、うまくいえないけれど、惰性や悲しみばかりではなくて
昂揚もあるのだなと思った。
『戦場での敗者の泣き言』でしか戦争を知らなかった私には、思うところが多い。
しかし、表紙に使われている、柳田氏が実際にとったという日本語の走り書きのメモがとても生々しい。
表紙に26日と書いてあるし、本なので残りのページ数から察することもできるし、
ご本人の著作だから、またはニュースで見たから無事解放されるということを知っている。
だからこそまだしも読めるが、それでもたたない日数、もたらされない解放のニュース、
にそわそわしながらページを繰った。
殴られたり拷問にあったり、そんなひどいめにはあっていない。
自炊し、穏やかに生活しているようですらある。
しかし、何も悪いことをしていないのに疑われて逮捕される、それだけで既に
充分ひどいめにあっているのである。
この手のニュースが報じられたときの日本国民の態度に、私は疑問を感じてきた。
拘束されていなかったのなら大丈夫だったのでは、平気だったのでは、恐くなかったのでは、
やらせだったのでは、自分で逃げられたのでは。
危険だと知っているのに行ったのだからほうっておけばいいのに、税金を使うな。
などなど。
私は真っ当なクリスチャンではないけれど、ある聖句が思い浮かぶ。
「あなたがたで今まで一度も罪を犯したことの無いものが石を投げなさい」
(いや、一語一句この通りか自信は無いんですが)
罪のある女、に対して石を投げていた人々に対して、
イエスが言った言葉である。
多分、拘束された人たちに対して、
「無事帰ってこられて良かったね」
じゃなくそんな言葉を投げつける人たちは、多くが戦争を知らない。
頭の上を戦闘機が通り、いつ空爆されてもおかしくなくて、逃げる自由もなく
窓が塞がれただけで気が滅入る。
そんな状況がわかっていないと思う。
斯くいう私だってわからない。経験したことなんてない。
しかし、想像力がある。
人間には、それがあるはずなのに。
想像力など無ければきっと恐い物など無いと同じ
経験値も想像力も無いから、恐い物も無いと感じるから、誹譲中傷も平気で言えるんだろうと思う。
なぜ戦地へ入るのが行けないんだろう?政府が迷惑そうに、いくなってコメントしていたこともあったっけ。
でも、命は自分のものだ。親兄弟に止められるなら兎も角、自分ひとりの命を自分ひとりの判断で、
天秤にかけてそれでも大事なものがあるから行きたい、と思う人を、どうしてとめられようか。
見捨てられないとか、命は大事だとか、そんなエセヒューマニズムで、
心底心配するのじゃなく批判するぐらいなら、
煙草を吸ってる人とか車に乗ってる人とか、いくらでも
『危ないと分かっているのに自分の命だからいいのだと周りの迷惑を考えずに行動をしている人』
はたくさんいる。
命をかけて自分の天職を真っ当しようとしている人だって、ジャーナリストの他に
格闘家とかドライバーとか、たくさんいるのに。
なんでセナを「危ないと分かっていて止めた人もいたのにやって死んだんだから自業自得だ」
と言って、セナの家にカミソリを送ったりする人がいなかったの?
