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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.12.04 Wed
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2009.02.14 Sat

演劇集団キャラメルボックスで舞台化されるというので
興味を持って読んでみた。
結果から言うと、とても面白かった。

正直、作者の別作品は納得がいかない部分が多すぎる。
のは、自分が女だからかもしれないが
SFに女は興味がない、SF好きは変わり者
といった偏見を常識として前提に書かれているのが
どうにもひっかかってしまう。

しかしこの作品は、そういったひっかかりが比較的少なかった。
シンプルで読みやすい作品。


以降ネタバレ。

タイムトラベル物だと思いながら読んでいたので
こうきたか、という印象。
滝水が冬の山にコーヒーを詰め込んだリュックを背負って
入山するのが理由付けが薄いし
無事遭難出来たはいいが、その先どうやって暮らしていくのか。
住民票は。保険証は。法的にきちんと結婚が出来る訳でもなく
長者原に事情を話して理解してもらって仕事を回してもらう以外
まともな仕事が出来るとも思えない。

のだが、まぁいいやと思わせる力がある。
運命的な出会い、確信、手紙のやりとり。
そこに育まれる物は、まやかしではない。
その一途さに胸を打たれ、微笑ましく思い、共感する。

多少のおかしな点や、展開が安易過ぎることも
全てそれで許される。


 ところで、通常
『滝水は』と書かれていた文章だが、最初の一度だけ
『浩一』となっていた。
これが実は伏線か? と思ったのは考えすぎだったようだ。
単にミスなのか? 若干の疑問が残る。

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2009.02.13 Fri

一応第二部、とのことなので展開が変わる。
構成も上手い人だとは思うのだけれど、個人的な好みで言えば
回りくどい部分とチープなところがあまり好きではない。
学園モノだった分にはそれもまた面白かったのだが
こうなってくるとちょっとどうだろうと思ってしまう。

また、メディアミックスや番外編は結構だが
話が広がりすぎる上に、それを見ていないと本編が分かりづらくなる
というやり方には疑問を感じる。

 

以下ネタバレ。

廃貴族まではついて行けたが
突然ニーナの立場が隊長とは全く違うところへ飛んでしまい
故郷が云々という話まで出てくる。
これはまだしも、リーリンが単にレイフォンに会いに来る
という以上の絡み方をしてきそうなのが個人的には気に入らない。

実は普通の女の子がキーポイントでした
というのはありがちで、それ自体は別に構わないのだが
ニーナ、リーリン、フェリ、メイがレイフォンに好意を寄せている
という展開を作っておいてこれはどうなのだろう。
と思うのは、自分が女であり、ニーナに肩入れをしているせいか。

レイフォンがニーナを心配するのは
大切な人だからではなく、依存している相手だから。
これは女としてはかなりショックだと思う。
メイのような系統の子なら素直にショックだと泣き喚くだろうが
ニーナみたいなタイプの人は
それが出来ない分辛いだろう。

ファンタジー部分は面白いのだけれど
少々恋愛模様の部分が飽きてきたし
ファンタジー部分も『学園都市』から広がりすぎているように感じる。

唯一、
ツェルニが暴走しており、汚染獣の群れに突っ込んでいる。
そんな状況での会長の演説はちょっと感動した。
あまりに絶望的な状況、というのがわかってはいても
どうもレイフォンがスーパーヒーローなだけに
どうせ大丈夫だろう、という感じで感情移入が出来ないのだが
それでも、武闘科の生徒を誇りが誇りを持てるよう
送り出すことがせめてもの一般科の生徒の務めというのは
とても納得がいくものだった。
 

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2009.02.02 Mon

あつをさんのblogで『葉桜~』と並んで紹介されていた。
『タイトル買いした。僕はとても面白かったけど、腹立つ人もいると思う。』
とのことだったが、私は残念ながら後者だ。

この筆者は、確かに構成は面白い作家だ。
プロがプロを見て成る程、この書き草はうまいな、と思う分には良いが
読者がエンターテイメントとして読めるかというとやや疑問が残る。
勿論個人の好みなので、このオチも賛否両論なのだろうが。

自分は葉桜で、上手いが面白くないと感じていた人間で
これを読んでこの筆者の本は自分には合わないのだろうと感じた。


以降ネタバレ。

あっさり何人も人が死んでいくのは好きじゃない。
ミステリーと言えば人が死ぬ。
その事件に巻き込まれ、解決を試みる。このパターン。
小学生が次々殺されるのは、フィクションの中とは言え気分は良くない。

『息子が犯人かも知れない』
と思ったとき、何故妻に相談できないのか自分には分からない。
夫婦なのだし二人の子どもだろう。
相談しないのは寧ろ妻への裏切りとすら感じる。
仲が良いと言うならすればいいのに。
女はすぐ感情的になるから、か?

