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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.05.09 Thu
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2009.02.20 Fri
松平容保(まつだいら かたもり)

幕末の京都京都守護職を勤めた会津藩九代目藩主。
考明天皇の厚い信頼を得、朝廷への敬慕と幕府への忠誠の姿勢を
新政府軍に逆賊として追われ、恭順も許されず戦いに追い込まれても
最後まで崩さなかった人です。
会津落城後は明治五年まで謹慎処分となり、その後東照宮宮司に任ぜられました。

       ●

天保六年(1836)12月29日
美濃国高須第十代藩主・松平義建(よしたつ)の六男として生まれます。
母は側室古森氏。幼名は銈之丞。
兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬らがいます。

弘化三年(1846)4月27日
陸奥国会津八代藩主の松平容敬(かたたか)に息子が無かった為、容保が養子となります
※弟の定敬(後の京都所司代)は、伊勢桑名松平藩へ養子に行っています。

嘉永五年(1852)閏2月25日
十日前に義父が病死したことを受け、18歳で会津藩九代目藩主となります。肥後守に転任。

安政三年(1856)
養子に入った当初から許婚だった容敬の娘、敏姫と結婚。
井伊直弼は「我が子が2人増えた」と招いて祝ってくれるほどこの結婚を祝福したと言われます。

安政七年(1860)3月3日 桜田門外の変
水戸脱藩浪士による井伊直弼暗殺事件が勃発します。
幕府では、水戸藩を討伐すべしという意見も出ましたが、容保はこれに反対。
「身内を厳罰に処しては災いが大きくなるばかりだし、各藩に代々受け継ぐ家風があるように、水戸藩は尊王の家風なのだから」
という容保の意見が結局は容れられることとなります。

文久元年(1861)10月
妻の敏姫が死去。
大層悲しんだ容保は、この後、正室を置きませんでした。
※京都守護職として京都に赴任する際、側室は、江戸屋敷に置いたままでしたが
容保を気遣った江戸家老の勧めで側室のひとり、佐久(田代孫兵衛娘)が
京都へ行き容保の世話をしたと伝えられます。

この頃の京都は、尊王攘夷の西国各藩の志士が朝廷に働きかけるべく集結し
主要人物の暗殺も日々行われていました。
軍事力を持つ親藩に任せて京都を抑え込みたいと考えた徳川慶喜と松平春嶽は
京都守護職を新設し、容保をその任務に就かせようとしました。
容保は体も弱く、城代家老西郷頼母をはじめ家臣たちは、
「薪を背負って火の中に飛び込むようなものです」と
国元の会津から急いでやって来て反対しました。

何度も固辞した容保ですが、慶喜たちは聞き入れません。
藩祖 保科正之
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
の名を持ち出して執拗に説得されます。
※史料によっては慶喜らの謀略で断りきれない状況に追い込まれ
スケープゴートにされたにも等しく書かれたものも複数見られます。

容保は駆けつけた家臣たちに
「今は己の将来より義を取ろうと思う。我らは京都を死に場所としよう」
と話し、就任を決意します。
家臣たちは主君の悲壮な決意に抱き合って涙したと言われます。

文久二年(1862)
閏8月1日 京都守護職に就任します。

12月24日
千名の藩兵を率いて上洛し、黒谷の金戒光明寺を本陣とします。
※当時の京都では
『会津肥後さま、京都守護職つとめます。内裏繁盛で公家安堵、とこ世の中ようがんしょ』
という歌が流行し、治安向上を期待して容保ら一行を歓迎したと言われます。

容保は、『言路洞開(げんろどうかい)』の方針を採りました。
「策を用いるべきではない。至誠をもって事に当たれば、自ずと人は従う。
倒幕派の志士たちは日本の未来を憂えているのであり、国を愛する気持ちは同じなのだから
腹を割って話し合えば道が見出せる」 という考えです。
武力で抑え込むことを期待した慶喜たちは、呆れていたと言われます。

文久3年(1863年)1月
容保は孝明天皇に拝謁します。彼の働きに対し天皇から
「鎧の直垂にせよ」と緋の衣を賜ります。
※天皇より直々に武家が衣を授かるなど通常考えられないことで、容保は大層感動したようです。

