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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
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2008.11.21 Fri
赤禰武人(あかねたけと)
赤根と標記されることが多いが間違い。略記でも赤祢。

天保9年1月13日(1838年2月7日)生まれ。(1月15日説あり)
周防国玖珂郡柱島(現岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の長男。
13歳のとき、勤皇僧月性の家塾『時習館』の門下生となり、尊王思想を学びました。
浦家家臣赤禰忠右衛門雅平の武家養子となり
19歳で所帯を持ったとされますが、諸説あります。

24歳になった武人は、高杉晋作、久坂玄瑞ら松下村塾門下生らと共に尊王運動に奔走するようになりました。
外国公使要撃未遂事件(金沢事件)、英国公使館焼き討ちに参加。
1863年10月2日には、奇兵隊の第三代総管に就任します。
この頃赤禰の下で軍監の地位にいたのが山県有朋です。

1864年8月5日 四国連合艦隊下関砲撃事件が起こります。
英米仏蘭16隻からなる連合艦隊が馬関(今の下関)を攻撃しました。
馬関の砲台に備えられた大砲は全部で80門しかなく、対する敵艦の砲門は180を超えました。その上性能の上でもはるかに劣っていました。
赤禰は最後まで戦場に踏みとどまり、必死に奮戦したことが
白石正一郎の日記とアーネスト・サトウの記録に残っています。
ところが奇兵隊日記には記録は該当ページが何者かによって破り捨てられています。
馬関の防衛を任されていた武人の知らぬ内、高杉が講和談判の全権使節として馬関海峡に浮かぶ英国艦に赴いて条約を結び、戦いは終わりました。

この経験で、武人は攘夷が不可能であることを悟りました。
また、俗論派(幕府恭順派)と正義派(倒幕派)とに分かれて対立する自藩の状況にも虚しさを感じたようです。
武人は持病の眼病悪化を理由に奇兵隊総管を辞任して帰郷。
総管は山県が受け継ぎましたが、すぐに手に終えなくなり武人を呼び戻しました。

長州藩を救うためには、まずは内戦を回避することが不可欠。
俗論派と正義派の和平を実現し、征長軍から藩を守るため無益な戦をしてはならない。
武人の奔走が始まります。
西郷隆盛らの協力を得たり、萩に行き、藩公に謁見したりしました。
内戦回避が実現するかと思われたとき、
俗論派に命を狙われ九州に亡命していた高杉晋作が戻って来て、決起を促します。
「兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
武人は
「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」
と、奇兵隊の決起に反対し、高杉と対立しました。
高杉は
「君たちは武人に騙されている。そもそも武人は平民ではないか。
国家の大事や藩主親子の危急を知る者ではない。
君たちは僕を何だと思っているのだ。
僕は毛利家三百年来の家臣である。
武人のごとき平民と比べてもらっては困る」
と演説しましたが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為顰蹙を買った部分が多かったようです。
結局伊藤俊輔率いる力士隊と、他藩士からなる遊撃隊80名ほどが高杉に同調。
俗論政府を相手に藩内革命を起こしました。

丁度幕府の巡見使が長州服罪の状況を確認しに萩へ来ていた時だったので
藩政府は、巡見使の手前、正義派の人間を捕縛し斬首しました。

武人は時局収拾のため、毛利元周(長府候)の出馬を長府藩士・時田少輔らに頼み
建言を受け入れた毛利元周は、兵を率いて萩に至り、内戦を集結に導いたこともありましたが
この一件で武人の正俗合論の為に努力は水泡に帰すことになります。

激しい戦闘の末に俗論党は瓦解。藩政府は再び正義派の牛耳る所となったのです。

武人は戦を避けようとしただけで、正義派を裏切ったつもりではありませんでした。
しかし高杉たちからは、自分たちを裏切り幕府に寝返った人間として追われる身になってしまいます。
大阪に逃げましたが、一緒にいた渕上郁太郎と共にいたところを
今度は幕吏に捕らえられてしまいました。

京都の薩摩屋敷にいた西郷はこれを知り、今まで自分と武人の間にあった密議(薩摩+長州+筑前の連合)
が幕府に知られるかもしれないので、別の計画を練ることにしました。
(これが後の坂本龍馬による薩長連合です)

武人は京都の六角獄で8ヶ月に及ぶ獄中生活を余儀なくされます。
慶応元年(1865年)11月16日。
牢獄の中で再度長州征伐が行われることを知った武人は、
「我々を出牢させてくれるなら、公武合体・諸藩一致のため、長州を鎮静させ、朝幕のために尽力する」
と『急務五ヶ条』と題した意見書を獄中から提出しました。
幕府の大目付・永井尚志は武人の願いを聞き入れ放免。
長州尋問のために下向する永井の随員となり、長州尊攘派の説得に当たってほしいと言われた武人は
渕上郁太郎と一緒に、新選組の近藤勇、伊東甲太郎らと同道することになり、広島で釈放されたのです。

