ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2006.05.31 Wed
戦争の資料が欲しくて図書館で棚を探していたら、すっごいキャッチーなタイトルに驚いた。
で、手に取ったら著者があの橋田信介さんだったんで、運命を感じて借りてきた。
なんていうか、こういうタイトルって一歩間違えばすっごい安っぽくてアホで終わるんだけど、
橋田さんみたいな人が、こうやって使うのは、面白いし意味深にもなるわけで。
冒頭は橋田さん、宮嶋さん、勝谷さんの対談。
あっけらかんとした感じ。衣着せぬ感じが気分いい。
金儲けがしたい、とか、仲間が捕まったら儲けもの、とか。
人間の盾に対して、平和を叫ぶのが胡散臭いみたいな話は、すっごい腑に落ちてしまった。
正しいこと、なのになんであんなにうざったく重たくうそっぽく感じるのか、なんかすっきりしてしまった。
自衛隊を出すことの国益を説明するべきって、本当だなと思った。
国益、っていう言葉がすっと出てくるのがすごい。
愛国心とか『国』ってつく単語って、最近変な使い方や受け取られ方をすることが多い中、
ストレートにばんっと入ってくる。
本当に、あの当時いろいろなことを思ったけど、思っていた自分が間違ってなかったって思えた。
国益を考えてる国民がそもそもいないから、自衛隊派遣を単に戦争反対・賛成でしか論じられないって
ことかもしれない。
日本はアメリカの番犬。でも政治力も軍事力も無いからただのスピッツ。
あまりに秀逸過ぎる表現だ。まったく本当だ。
フランスに電話してアメリカに協力しようってほざいたなんて、知らなかった。
知らなかった私も日本国民として失格なんだが。しかしそれにしても。なんて政府だ。
戦場から日本のテレビ局に電話をかけていて、こっちは銃弾の音がひっきりなしにしているのに
電話口ではおっとりと上品で丁寧な受付嬢が電話を取り次ぐ。
若い頃なら何かに苛立っていた場面、というのも、なんというか実感がこもっていて
わかるわかる、と簡単には言えない重みがある。
くるちゃんが、音楽が一番好きだけど、ボクシングが好きな理由に命のやりとりで、勝敗がはっきりする
っていうのをあげていて、そこが音楽とは違うところだって言ってたことがある。
命という-番大事なものをやりとりする現場だから尊いっていう記述を見て、それを思い出した。
戦争って面白いとか、かっこいいとか言ったら凄く極悪人みたいな雰囲気の平和ボケ日本だけど、
でもやっぱり面白かったりかっこよかったりする側面って絶対にあると思う。
人間の盾のおばさんになじられ、命令だからと答えた米兵。
しかしブッシュの政策には賛成か、と著者らに訊かれると、きっぱりと反対と答える。
湾岸戦争のとき、テレビで見ていてアメリカの兵隊が、
「戦場には行きたくないし、死ぬのも怖い。でも、政府が決めたら俺は戦場へ行く」
と言っていて、まだ子供だった私はなんだかびっくりしたんだ。
怖いなんて感情、排除しているか、排除したふりしている人が兵士になるんだと思っていたから。
兵士個人の意見がしっかりある、っていうのも凄いし、でもそれを黙殺して従う、というのもやはり凄い。
そうして大義名分のために個を殺して軍隊として動いている人を捕まえて、
公の立場の人に個の立場で個の意見をぶつけて
「何人のイラクの人が死んだことか!」
と叫ぶのは正直見苦しい。
そんなこと、このなじられた兵隊だってわかっているし、やりたかったわけじゃない。でも仕方ない。
それにこのおばさんは、じゃあ代わりに米兵が死ねばよかった、それならハッピーだって、いえるんだろうか。
こういうところに、ボランティアとか団体の胡散臭さ、疎ましさがあるのだ。
どこまで本当に覚悟があったかは兎も角としても、本当に命をかけて戦場に来ているのに、
それが尊く素晴らしく、誰もがつい賛同したくなるような内容に見えないのはこういうところにあると思う。
一日に何人のイラク人が死んだのか、という記述で、
日本の一日の自殺者の半数というのを見て驚いた。
日本も目に見えない戦場で、ある意味ではイラクよりも深刻な戦況なのだ。
でも、戦争は可哀想、で、国内のそういった問題はほとんどメディアにもボランティア団体にも
取り上げられることは無い。
『戦争と戦場は違う
戦場の悲惨さを語るのは泣き言
戦場にいる者が戦況を語れる。しかし戦争を語れない。』
凄く心に残る言葉だった。
そうなのだ。戦場である以上、悲惨でないはずがない。当たり前の事実をさもひどく語って、
