ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2006.06.08 Thu
図書館でやっぱり戦争についての資料を探していて、なんとなく手にとって、ちょっと迷った。
でもこれも運命と思って、表紙を見て、中身をばらばらと見て、借りてみた。
結果、とても良かったと思う。
何故迷ったかと言うと、戦争を経験した人の自伝のイメージの悪さ。
どんなにひどい環境で、どんなに自分が頑張ってきたか。
ひたすらそれが書かれて、接していて辛くなったり気持ち悪くなったりする。
というのは、自分の想像力が旺盛なのが悪いのかもしれないのだが。
小学校二年生のとき、学校で戦争のアニメ映画を見せられて、今思えば今ほどの質もなく
ちやちな作りだったのにも関わらず、私を含め特に女の子たちは泣くわ気持ち悪くなるわ。
私は確か耐えて前編を見て、家に帰ってあまりの受けたショックに親にも言えず、
目を閉じるとまざまざと映画のシーンが浮かんできて声を殺して泣いていたのを発見された。
で、そんな子が多かったらしく、後編については見たくない人は見なくてもよいということになった。
男子は「すげえ、目玉とびててんぜおもしれ~」なんて言って大喜びで見ていたものだけど。
そしてその後に班ごとに描かされた戦争反対のポスターも、結局赤や黒のクレヨンばかり使って描いた覚えがある。
幼い私の中に植え付けられた戦争は、悲惨と恐怖だった。結局それしか残らなかった。
それ自体はけして間違ってはいないのだけど、それが恐くて私は知ろうという作業を自主的に
しなくなった。恐くてできなくなった。
若い人が戦争のことを年配者に語られることを毛嫌いするのは、押し付けられてやるからなのと、
よく分からないけど兎に角恐いし、悲惨だし、またそう思わなければならないもの、だからではないだろうか。
この本を読んで、そのイメージが少し変わった。
何が違うのかというと、悲惨とか痛みとかそういうことはもちろん描かれてあるのだけれど、
結局はその中で返しく生きていて、自分が可哀想だと喧伝したいわけじゃなくて
ただ事実を知って欲しいというそういう姿勢が伝わってくるからではないだろうか。
波乱万丈とはこういうことを言うのかとも思ったし、辛くて涙も出れば、嬉しくて涙も出た。
作り物の小説に負けない『面白さ』があった。
そして悲惨だということしか伝わらない戦争映画よりもきちんと事実が伝わってきた。
例えば、焼夷弾の恐さを初めて理解できた。
なぜあんなにすぐに燃え上がるのか、いくら布や紙や木だからと言って、火の粉ひとつで
一瞬で火達磨になってしまう映画の描写の意味が理解できず、ただ恐かった。
川に殺到して亡くなった人たちの写真を見せられても、恐いとしか思わなかった。
分からないものに対する恐怖だった。
しかし、油が飛び散って沌みていればそれは燃えるだろうと納得もしたし、
呼吸するだけで肺が焼ける熟さを想像もした。
それで抱いた恐怖はきちんと理解した上での恐怖だ。
戦争って言ったら取り敢えずおとなしく泣きそうに鎮痛な面持ちで聞いていたらいい、
そういう今の日本社会の雰囲気が、私は少し違うと思っている。
鎮痛な面持ちでいることも大切かもしれない。でも、その中で強く生きた人、今も生き抜いている人
その強さの前でただなんとなく流されて弱々しくしおらしくしているのって正解だろうか。
それって結局個々の人格を無視して、押し付けられた形骸を、やはり形だけ見ているだけじゃないだろうか。
戦争というよ拒否反応を取り敢えず示すことが、戦争を放棄した日本の優等生な態度だと勘違いしては
いないだろうか。
私はどちらかと言えば体験主義で、でもどうしても体験できないものは想像力で補えるとも思っている。
そのためには経験者から話を聞いたり、映像や写真などで見ることが必須なわけで、
だからアニメ映画を8歳の時に見たのも間違いではないんだけど、それにしては8歳の子に
理解できる内容よりも、どぎつい描写が多かった。今で言ったらR15とかになるんじやなかろうか。
やっぱり事実を知るっていうのは大切だ。知った上じゃないと意見なんて言えない。
そしてその事実は沢山、例えば第二次世界大戦、と言ったらその時代に生きて参加していた人の数だけ事実がある。
戦争が悲惨だったという人もいれば、かっこいい服着せてもらって楽しかった、という人もいる。
そんないくつもの事実を知って、自分の中で消化していかなければ、私のような戦争を知らない世代が戦争を知ることは難しい。