近藤たちは長州の隣国岩国への入国も拒否されました。
武人の目的は、幕長戦を回避して庶民を戦禍から守り、諸外国につけいる隙を与えないことです。
岩国、長府両藩主は萩の本藩主も同意の上武人に諸隊が激発しないよう説得せよと命じました。
しかし時既に遅く、高杉が蜂起して長州は幕府と戦う覚悟を決めており、
説得に耳を傾けるどころか、武人を幕府のスパイと見なしました。
藩からは新選組局長との交友等を理由に幕府との内通の嫌疑をかけられた武人は故郷に潜伏。
岳父の中富十兵衛が匿ってくれましたが、追っ手が迫り
逃げ切れる見込みもなかったので、自刃するよう勧めました。
武人は
「今、自刃すれば、謂れのない中傷讒言を認めることになる。
裁判において、自らの清明を述べ、
我が主張のどこに誤りがあるかを問いただした上で死を決したい。
自分には、検問を論破してみせる自信がある」
と断り、絶筆を書いた後、大人しく縛に就きました。
絶筆は「猛虎猶豫不如蜂蠍忽螫 騏驥跼促不及駑速駆」。
(猛虎もグズグズしていたら蜂やサソリにさされ、駿馬も駄馬に追いつかれる)

自らの正義を訴えるため敢えて縛についた武人は
髑髏の絵を描いて示し、こんな和歌も詠みました。
「誰もみな かくなり果つるものと知れ 名をこそ惜しめ もののふの道」

しかしただの一度の審問もなく、一言の弁明も許されぬまま
武人は幕府に通じたスパイとして「不忠不義之至」と断罪されます。
「私を処断する前にまず時田少輔(長府藩士)に連絡を取ってくれ」
言いましたが、刑吏はこれを無視します。

処刑前夜、悔しさからか獄舎で武人はすすり泣き
酒を飲んだと言われています。
獄衣の背に
真誠似偽 偽以似真
(真は誠に偽りに似 偽りは以って真に似たり)
と記したそうです。

慶応2年(1866年)1月25日 午前8時
長府藩主の毛利元周は処刑決定の知らせを聞き、
自ら早馬を飛ばして山口に向かいましたが
既に武人の処刑は行われた後だったと言います。
28歳でした。

処刑当日は摩擦を避けるため奇兵隊士に禁足令が出されました。
また、処刑した武人の腸を引きずり出し、竹に渡して鳥がついばむのにまかせ、
遺体は通行者が確実に踏みつける場所に葬らせたそうです。
首は自主しなかったから更に重罪だとして
三日間河原で晒されることになりました。

その日の夜、見張りに「酒を買ってやるから首を盗ませてくれ」と侍がやってきて断られ
夜半再び現れ刀を振り回し、武人の首を奪い去ったという記録があるそうです。
男装した女だったという説もあり、その後の首は行方知ずです。
首を取り返したのは長府藩士の時田少輔だったとも、武人の嫁だったとも囁かれています。



明治44年のこと。
赤禰篤太郎(赤禰武人の養父、赤禰忠右衛門雅平の実子)は、明治政府が行っていた維新殉難者への贈位によって
赤禰武人を復権させようとしました。
史談会からは「贈位に値する」との解答が得られ、帝国議会でも承認が得られたのですが、
あとは政府の最終的な審査だけという段階になって、
山県有朋、三浦梧楼から
『四国連合艦隊下関砲撃事件において赤禰武人は敵前逃亡した』との
主張があり、名誉回復と贈位は実現されませんでした。
「自分の目の黒いうちは、決して赤禰に日の目は見せない」と山県が言ったとも伝えられます。


赤禰武人の贈位に反対した理由はなんなのか?
・奇兵隊は最初、高杉の挙兵に反対を唱えた手前、それに合流するには誰かを『悪者』にして責任を被せねばならなかった。
・奇兵隊日記の欠落は赤禰武人の死と関わりがある?
・奇兵隊日記を破り捨てたのは山県有朋?
(日記を管理していたのは山県で、破り取ることが出来たのは彼だけ
という説がある)
→かつての同志たちによって「裏切り者」に仕立て上げられた、スケープゴートなのか。

その後も篤太郎をはじめ、色々な人物が赤禰復権の請願に奔走するも、
実現しないままに昭和19年に維新殉難者への贈位は
全て打ち切られてしまいました。

平成7年
遺族や関係者の希望で下関市吉田町東行庵(奇兵隊及び諸隊顕彰墓地)に
赤禰武人の墓地が建立されました。
結局贈位は為りませんでしたが、赤禰武人の復権はこれでようやく形を見ました。
しかし、未だ靖国神社などには祭られていません。


参考
「エピソードでつづる吉田松陰」海原徹・ 海原幸子
「開国と攘夷」豊田泰
「狂雲われを過ぐ」古川薫
「奇兵隊燃ゆ」童門冬二
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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