だから戦争は駄目なんだよ、といわれることがなぜあんなに重くうざく感じたのか。
初めてわけが分かった気がした。
確かに戦場にいるものがそれを語ることができる。逆に、いない者には語ることができない。
語ってほしくも無いし。
だけど、飴く迄語れるのは戦場のことであって、戦争を決めるのは政府のすることだ。
戦場に出かけて、戦場にいる人に戦場の惨状を詰ったって仕方が無い。
詰るのなら戦争を止めなければ。いつも言葉は「戦争反対」だけど、やっていることは戦場反対、だ。
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」
って言う青島くんに、沖田さんが
「事件は会議室で起きてるのよ」
って言うけれど、これはある意味であたっている。
正確に言うと、事件も事件を解決しようとする動きも現場で起こっているけど、
それを指揮するのは会議室で起こっている。
現場に行って一生懸命やってる青島くんに、
「とろとろしてるから犠牲者が増えた、どうしてくれる」
って言ったって仕方ない。
青島くんだってそれが嫌だけど、さっさと逮捕しちゃいたいけど上からゴーサインが出ない。
だったら、会議室に乗り込んで早くゴーサイン出せよ!って言うしかない。
それは時として、現場行って無理矢理やったもん腕で逮捕しちゃうのだってありなんだけど、
現場の人間を責めるのはちょっと違うのだ。
けしかける方は、それでけしかけられた人の人生の責任までとってやれない。
会社をクビになったり、軍で処罰されたり、脱走して追われたり。
況してや戦争を決めている政府の人は・国民が選んだ代表なんだから。
本当は、戦争反対だけど政府が勝手にやってることだって言いたいし、実際そうなんだけど、
でも選んだ責任が結局自分たちにあるわけで、それを戦場に押し付けたり
戦場の悲惨さを訴えていても結局根本的な解決にはならない。
取り合えず、日本人だっていう自覚を持って、変な意味じやなく愛国心を持って、
政治に関心を持って、どんなに小さくてもできることをやっていかないと駄目なんだよな。
政府は相手にするにはでかすぎるし、なかなか聞き入れてもらえない厄介な存在ではあるけど、
だからって黙っていたら何も変わらないのだ。
そう思う。
で、手に取ったら著者があの橋田信介さんだったんで、運命を感じて借りてきた。
なんていうか、こういうタイトルって一歩間違えばすっごい安っぽくてアホで終わるんだけど、
橋田さんみたいな人が、こうやって使うのは、面白いし意味深にもなるわけで。
冒頭は橋田さん、宮嶋さん、勝谷さんの対談。
あっけらかんとした感じ。衣着せぬ感じが気分いい。
金儲けがしたい、とか、仲間が捕まったら儲けもの、とか。
人間の盾に対して、平和を叫ぶのが胡散臭いみたいな話は、すっごい腑に落ちてしまった。
正しいこと、なのになんであんなにうざったく重たくうそっぽく感じるのか、なんかすっきりしてしまった。
自衛隊を出すことの国益を説明するべきって、本当だなと思った。
国益、っていう言葉がすっと出てくるのがすごい。
愛国心とか『国』ってつく単語って、最近変な使い方や受け取られ方をすることが多い中、
ストレートにばんっと入ってくる。
本当に、あの当時いろいろなことを思ったけど、思っていた自分が間違ってなかったって思えた。
国益を考えてる国民がそもそもいないから、自衛隊派遣を単に戦争反対・賛成でしか論じられないって
ことかもしれない。
日本はアメリカの番犬。でも政治力も軍事力も無いからただのスピッツ。
あまりに秀逸過ぎる表現だ。まったく本当だ。
フランスに電話してアメリカに協力しようってほざいたなんて、知らなかった。
知らなかった私も日本国民として失格なんだが。しかしそれにしても。なんて政府だ。
戦場から日本のテレビ局に電話をかけていて、こっちは銃弾の音がひっきりなしにしているのに
電話口ではおっとりと上品で丁寧な受付嬢が電話を取り次ぐ。
若い頃なら何かに苛立っていた場面、というのも、なんというか実感がこもっていて
わかるわかる、と簡単には言えない重みがある。
くるちゃんが、音楽が一番好きだけど、ボクシングが好きな理由に命のやりとりで、勝敗がはっきりする
っていうのをあげていて、そこが音楽とは違うところだって言ってたことがある。
命という-番大事なものをやりとりする現場だから尊いっていう記述を見て、それを思い出した。