違いが分からない。
ましてや柳田さんは、何度か「政府の助けはいらない」としている。
あんな節操の無い国に助けてもらうなら死んだ方がマシ、というようなことも書いているし、
外交が下手糞でごり押しして余計助けにならないようなことをしているくらいの日本政府。
なのに、助けてやった、って態度をするんだろうなあ。
ミッシェルさんの場合は、会社が取材を止めることは無かったし、実際捕まっても
できる限りの、しかも意味のあることをきちんとしてくれている。
日本は、止めるは逆効果なことするわ、ありがた迷惑なのに勝手に助けて感謝しろといった挙句
マスコミと一部の馬鹿な一般人が税金の無駄遣いだと攻め立てるわけだ。
なんていい国なんだか。
本当に、平和ボケしてるんだな、と思う。
想像力を使う必要性すらなくなってしまったんだろうか。
戦闘機が真上を通る恐怖と、それに加えて取材もできないことが無念だったろうと思う。
でも、これもまた経験、として必死でメモを取り、ちやんと本も出してくれるところが
やはりプロだ、と思うし、お陰で私たち一般人も、そんな貴重な危険を垣間見ることができる。
正直、いくら読んでもなんで戦っているのか分からない。難しくてピンとこない。
なぜそう感じるかと言えば、日本は『単一民族国家』だからなんだろう。
っていう表現は、本当は違ったろう、でも忘れてるだろう、っていう意味合いなんだけども。
今現在抗争が耐えなくて、それぞれにプライドがあって、私は何何民族、っていう自覚があれば
大分理解もすすむんだろうけど、日本人、としか思えない私にとっては
民族間の争いがどうしてもちゃんと理解することができないんだと思う。
タリバンといったら凄くマイナスイメージしか自分の中に植え付けられていなくて、
イメージがとても違った。
更に、タリバンと一口に言ってもいろいろな人がいるわけなのだし。
こうやってそれぞれの「顔」が見えてくると、結局戦う理由なんて消えていくんだと思う。
政府が決めたら仕方無い、部分もあるとは思うけど、互いを憎みあって、っていう戦いは
薄れていくと思う。
戦争を訴えるところから、どうしたら戦争を無くせるか、を訴えようとして見事に監督と脚本が甘く
失敗というか大失態を来たしたガンダムSEED DESTINYだけど、
その構想を聞いて歌を作ってくれたSEE-SAWさんの、君は僕に似ている、
そうした共通点を見つけていけたら戦争は無くなるかも、というのはかなり核心をついた
名曲だと思う。あのアニメにはもったいないほどに。(声優陣とかみんなもったいなかったがな!)
どうしてこんなにも分かり合えるのに、戦友なのに今は敵味方に別れたりして
戦いは起きるんだろう。
結局それは、戦場にいる人間よりも、日本政府みたいに戦場を知らずに
好き勝手やって下手な外交している人たちのせいで、戦争が起きるんじゃないのかな。
アフガンにしろイラクにしろ、結局アメリカのプライドで起こした戦争で、
何かを得た戦いではなかったと思う。
町全体にかみそりの刃が舞っている感じ
という緊張感についての表現があったが、正に身を切られるような極度の緊張だったと思う。
一瞬でもそんなものにさらされて、そしてその覚悟をして旅立って、
しかも観光ではなく仕事だったり使命だったり欲求で行っている人に対して
尊敬こそすれ批判なんて私には到底できない。
で、手に取ったら著者があの橋田信介さんだったんで、運命を感じて借りてきた。
なんていうか、こういうタイトルって一歩間違えばすっごい安っぽくてアホで終わるんだけど、
橋田さんみたいな人が、こうやって使うのは、面白いし意味深にもなるわけで。
冒頭は橋田さん、宮嶋さん、勝谷さんの対談。
あっけらかんとした感じ。衣着せぬ感じが気分いい。
金儲けがしたい、とか、仲間が捕まったら儲けもの、とか。
人間の盾に対して、平和を叫ぶのが胡散臭いみたいな話は、すっごい腑に落ちてしまった。
正しいこと、なのになんであんなにうざったく重たくうそっぽく感じるのか、なんかすっきりしてしまった。
自衛隊を出すことの国益を説明するべきって、本当だなと思った。
国益、っていう言葉がすっと出てくるのがすごい。
愛国心とか『国』ってつく単語って、最近変な使い方や受け取られ方をすることが多い中、
ストレートにばんっと入ってくる。
本当に、あの当時いろいろなことを思ったけど、思っていた自分が間違ってなかったって思えた。
国益を考えてる国民がそもそもいないから、自衛隊派遣を単に戦争反対・賛成でしか論じられないって
ことかもしれない。