ただ悲惨なものとして語られても、なかなか入ってこないものだ。
これだけ『面白い』ものならば、誰しも知ろうとするし素直に受け入れられるだろうと思うのだが。
『戦争はいけない』ということは何度か教えられてきたけれど、戦争がどういうものか、
戦後がどういうものかを、「可哀想だったんだよ」という言葉以外で教えられたのはこれが初めてのような気がする。
戦争は悲惨で、人は迄しく、美しく、こんなにも儚い。
不思議だ。
それにしても、戦争というのは、なくすことってできるんだろうか。
戦争の悲惨さなんて、分からないはずがない。
分かっていなくても、実際に戦争に立って、身の危険にさらされながら人を殺していて
ぐったりこないはずもないと思う。
それでもなくならない。
戦争をしようと決める人が、戦争を生身の体験として知っていたらやめようと思うだろうか。自分が前線
で戦わなくちゃならないとしたら。
それとも、それでも利害関係であったり宗教とかプライドのために、戦いを決めるだろうか。
政府に言われてわけがわからないままに、もしくは自分の意志とはまったく違うのに戦争をする
ということは普通にある。例えばイラク戦争のときのアメリカ兵とか。
戦争ではないけど自衛隊であるとか。
上官の命令に叛けないから、戦争を起こさないことはできない。
ならばこれが自分の身近に、こいつを倒さなければ自分たちが危ない、という戦争だったとしたら
尚更やめることもできないだろう。
戦争の反対は平和。国語のテストではそれが正解だけれど、そんなことはありえない。
平和だったら戦争がないわけもなく、戦争だったら平和がないわけでもない。
現に地球のどこかで戦争が起きていても、どこか別のところでは平和がある。
戦争の反対は話し合い、と言った人がある。これはかなり正しいと私は思う。
しかしながら話し合ってもどうしても解決しないことっていうのは世の中にはたくさんある。
それを、放置しないで解決するにはどうしたらいいのか。
考えれば考えるほど、戦争がなくなることなんてありえないような気がしてくる。
戦争が楽しくてやりたくてやる人っていうのは、いるとは思うけれど割合としては少数派であるはずだと思う。
それでも戦争は起きる。
今この間にも。
そして人が悲惨な思いをするのは戦争だけじゃない。
逆にいえば、だからこそ戦争が起きるのかもしれないと思う。
でもこれも運命と思って、表紙を見て、中身をばらばらと見て、借りてみた。
結果、とても良かったと思う。
何故迷ったかと言うと、戦争を経験した人の自伝のイメージの悪さ。
どんなにひどい環境で、どんなに自分が頑張ってきたか。
ひたすらそれが書かれて、接していて辛くなったり気持ち悪くなったりする。
というのは、自分の想像力が旺盛なのが悪いのかもしれないのだが。
小学校二年生のとき、学校で戦争のアニメ映画を見せられて、今思えば今ほどの質もなく
ちやちな作りだったのにも関わらず、私を含め特に女の子たちは泣くわ気持ち悪くなるわ。
私は確か耐えて前編を見て、家に帰ってあまりの受けたショックに親にも言えず、
目を閉じるとまざまざと映画のシーンが浮かんできて声を殺して泣いていたのを発見された。
で、そんな子が多かったらしく、後編については見たくない人は見なくてもよいということになった。
男子は「すげえ、目玉とびててんぜおもしれ~」なんて言って大喜びで見ていたものだけど。
そしてその後に班ごとに描かされた戦争反対のポスターも、結局赤や黒のクレヨンばかり使って描いた覚えがある。
幼い私の中に植え付けられた戦争は、悲惨と恐怖だった。結局それしか残らなかった。
それ自体はけして間違ってはいないのだけど、それが恐くて私は知ろうという作業を自主的に
しなくなった。恐くてできなくなった。
若い人が戦争のことを年配者に語られることを毛嫌いするのは、押し付けられてやるからなのと、
よく分からないけど兎に角恐いし、悲惨だし、またそう思わなければならないもの、だからではないだろうか。
この本を読んで、そのイメージが少し変わった。
何が違うのかというと、悲惨とか痛みとかそういうことはもちろん描かれてあるのだけれど、
結局はその中で返しく生きていて、自分が可哀想だと喧伝したいわけじゃなくて
ただ事実を知って欲しいというそういう姿勢が伝わってくるからではないだろうか。
波乱万丈とはこういうことを言うのかとも思ったし、辛くて涙も出れば、嬉しくて涙も出た。
作り物の小説に負けない『面白さ』があった。
そして悲惨だということしか伝わらない戦争映画よりもきちんと事実が伝わってきた。