戦争って面白いとか、かっこいいとか言ったら凄く極悪人みたいな雰囲気の平和ボケ日本だけど、
でもやっぱり面白かったりかっこよかったりする側面って絶対にあると思う。
人間の盾のおばさんになじられ、命令だからと答えた米兵。
しかしブッシュの政策には賛成か、と著者らに訊かれると、きっぱりと反対と答える。
湾岸戦争のとき、テレビで見ていてアメリカの兵隊が、
「戦場には行きたくないし、死ぬのも怖い。でも、政府が決めたら俺は戦場へ行く」
と言っていて、まだ子供だった私はなんだかびっくりしたんだ。
怖いなんて感情、排除しているか、排除したふりしている人が兵士になるんだと思っていたから。
兵士個人の意見がしっかりある、っていうのも凄いし、でもそれを黙殺して従う、というのもやはり凄い。
そうして大義名分のために個を殺して軍隊として動いている人を捕まえて、
公の立場の人に個の立場で個の意見をぶつけて
「何人のイラクの人が死んだことか!」
と叫ぶのは正直見苦しい。
そんなこと、このなじられた兵隊だってわかっているし、やりたかったわけじゃない。でも仕方ない。
それにこのおばさんは、じゃあ代わりに米兵が死ねばよかった、それならハッピーだって、いえるんだろうか。
こういうところに、ボランティアとか団体の胡散臭さ、疎ましさがあるのだ。
どこまで本当に覚悟があったかは兎も角としても、本当に命をかけて戦場に来ているのに、
それが尊く素晴らしく、誰もがつい賛同したくなるような内容に見えないのはこういうところにあると思う。
一日に何人のイラク人が死んだのか、という記述で、
日本の一日の自殺者の半数というのを見て驚いた。
日本も目に見えない戦場で、ある意味ではイラクよりも深刻な戦況なのだ。
でも、戦争は可哀想、で、国内のそういった問題はほとんどメディアにもボランティア団体にも
取り上げられることは無い。
『戦争と戦場は違う
戦場の悲惨さを語るのは泣き言
戦場にいる者が戦況を語れる。しかし戦争を語れない。』
凄く心に残る言葉だった。
そうなのだ。戦場である以上、悲惨でないはずがない。当たり前の事実をさもひどく語って、
だから戦争は駄目なんだよ、といわれることがなぜあんなに重くうざく感じたのか。
初めてわけが分かった気がした。
確かに戦場にいるものがそれを語ることができる。逆に、いない者には語ることができない。
語ってほしくも無いし。
だけど、飴く迄語れるのは戦場のことであって、戦争を決めるのは政府のすることだ。
戦場に出かけて、戦場にいる人に戦場の惨状を詰ったって仕方が無い。
詰るのなら戦争を止めなければ。いつも言葉は「戦争反対」だけど、やっていることは戦場反対、だ。
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」
って言う青島くんに、沖田さんが
「事件は会議室で起きてるのよ」
って言うけれど、これはある意味であたっている。
正確に言うと、事件も事件を解決しようとする動きも現場で起こっているけど、
それを指揮するのは会議室で起こっている。
現場に行って一生懸命やってる青島くんに、
「とろとろしてるから犠牲者が増えた、どうしてくれる」
って言ったって仕方ない。
青島くんだってそれが嫌だけど、さっさと逮捕しちゃいたいけど上からゴーサインが出ない。
だったら、会議室に乗り込んで早くゴーサイン出せよ!って言うしかない。
それは時として、現場行って無理矢理やったもん腕で逮捕しちゃうのだってありなんだけど、
現場の人間を責めるのはちょっと違うのだ。
けしかける方は、それでけしかけられた人の人生の責任までとってやれない。
会社をクビになったり、軍で処罰されたり、脱走して追われたり。
況してや戦争を決めている政府の人は・国民が選んだ代表なんだから。
本当は、戦争反対だけど政府が勝手にやってることだって言いたいし、実際そうなんだけど、
でも選んだ責任が結局自分たちにあるわけで、それを戦場に押し付けたり
戦場の悲惨さを訴えていても結局根本的な解決にはならない。
取り合えず、日本人だっていう自覚を持って、変な意味じやなく愛国心を持って、
政治に関心を持って、どんなに小さくてもできることをやっていかないと駄目なんだよな。
政府は相手にするにはでかすぎるし、なかなか聞き入れてもらえない厄介な存在ではあるけど、
だからって黙っていたら何も変わらないのだ。
そう思う。
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