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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.05.08 Wed
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2009.01.16 Fri
市村鉄之助

折角第十回と区切りが良いので、自分が歴史に興味を持つきっかけをくれた新選組の隊士を紹介しようと思います。
十回ごとに紹介して、全員紹介…出来たらいいね。
というわけで、新選組隊士篇 第一回は市村鉄之助さんです。
『新選組!!土方歳三最後の一日』で池松壮亮さんが演じられていた、エンドテロップのバッグで駆け抜けていらした方、と言えば「あぁ」と思われる方もいらっしゃるかも。


安政元年(1854)
美濃大垣藩の蔵奉行を務めた市村半右衛門の三男として生まれます。
兄の鋠之助(しんのすけ。7歳年上だったとされています。)と、早世した次男庄太郎と三人兄弟でした。
市村家は、尼崎以来代々戸田藩主に仕えた由緒正しいお家柄です。

安政三年(1856)8月
大垣藩で軍政改革が始まります。

安政四年(1857)8月3日
父、半右衛門が鎗奉行に就任します。

安政五年(1858)5月20日
半右衛門が永暇になってしまいます。失態をしたのか新しい藩主に嫌われたのか、理由は定かではありません。
城下立ち入り禁止になり、国を追われて名古屋へ移り住みます。

万延元年(1860)
鉄砲鍛冶で有名な江州国友村(滋賀県長浜市)に移り住みます。
国友村は幕府をはじめ諸藩が鉄砲調達に出入りする有名な場所でした。

文久三年(1863)9月16日
半右衛門が亡くなります。

慶応三年(1867年)秋
兄の辰之助(鋠之助から金を取って、辰之助と名乗ったのではと言われています。とすれば、読み方はたつのすけではなくしんのすけだった可能性があります。)
と一緒に新選組に入隊します。
慶応元年頃から新選組も鉄砲を調達に来ており、隊士の親戚がいたのがきっかけになったと言われています。
辰之助は局長附人数(平隊士に準ずる見習い隊士)。
鉄之助は両長召抱人(身辺雑務をこなす小姓)に配属されます。
召抱人は鉄之助を含めて12名いたそうです。
新選組は幕府直参に取り立てられ、鉄之助は14歳にして幕臣となります。
父の汚名を雪いだような気持ちでいたことでしょう。

※※携帯でご覧頂いていて
お兄さんの辰之助さんの名前が表示されていない方
金辰(←一文字)で「しん」です。

慶応三年(1867年)12月9日
王政復古の大号令

12月16日
新選組は不動堂村屯所から伏見奉行所へ移ります。

慶応四年(1868)1月3日
鳥羽・伏見の戦い
旧幕府軍は薩長連合に敗北し、将軍を追って江戸に撤退します。

3月
新選組は甲陽鎮撫隊となり北上しますが、勝沼戦争で敗北。
五兵衛新田へ退きます。
※この時これに協力したのが、蘭方医の松本良順です。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

辰之助が脱走して大垣へ帰ろうと持ちかけますが、鉄之助は断ります。
辰之助は隊を脱走します。
この報を、鉄砲傷を負って入院していた鉄之助は病院で土方から聞かされたようです。

4月
流山に転陣します。新選組局長、近藤勇が捕まります。
近藤は大久保大和を名乗っていましたが、近藤だとすぐに知られ、後に処刑されてしまいます。
残された新選組は会津へ向かいます。

土方は鉄之助を勝気で怜悧と評価し、寵愛しました。
兄の脱走にもめげず、悔しさと恥ずかしさに耐えて何事もなかったようにてきぱきと隊務をこなした鉄之助を認めていたのではないかと言われます。

宇都宮戦で負傷した土方が戦線復帰すると、仙台へ鉄之助、上田馬之丞、田村銀之助、玉置良蔵が先行を命じられました。
召抱人の12名のうち4名が脱落しており、その中で年少の4人が先に逃がされたのではないかと言われます。
会津、福島、仙台と転戦しますが敗北します。

10月21日
蝦夷へ。
土方に付き従い、松前城攻略に向かいます。

11月5日
松前城奪取。
江差まで松前藩兵を追撃。上田馬之丞が行方不明になってしまいます。
(戦死したのか捕虜にされたのかは定かではありません)

12月15日
五稜郭に凱旋します。
実質上蝦夷地を平定したことになり、祝賀会が行われました。
選挙が行われれ、土方は陸軍奉行並と箱館奉行並を兼務。
田村銀之助は榎本総裁附となり、就学のため箱館のフランス人教師館へ。
日時不明ですが、十五歳で玉置良蔵も病死(戦死説あり)しており、この時点で土方に仕えていたのは鉄之助のみでした。

明治二年(1869)4月6日
雪に阻まれて中断されていた新政府軍の攻撃が再開されます。
鉄之助は土方と共に最後まで戦うつもりでしたが、土方は鉄之助に脱出を命じます。
日野の佐藤家(土方の姉の嫁ぎ先)へ自分の形見を届け、ここまでどう戦って来たのかを伝えてくれと頼みました。
鉄之助は「私はここで討ち死にする覚悟です。誰か他の者にお命じ下さい」と断りましたが、「命令に従わないならば今討ち果たす」と諭されます。
五十両と、路銀に換える為の刀二振りと品物、持ち込む店への書状、「使いの者の身の上を頼む」という佐藤家への手紙と写真、髪数本と辞世の和歌を鉄之助は託され、鉄之助は蝦夷を抜け出します。
※この写真は現在一般的に伝わる洋装の土方で、上部には土方が歯形をつけて渡しました。