例えば、焼夷弾の恐さを初めて理解できた。
なぜあんなにすぐに燃え上がるのか、いくら布や紙や木だからと言って、火の粉ひとつで
一瞬で火達磨になってしまう映画の描写の意味が理解できず、ただ恐かった。
川に殺到して亡くなった人たちの写真を見せられても、恐いとしか思わなかった。
分からないものに対する恐怖だった。
しかし、油が飛び散って沌みていればそれは燃えるだろうと納得もしたし、
呼吸するだけで肺が焼ける熟さを想像もした。
それで抱いた恐怖はきちんと理解した上での恐怖だ。
戦争って言ったら取り敢えずおとなしく泣きそうに鎮痛な面持ちで聞いていたらいい、
そういう今の日本社会の雰囲気が、私は少し違うと思っている。
鎮痛な面持ちでいることも大切かもしれない。でも、その中で強く生きた人、今も生き抜いている人
その強さの前でただなんとなく流されて弱々しくしおらしくしているのって正解だろうか。
それって結局個々の人格を無視して、押し付けられた形骸を、やはり形だけ見ているだけじゃないだろうか。
戦争というよ拒否反応を取り敢えず示すことが、戦争を放棄した日本の優等生な態度だと勘違いしては
いないだろうか。
私はどちらかと言えば体験主義で、でもどうしても体験できないものは想像力で補えるとも思っている。
そのためには経験者から話を聞いたり、映像や写真などで見ることが必須なわけで、
だからアニメ映画を8歳の時に見たのも間違いではないんだけど、それにしては8歳の子に
理解できる内容よりも、どぎつい描写が多かった。今で言ったらR15とかになるんじやなかろうか。
やっぱり事実を知るっていうのは大切だ。知った上じゃないと意見なんて言えない。
そしてその事実は沢山、例えば第二次世界大戦、と言ったらその時代に生きて参加していた人の数だけ事実がある。
戦争が悲惨だったという人もいれば、かっこいい服着せてもらって楽しかった、という人もいる。
そんないくつもの事実を知って、自分の中で消化していかなければ、私のような戦争を知らない世代が戦争を知ることは難しい。
ただ悲惨なものとして語られても、なかなか入ってこないものだ。
これだけ『面白い』ものならば、誰しも知ろうとするし素直に受け入れられるだろうと思うのだが。
『戦争はいけない』ということは何度か教えられてきたけれど、戦争がどういうものか、
戦後がどういうものかを、「可哀想だったんだよ」という言葉以外で教えられたのはこれが初めてのような気がする。
戦争は悲惨で、人は迄しく、美しく、こんなにも儚い。
不思議だ。
それにしても、戦争というのは、なくすことってできるんだろうか。
戦争の悲惨さなんて、分からないはずがない。
分かっていなくても、実際に戦争に立って、身の危険にさらされながら人を殺していて
ぐったりこないはずもないと思う。
それでもなくならない。
戦争をしようと決める人が、戦争を生身の体験として知っていたらやめようと思うだろうか。自分が前線
で戦わなくちゃならないとしたら。
それとも、それでも利害関係であったり宗教とかプライドのために、戦いを決めるだろうか。
政府に言われてわけがわからないままに、もしくは自分の意志とはまったく違うのに戦争をする
ということは普通にある。例えばイラク戦争のときのアメリカ兵とか。
戦争ではないけど自衛隊であるとか。
上官の命令に叛けないから、戦争を起こさないことはできない。
ならばこれが自分の身近に、こいつを倒さなければ自分たちが危ない、という戦争だったとしたら
尚更やめることもできないだろう。
戦争の反対は平和。国語のテストではそれが正解だけれど、そんなことはありえない。
平和だったら戦争がないわけもなく、戦争だったら平和がないわけでもない。
現に地球のどこかで戦争が起きていても、どこか別のところでは平和がある。
戦争の反対は話し合い、と言った人がある。これはかなり正しいと私は思う。
しかしながら話し合ってもどうしても解決しないことっていうのは世の中にはたくさんある。
それを、放置しないで解決するにはどうしたらいいのか。
考えれば考えるほど、戦争がなくなることなんてありえないような気がしてくる。
戦争が楽しくてやりたくてやる人っていうのは、いるとは思うけれど割合としては少数派であるはずだと思う。
それでも戦争は起きる。
今この間にも。
そして人が悲惨な思いをするのは戦争だけじゃない。
逆にいえば、だからこそ戦争が起きるのかもしれないと思う。
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