2月23日 足利将軍木像梟首(きょうしゅ)事件
攘夷志士たちが等持院に乱入。
納められていた、足利尊氏、義詮、義満の木像の首を引き抜き三条河原に晒しました。
捨札には「逆族に天誅を加うるもの也」とありました。
ここまで将軍家、幕府を侮辱されても、逮捕出来る力は京都町奉行所には無く、永井尚志
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
も、「強行に逮捕すれば洛中の過激浪士500人が一斉蜂起して大混乱になる」と言いました。
しかし容保は、「浪士が何百、何千いようとも国家の法は曲げられない。手に余ると言うが、ご心配には及ばない。予は会津藩主である」と答え
奉行所の捕手に会津藩士を付き添わせて、直ちに下手人を捕縛しました。

3月15日
後の新徴組として上洛し江戸へとんぼ帰りすることになった浪士の内17名が、
京都守護職肥後守御預 壬生浪士組となります。
容保は彼らと懇意となり、度々屋敷へ呼んで酒や食事を振る舞い、
剣や薙刀など彼らの武芸を見る事を好みました。
将軍の警護や市中見回りなどの任務が、浪士組には課されました。

孝明天皇は有名な夷人嫌いではありましたが、政治は幕府に任せていました。
しかし、過激な公家や志士らが政権奪取を画策し、天皇の意に反することが
度々勅命として発せられるに至り、
ついに「偽勅出す奸臣を排除せよ」との天皇の密命が容保と薩摩藩に下りました。

8月18日 八月十八日の政変
長州藩などの尊攘派勢力を薩摩・桑名藩と共に追放します。
三条実美ら長州派を朝廷から排除したことから七卿落ちとも呼ばれます。
この結果、容保は孝明天皇より
忠誠に感謝すると言う宸翰(しんせん。帝の手紙)と御製(和歌)を頂きました。
※この時会津藩と共に参加した壬生浪士組に対し、容保は会津藩の武芸に優れた若者の隊名から、『新選組』の名称をつけます。

元治元年(1864)2月4日
新選組に八月の政変の恩賞を出します。
寝込んでいた容保の見舞いに来た近藤勇も神経性胃炎を病んでおり、湯治を勧めます。
2月11日 長州征伐にあたり、陸軍総裁職に転任。
2月13日 軍事総裁職に転職(陸軍総裁職の名称変更による)。
陸海軍の総指揮官としての権限が与えられました。
新選組の願いが聞き入れられ、彼らはこれまで通り容保の支配下に組み入れられることになります。
4月
市中でも容保の京都守護職復職を求める声が多くあがり、 病床にあって辞職を願っていた容保でしたが、守護職の下命を受けます。
諸藩共同でしていた京都の警護体制を、一橋家、京都所司代、幕府歩兵組、京都守護職、新選組で分担して市中警護を行うことになります。

慶応元年(1865)2月
長州征討は、容保が自ら江戸へ行って将軍上洛を願い出ます。
※新選組が同行を希望しますが、京都の警護に専念して欲しいと答えます。

7月19日 禁門の変(蛤御門の変)

9月
将軍上洛。一月ほどで将軍を辞退し江戸へ戻ろうとしたところを、容保と新選組で奔走し引き止めます。

長州征伐の総督には、容保の兄、徳川慶勝が任命されました。
慶勝が尊王派だったことと、参謀が西郷隆盛で、既に彼は内心幕府を見限り始めていたので、
征伐は長州の家老の切腹のみという結果に終わります。

慶応二年(1866年)7月20日 将軍家茂の病死
12月25日 孝明天皇が崩御
この2人の死は、いよいよ佐幕派を不利な状況へと追い込むこととなります。
※特に佐幕派であった天皇の死については、表向き疱瘡の悪化とされますが
邪魔になった攘夷派が、自分たちに言葉に従うだけの天皇と取り替える為
毒による暗殺を行ったという説が有力です。

慶応三年(1867年)
10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古の大号令
幕府は政をする権利を放棄することで倒幕の名目をなくそうとしましたが、
倒幕派は慶喜を除いて雄藩と公家で天皇の御前で会議をし徳川家の領地没収を決定。
理不尽さを訴えた藩も、天皇の意思として押さえ込まれてしまいます。
この決定に幕府側は激高しますが、慶喜は、勅令には逆らえないと言います。
幕府が歯向かってくれた方が賊軍の汚名をつけやすい薩長は、江戸で挑発行為を行います。
商家への強盗、放火、江戸取り締まりの任にあたっていた庄内藩への攻撃などを
あからさまに薩摩藩の仕業と分かるように行いました。