日本はアメリカの番犬。でも政治力も軍事力も無いからただのスピッツ。
あまりに秀逸過ぎる表現だ。まったく本当だ。
フランスに電話してアメリカに協力しようってほざいたなんて、知らなかった。
知らなかった私も日本国民として失格なんだが。しかしそれにしても。なんて政府だ。
戦場から日本のテレビ局に電話をかけていて、こっちは銃弾の音がひっきりなしにしているのに
電話口ではおっとりと上品で丁寧な受付嬢が電話を取り次ぐ。
若い頃なら何かに苛立っていた場面、というのも、なんというか実感がこもっていて
わかるわかる、と簡単には言えない重みがある。
くるちゃんが、音楽が一番好きだけど、ボクシングが好きな理由に命のやりとりで、勝敗がはっきりする
っていうのをあげていて、そこが音楽とは違うところだって言ってたことがある。
命という-番大事なものをやりとりする現場だから尊いっていう記述を見て、それを思い出した。
戦争って面白いとか、かっこいいとか言ったら凄く極悪人みたいな雰囲気の平和ボケ日本だけど、
でもやっぱり面白かったりかっこよかったりする側面って絶対にあると思う。
人間の盾のおばさんになじられ、命令だからと答えた米兵。
しかしブッシュの政策には賛成か、と著者らに訊かれると、きっぱりと反対と答える。
湾岸戦争のとき、テレビで見ていてアメリカの兵隊が、
「戦場には行きたくないし、死ぬのも怖い。でも、政府が決めたら俺は戦場へ行く」
と言っていて、まだ子供だった私はなんだかびっくりしたんだ。
怖いなんて感情、排除しているか、排除したふりしている人が兵士になるんだと思っていたから。
兵士個人の意見がしっかりある、っていうのも凄いし、でもそれを黙殺して従う、というのもやはり凄い。
そうして大義名分のために個を殺して軍隊として動いている人を捕まえて、
公の立場の人に個の立場で個の意見をぶつけて
「何人のイラクの人が死んだことか!」
と叫ぶのは正直見苦しい。
そんなこと、このなじられた兵隊だってわかっているし、やりたかったわけじゃない。でも仕方ない。
それにこのおばさんは、じゃあ代わりに米兵が死ねばよかった、それならハッピーだって、いえるんだろうか。
こういうところに、ボランティアとか団体の胡散臭さ、疎ましさがあるのだ。
どこまで本当に覚悟があったかは兎も角としても、本当に命をかけて戦場に来ているのに、
それが尊く素晴らしく、誰もがつい賛同したくなるような内容に見えないのはこういうところにあると思う。
一日に何人のイラク人が死んだのか、という記述で、
日本の一日の自殺者の半数というのを見て驚いた。
日本も目に見えない戦場で、ある意味ではイラクよりも深刻な戦況なのだ。
でも、戦争は可哀想、で、国内のそういった問題はほとんどメディアにもボランティア団体にも
取り上げられることは無い。
『戦争と戦場は違う
戦場の悲惨さを語るのは泣き言
戦場にいる者が戦況を語れる。しかし戦争を語れない。』
凄く心に残る言葉だった。
そうなのだ。戦場である以上、悲惨でないはずがない。当たり前の事実をさもひどく語って、
だから戦争は駄目なんだよ、といわれることがなぜあんなに重くうざく感じたのか。
初めてわけが分かった気がした。
確かに戦場にいるものがそれを語ることができる。逆に、いない者には語ることができない。
語ってほしくも無いし。
だけど、飴く迄語れるのは戦場のことであって、戦争を決めるのは政府のすることだ。
戦場に出かけて、戦場にいる人に戦場の惨状を詰ったって仕方が無い。
詰るのなら戦争を止めなければ。いつも言葉は「戦争反対」だけど、やっていることは戦場反対、だ。
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」
って言う青島くんに、沖田さんが
「事件は会議室で起きてるのよ」
って言うけれど、これはある意味であたっている。
正確に言うと、事件も事件を解決しようとする動きも現場で起こっているけど、
それを指揮するのは会議室で起こっている。
現場に行って一生懸命やってる青島くんに、
「とろとろしてるから犠牲者が増えた、どうしてくれる」
って言ったって仕方ない。
青島くんだってそれが嫌だけど、さっさと逮捕しちゃいたいけど上からゴーサインが出ない。
だったら、会議室に乗り込んで早くゴーサイン出せよ!って言うしかない。
それは時として、現場行って無理矢理やったもん腕で逮捕しちゃうのだってありなんだけど、
現場の人間を責めるのはちょっと違うのだ。
けしかける方は、それでけしかけられた人の人生の責任までとってやれない。