箱館湾に入っていた外国船が数日の内に横浜へ行くと言うので、土方が船長に金を渡し、鉄之助を乗せてもらえるよう話をつけてありました。
鉄之助は土方に見送られ、船に乗り込みます。

明治二年(1869)7月初旬
乞食同然の姿で佐藤家へ到着した鉄之助を見て、驚いた佐藤家の人たちは風呂を沸かして着替えを用意しました。
鉄之助は初めは涙で中々言葉にならなかったものの、土方の戦いぶりを報告しました。
姉ののぶは鉄之助の話を涙を流しながら聞き、届けられた和歌は愛用の裁縫箱に入れて大切にしていたそうです。
※彼女の死後、和歌の所在は不明になってしまいました。

明治三年(1870)
沢忠輔が土方・佐藤家を訪ねます。土方の愛刀の下げ緒を届け、戦死状況を語ったそうで、鉄之助も同席したようです。
佐藤家では土方の遺言通り鉄之助を匿って面倒を見、読み書きの手習いや剣術の稽古をさせたりしました。

明治四年(1871)3月
兄の辰之助から佐藤家に手紙が届きます。
辰之助は新選組を脱退した後無事に故郷へ戻り、梅津郡太田村で商人になっていました。
鉄之助は故郷の大垣に戻ることにします。
佐藤家では鉄之助が持参してきた五十両を両替したものに加え、五十円を餞別として渡し、日野横丁の吉野屋安西吉右衛門氏を付添わせ、帰国させました。
※佐藤家は、現在も東京都日野市に日野宿本陣として残されています。
鉄之助が居住した間、土方が泊まりに来た時に使った部屋、沖田が四股を踏んだと言われる式台など惜し気もなく公開されています。

明治5年(1872)2月7日
辰之助が亡くなります。

その後の鉄之助は、故郷で病死したという説
西南戦争で西郷隆盛の指揮下で田原坂にて戦死との説もあります。
後者の説の場合の補強としては、
元治元年の天狗党騒ぎの頃、西郷の命令で美濃に来ていた薩摩藩士の中に当時中村半次郎、改め桐野がおり、この時に辰之助との接触があったと考えられています。辰之助が亡くなる際、桐野を頼るよう言い残したのがきっかけだと言われます。

また、鉄之助は箱館で病死しており、日野に来たのは鉄之助ではないとする説もあります。
ただしこの説は原史料にあたっておらず、誤記された写本や市販本のみに頼った説で全く信憑性がありません。
小島鹿之助が、松前の話について中島登の覚書が市村から直接聞いた話に近く信用できるとして書き残した文書もあります。無名で賊軍の人間であった鉄之助を匿い面倒を見たことは、事実でなければ書き残す必要の無いことだと考えられます。

幼少時に父の栄華からの転落を目の当たりにし、苦しい日々を送った鉄之助。入隊した新選組で、直参から国賊への再びの転落を経験します。
そんな鉄之助少年が従った隊長土方の生き様を見て、再び政府に対して立ち上がり戦死を遂げたという説には頷ける部分があると、私は思います。


私見ついでに。
市村さんの名前を検索すると、所謂腐女子やヲタのサイトが多く結果で表示されます。
土方さんに寵愛されていたからと言って、勝手に美男子だったとか、土方とラブラブだったとか…
勝手に都合良く年齢設定を変えてある少女漫画と、それを史実と思っている人など、酷い有様です。
同じ女として恥ずかしいです。
新選組好きを名乗るのは止めてほしい。新選組だけでなく、歴史上の人物たちはみんな実際にいた人で、子孫の方々だっているんです。
勝手なキャラ付けをしてイメージを押し付けるのもアレですが、
コスプレしてお墓参りとか、天然理心流道場見学とか、失礼極まりないと思います。

史料は然程多くは残っていない市村さんですが、小説は一切参考にしないのは当然のこと、
(これ、意外とプロでも事実と混同して事実だとして報道しちゃうことが多いので皆さんテレビや本を読むときはお気をつけください!)
史料として残された日記や名簿を主に参考にして記載しましたので、そうしたものとは一線を画した、本当の市村さんを書いたつもりです。

14歳でいろんな経験をした市村さん。三ヶ月もかけて官軍に見つからないように日野まで辿り着くのは本当に大変だったことでしょう…。
私は埼玉の自宅から日野まで歩いて行くのも出来ない気がします。

日野宿本陣は気さくなおとうさんたちが案内をしてくれて、中々楽しいですよ。

ということで、いつもは極力入れない私見ですが、長くなりました。
良ければまた次回をお楽しみに。



参考
「聞きがき新選組」
「新選組銘々伝」
「戊辰役箱館脱走人名簿(写本)」
その他多数、及びインターネット、テレビ等
また、日野宿本陣にて拝見した史料、伺ったお話を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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