慶応四年(1868)1月3日
あまりの暴虐に、江戸薩摩藩邸に庄内藩が攻撃を加えたたことで
鳥羽伏見の戦いが勃発します。
薩長側には天皇が引き込まれており、官軍であることを示す錦の御旗が持ち出されます。
※この旗も西軍が手縫いで作成した偽物です。
軍備や地理の不利もあり、逆賊になって意気消沈した幕軍は大阪城に入ります。
兵達は、体制を立て直して反撃するつもりでしたが、
慶喜は夜陰に乗じて容保や定敬らを連れて幕府軍艦で江戸へ向かいます。
2月
江戸幕府が消滅すると京都守護職も廃止に。
長州の恨みを買っている容保は登城禁止処分となります。
慶喜が新政府に対して恭順を行い、幕府軍は恭順派と抗戦派が対立します。
薩長の画策で容保誅戮の宣旨が出されます。
『容保は徳川慶喜の反逆を助けた張本人であり、徳川家のためにも大不忠の者。断然追討せねば朝廷のためにもならない』
と、容保に責任を押し付け悪役に仕立てあげようとしました。

容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎します。
奥羽諸藩が会津を助けるべく同盟をし会津助命を訴えるも聞き入れられず、悲壮な戦いとなります。
《参考》木村銃太郎
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

奥羽越列藩同盟も瓦解。
閏4月20日から明治元年9月22日まで続いた会津戦争は
会津に薩長軍がなだれ込み1ヶ月の鶴ヶ城(会津若松城)篭城戦後、会津の降伏で幕を閉じました。
容保は
「孤立した城でこれまで持ちこたえられているのは、皆の忠義と勇気によるものだ。
しかし、このような戦いまでさせることになってしまった。
私一人の為に数千の人民が苦しむのを見るのは忍びない。降伏しようと思うが
もし何かほかに良い策があれば遠慮なく言ってほしい」と言い、
家臣たちは「主君に従うのみです」と答えたそうです。

容保は東京で蟄居、会津藩は極寒不毛の下北・斗南へ琉配移封となります。

明治5年(1872年)2月14日 預り処分を免じられます。
明治9年(1876年)11月1日 従五位に叙位。
明治13年(1880年)
2月2日、栃木県日光市の日光東照宮宮司に就任します。
その後上野東照宮祠官や二荒山神社宮司、東京と栃木の皇典講究所監督を兼務します。

明治二十六年(1893)9月22日 辞職。
12月4日
正三位に昇叙。明治天皇から牛乳を賜ったそうです。

12月5日
東京目黒の自宅にて肺炎のため死去。享年59歳。
葬儀は神式で行われ都内の正受院に葬られ、後に会津若松の松平家の廟所に移葬されました。
諡号は忠誠霊神(まさねれいしん)。
孝明天皇から賜った御製2首の前書き
「たやすからざる世にもののふの忠誠のこころをよろこびて」からとったと言われます。

昭和三年(1928)
明治維新から60年。
秩父宮雍仁親王(大正天皇第二皇子)と、容保の孫の松平勢津子が結婚。
賊軍とされた会津藩の復権であると言われています。

       ●

京都での恨みから執拗な処分を求められ、反撃せざるを得ない状況に追い込まれた容保さん。

容保さんの死後、肌身離さず首にかけていた小さな竹筒が見つかります。
中には孝明天皇から禁門の変の時に頂いた手紙が入っていました。
長州派の公家の一掃の感謝と容保を第一に頼りとするという旨の書。
公開すれば、明治維新後賊軍と蔑まれた汚名を雪ぐことも出来たかもしれません。
新政府軍側の人間がこの宸翰の内容を知り、抹殺する為に
会津松平家に対し法外な値段で買い取ろうとしたり、脅迫したりした
という話もあります。

しかし容保さん本人は生涯
幕末については一切語ることが無かったそうです。


生涯で2300もの歌を詠まれたそうです。

なき跡を 慕うその世は隔たれど なお目の前の 心地こそすれ
今もなほ したふ心はかはらねど はたとせあまり 世は過ぎにけり


参考
「会津藩始末記―敗者の明治維新」永岡慶之助
「会津白虎隊のすべて」小檜山六郎
「至誠の人松平容保」星亮一
「敗者から見た明治維新-松平容保と新選組-」早乙女貢
その他、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。


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