会社をクビになったり、軍で処罰されたり、脱走して追われたり。
況してや戦争を決めている政府の人は・国民が選んだ代表なんだから。
本当は、戦争反対だけど政府が勝手にやってることだって言いたいし、実際そうなんだけど、
でも選んだ責任が結局自分たちにあるわけで、それを戦場に押し付けたり
戦場の悲惨さを訴えていても結局根本的な解決にはならない。
取り合えず、日本人だっていう自覚を持って、変な意味じやなく愛国心を持って、
政治に関心を持って、どんなに小さくてもできることをやっていかないと駄目なんだよな。
政府は相手にするにはでかすぎるし、なかなか聞き入れてもらえない厄介な存在ではあるけど、
だからって黙っていたら何も変わらないのだ。
そう思う。
誤解を恐れずに言うけれど、本当に面白い。
こんなものだと知っていたら、学校での勉強はもちろん、戦争を知っている人からの話だって
若い人たちはもっと嬉々として聞くだろう。
悲惨なことはもちろん悲惨だし、人を殺すことがいいことだなんてもちろん思わない。
それが戦争という状況の中でも、哀しいことだとはもちろん思う。
飽く迄小説であり、この全てが絶対に寸分違わず事実だ、とは思わないけれど、
それにしても面白い。戦争のイメージも変わったし、日本の軍隊へのイメージも変わった。
まあこれがもっと近代の戦争であれば、ここまで面白いとは感じないのかもしれない。
武士道とか騎士道とか、そういったものが色濃く残っているところに感動するのだ。
命を顧みず突撃する勇猛さであるとか、敵将の遺体を勇猛さに感動して葬るであるとか。
休戦の日、敵軍の将と出会い、敬礼をし合って菓子まで貰うとか、
降伏すると決まったとき、この凄惨な戦いが終わったことを敵味方入り混じって抱き合い喜ぶ。
滑稽にすら思えるほどに純粋で、強く、勇ましく、道の精神に溢れていると思う。
正直、水滸伝に求めて全然出会えなかったことが、ここにたくさんある。
国家から義務づけられたのでない限り、
人間は本来武器をとって殺し合うことに向いていないことを証拠だてるものであろう。
という司馬さんの一文があった。
本当にそうであろうか?と少し思った。
戦時下でも殺し合いをしたくない、と、それをしなくてはならない大義名分が終わった時
敵味方抱き合って喜んだというのに、
今の日本は、特にここ最近、子供が殺されたり襲われたりする事件が多くて気が滅入る。
それはまあ、殺し『合い』ではないので、違うといえば違うかもしれないけど、
対等でないだけに余計に惨めで惨たらしい殺しだ。
そこには武士道精神も馬奇士道精神も微塵も無い。
AIRの歌詞じゃないけれど、本当に私たちはここで振り返る必要があると思う。
そうじゃないと本当に、日本はプライドも何も無いただの属国になってしまうから。
いや、今でも結構充分なっているんだけど。
私にはとてもそうは思えないんだな、これが…。
う~ん…。
想像というか、期待していた話と違うらしい。
いくら仲間になって欲しいからって、拒否している人を無理矢理仲間に引き入れるために
その人の平穏な生活を取り上げて後戻りできなくしておいて、
「だから仲間になりなよ、どうせ戻れないんだし」
っていうのは、義理堅い人のやることじやないと私は思うんだけどなあ。
況してやその犠牲に殺された無関係な人とか、すっごい気の毒だし。
そんなんならやってることはただの人殺しだから、人殺しだ盗賊だ言われて
腹立てる方が筋違いっていうか…。
って、思っちやうんですよね、私は。
お国柄というか、文化の違いなのかなあ。
と思ったものだけれど、それと近いことを思った。
黄金比。そんなこと全然知らなかった。
でもすごく無機質な理論武装したような数字が、こんなにロマンチックで神秘的な秘密を秘めているとは。
ただそれ以外の大部分は、ちょっと怖い。
キリスト教を富っているせいなんだろうか。すごく怖いと思いながら読んでいる。
ので、シラスとかのシーンになると怖くて仕方なくて、ラングドンたちのシーンに早く戻ってくれ、と思う。
基本的に文字が大きいから、上中下三巻って言われてどんだけ長いんだと思ったけど
実は結構そうでもない。多分3時間くらいで読めてるんじゃないのかな。
ラストがちょっと肩透かしというか、さくさくあっさりでさしたるどんでん返しもないけど
感動したりほっとしたりもしたので良かったなと思う。
読んでいる最中に思ったし、解説でも似たようなことが書いてあったけど、
私みたいな信者ではないがキリスト教の知識はそこそこある、というポジションの人が
一番この小説を楽しく読めるのではないかと思う。
楽しくというのはhappyではなくてinterestingだけど。
そして聖杯伝説を信じる者にとって、『ここ』が新たな巡礼の聖なる地になるのではないだろうか。
本当かどうかは兎も角として私は行って見たいし、行ったらきっと脆いて祈ると思う。
私が聖書に抱いている播りの部分が、後から作られたもので
本当の『キリスト教』がこんな感じなら、私は純粋に洗礼を受けてもいいと思う。
中学生の頃、一時期本当に洗礼を受けようと思ったこともあるし。
人として偉い人で、頑張って、そして最愛の妻と娘を残して死んでいった人
ならば、父の子で処女から生まれた人
よりも親しみがわくし、信じるというか、素直に称えられるなと私は思うのだ。
BAMから、真保さんのミステリーとどっちが面白いかと訊かれて、
どっちも真実に基づいているという意味では同じだからどちらも面白いと答えたけど、
ただ真保さんにミステリーは人が死なない、死んでも少数、とかな点が私にとってカルチャーショックだった。
ミステリーといったら不可解な殺人事件が起きる、次々連続殺人が起きる、それを解決。
っていうパターンしかないと思っていた私にはショッキングだった。
それを思えば、ダンのこの本も人がたくさん死ぬ典型ミステリーであるとは思うな。
やっと順番が回ってきた本。とは言え、これより前に予約したのにまだ来てないのも沢山あるんだけど。
正直言って、ちょっと書き方が臭い。
香恵の天然ボケであるとか、伊吹の恋の悩みとか、いかにも男の人が想像で書いたという感じ。
嘘っぽくてわざとらしい。
でも何故だか伊吹の子供への愛情についてはじんとくるんだよなあと思っていたら、
あとがきまで読んで理解できた。
以降ネタバレ。
始まり方から何から、ちょっとわざとらしい気がする。
公募に素人がこれを書いたら、批評家先生たちに酷評されそうだ。
初めに意味ありげにノートから始まり、自分の部屋を見上げる男。
そしてクローゼットにあるノート。
もうこれだけで、お話の骨組みが見えてしまう。
伊吹のノートであり、そのノートかもしくは伊吹の住んでいた部屋だと思って
男、つまり隆は見上げているわけで、
となればなんのひねりもなく、タカシではなくてリュウなんだろうと思っていたら
やっぱりそうなんだよね。
パーティの一言で、伊吹が伝えられなかった言葉を伝えるのはいいけど、
あまりに長く間延びしてしまうし、こんなのを暗記しているとも、ぱっと出てくるとも思えない。
可能性が高いだけで、絶対間違わず隆=石飛かどうか分からないのに、
のろけ的な台詞まで読み上げられるとすごくどうかなと思うし。
ラストのマンドリンだって、ケースだけなんていくら天然でも、CDとわけがちがうんだから
軽すぎて気付かないかなあ。
パーティぶちこわしだし。
伊吹は死んでるんだろう、とは冒頭から思っていたけど、やっぱりそうだったのでがっかりした。
しかも、病気予想だったので、事故なんて…と思った。
それでがっかりして落ち込む香恵の気持ちは分かるけど、だからって鹿島さんを殴るか?
筆者も、鹿島をどういう男として描こうとしていたのかぴんとこないなあ。
あとがきを読んで、伊吹のところだけ一部事実だということなので、いろいろ納得した。
筆者の思ったことがそのまま出ているんだけど、筆者が男で主人公が大学生の女で
しかも恋愛を女視点でからめてあるからちょっと嘘ぽくてわざとらしいんだよな。
まあ男はロマンチストで女は現実主義ですからね。こうなっても仕方無いか。
先生としての伊吹にはじんときたし、生徒の言葉にもじんときたけど、それは真実の重みだったんだな。
ただ、香恵の万年筆の話と、伊吹の日記も万年筆で書かれている、というところは
ちょっとしたサプライズだった。表紙ともつながるし。
正直万年筆はそこまで詳しくはないけれど、文房具好きの私には親しみがもてるし
知っているメーカーや品名もいくつかあったし、文房具店での接客という舞台にも馴染みがあった。
それに、私も香恵に近い万年筆との出会いを持っている。
初めて日常使える私だけの万年筆、というのを手に入れたのは、中学の入学祝だった。
片思いしていた男の子のお母さんが、モンブランの万年筆をくれたのだ。
正確に言うと、シャープペンとボールペンとのセット。
制服のポケットに入れて大事に使っていた。
家が近かったんだけど、親同士どう仲が良かったのかあまり知らない。覚えてないというか。
大抵地元の中学にあがる中で、私と彼は数少ない私立入学者だった。私が行ったのは女子高で、
彼とは別で、一度近くのスーパー(なんてムードのない)でばったり会って挨拶したきり
小学校卒業以降一度も会っていないんだけど。
それでも頂いたモンブランはちゃんと大事にしていた。
万年筆が-番好きだった。インクのむらで、一筋の線にもなんとも言い様のない味が出るのが
凄く好きだったんで、適当に書いても字が綺麗に見える、という香恵の万年筆が好きな気持ち、
かなり私と近い気がする。
実家に置いてきたままなので、新しく万年筆を買おうかな、と思わされた。
こんなにうまくいくかよ、とついつい歪んだ心で読んでしまい勝ちですが、
そしてそれがそんなに間違ってもいなくて、絶対回りの教師や親からもっとなんやかんやと
言われるに決まっているとは思うんだけど。
学校が純粋に楽しい、そう思ったのは小学校だけだった。
5,6年のクラスが最高だった。今でも夢に見たりする。それを思い出した。
給食で余ったパンを鳩にやっていて、パンももったいなくないし、鳩も喜んでるし、
何より私たちみんな喜んでいて楽しくやってたんだけど、階下の先生から
不衛生で非常識だ、と職員室でクレームがきたらしく、以降禁止となった。
鳩も突然なにもくれなくなって、びっくりしたことだろうと思う。
今の世論から照らし合わせても、鳩が増えるとか不潔とか言って階下の先生の意見が勝つんだろうけど、
私たちは鳩を可愛がっていたし、うちの小学校って動物を飼っていなかったし、
昼の後に覚えて飛んでくる鳩が可愛くて賢いと驚いたし、そんな意味での勉強にもなっていたから
すごくがっかりしたものだった。でもそのときの担任も、私たちと一緒になって
そんなみみっちいこと気にしなくたっていいのにねえと一言ぼやいてくれただけ、大分気分が楽になった。
そういうものじやないのかな。人間って。子供って大人が思うより大人だし、大人って子供が思うより子供だ。
自分の教え子が進級して受け持ちが代わったらすごく良いクラスになって悔しくて、
とりあえず文句をいうきっかけを探していてそれが鳩だったり、
え-と思いつつも正論だし職員室での立場もあるし、わかりましたと言って子供たちにもやめさせるけど
諾々とそれに従いたいわけじゃないんだ、っていう一言があるだけで、担任の気持ちも分かるし
自分たちのがっかりに大人が同意してくれるだけで気持ちって変わるものだ。
なんか、そういうことを思い出した。
登校拒否になって、クラスで話し合いとかして、家庭訪問もして、必死で熱血してても
登校拒否してる生徒本人にうざがられたりもするし、それは仕方無い。
正直実際、頑張るのが眩しくて辛くてこの君代ちゃんみたいに学校に行けなくなってしまった子には、
やる気満々で接してくれればくれるほど、眩しくて息苦しくて逆効果なんだし。
なんか全体的に辛口みたいですが、でも面白かったです。
純愛とか言って韓流ドラマ見てるより、よっぽどこういう純粋なわざとらしいくらいの
感動させるために書かれた物語の方が面白い。
全然行けてなくて、やっと先週電話して今日行ってきた。
もう、すんごい髪切ってなくて重くていらいらしてたし。
20:30を指定されて、10分前に行ったんだけどそれでも待たされて早かったかな~と思ったら
結局1時間くらい待たされた。
でもその問何度か顔出しに来てくれたし、コーヒーも出してくれたし、他のスタッフも親切だし
全然不快感は無かった。
終礼らしきものをやってる間にシャンプーしてもらい、掃除したりマネキンの髪をカットしてる人のいる中で切って貰う。
でもブースは別だったし別に気にならなかったし
そういう雰囲気とか、一度切った後上の人を呼んでアドバイス受けてるのとか
新鮮でよかったし、何より切ってくれた人のアドバイスがしっかりしてて、
髪質についてとかスタイリングについてとか、適当だったり金儲けじゃなくて
ちゃんと分かっててまともに言ってくれてる感じがしたし。
こういうの久しぶりだった。
美容院って、安かろう悪かろうか、高くてきちとしてはいるけど偉そぶってるか
が多いイメージなんだけど、久しぶりに良かった。
切ってくれたお兄さんが良かっただけかもしんないけど。
私とかって接客を見るから、だからホットペッバーとかで安いとこで試して
そこ良かったらそこに決めようと思ってるんだけどそんなんなかなか無くて、
そしたらカットモデルを薦めてくれたんだけど。友達が。
タダで切ってもらっちゃって、申し訳ないくらい。
ここなら定価払ってでも切りに来てもいいかも。
お店も綺麗だし、お薦めできると思いました。