些細なことに突っ込むが、別に犬は人と同様に扱うと言うことを聞かなくなる
などということはない。
躾書を鵜呑みにしている人間の発言だ。
犬と人間を同列に扱うなんて乱暴 という発言は
人間が一番、それ以外の生き物は人間より劣るという考えが透けて見える。

こう言った細かい部分は他にもいくつもある。
『道具に生命が宿っていないように』という表現もそうだ。
そういう考えの父親の息子だから、生命に愛情が持てなかったのでは?

一人暮らしでもない限り、パソコンにパスくらい設定する。
こんな親を持つ子どもなら特に。
なんで家族を信頼し、設定しないものだ と断言できるのだろう。

どうも父親がどこか歪んでいる。
ここまで筆者が計算で書いているならすごいかもしれないが
恐らく筆者がこういう考えの人なのではないだろうか。


パソコンの日記を消したから、だからなんなのか。
ライフルマークを知っている博識の父親が
消したデータをサルベージできることもまさか知らないのか?

こんな妄想癖の父親、嫌過ぎる。
正直、補導されて面会したとき「そっち」と展開した息子の独演、
人の命を軽んじているところ以外は至極真っ当だったのでは。


はじめは興味深く読んだ。
確かに、もしこんな状況になったなら、と恐ろしいし
問題提起という意味では興味深い。
が、小説として面白いかと言えば答えは否だ。
況してミステリー小説の面白さがあるかと言えばやはり否。

一度妄想オチだと判明してしまえば
余程じゃなければどうせこれも妄想オチなのだろ?
と読者は覚めて読んでしまう。
それが裏切られれば良いのだが、裏切られることなく
父親は延々と長々といろんなパターンの妄想を繰り返し
結局ふりだしに戻り、最初となんの進展もないまま物語は終わる。
まぁある意味タイトル通りの小説。

無理に爽やかそうに終わらそうとしているが
パンドラの箱にたとえられても
箱から出た悪いもの、は全部父親の妄想に過ぎず
最後に希望が残っていると何故思えるのかわからない。

妄想オチは予想はしたが、こう何度も使われても飽きる。
ばればれだ。

犯罪被害者ではなく加害者、その家族を扱った小説なら
他にもっと良いのがたくさんある。
それなりの答えを出す姿こそが問題提起であって
本当に「もしこうだったらどうしようか」というだけの問題提起を
小説一冊使ってやられても困る。


こういうのが好きな人は勿論いるだろう。
自分は苛々したし、時間の無駄とすら感じた。
繰り返す妄想オチとラストがつまらなさ過ぎる。
真保さんの『繋がれた明日』の方がリアルで辛くて
余程人間の怖さと美しさを感じたなぁ。

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2009.01.31 Sat

漫画は読んでおらず、アニメのみの自分としては
評価するには材料が足りないのかもしれない。

雰囲気を作ろうと努力したことはわかるし
実際一定の雰囲気は作られていた。
長い話を映画という短時間にまとめる為に
数話を抜粋して作り直すという手法も仕方の無いことだとは思う。

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2009.01.31 Sat

あまり入り込めず。
内容がベタベタのサクセスストーリーの割に
努力しているシーンより
愚痴って慰められるシーンの方が印象に残っている。

映像は綺麗で良いと思ったが。

まぁ三部作ということを考慮すれば
導入部はこんなものか?

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2009.01.24 Sat

今月の上旬だったかな。
ちょっとお買い物がしたくて行った事が無いお店に
検索して行ってみたんです。
で、その帰りにすごい混雑しているお店を見つけまして
今度行ってみようか、って話を相方としてたんですよ。

今日ね、予約して行ってみた。
豆腐懐石かな。ジャンルとしては。

あんまりお豆腐って普段食べないんです。
嫌いじゃないんですけど、美味しいと思わない。
でも、こういうちゃんとしたお店のお豆腐は旨い。

市販の豆乳と、自分で豆から作った豆乳って全然味が違って
後者ってすごく豆の味がして甘いんだけど、
やっぱりお豆腐屋さんのお豆腐は、甘くて美味しい。

出来立てのお豆腐、湯豆腐、胡麻豆腐、とろろご飯に
揚げ物、煮物…
安くて美味しい。(*´ー`)
写真はお豆腐の苺ムース、おからドーナツ、お豆腐レアチーズ
の三種盛り合わせデザート。

埼玉の田舎三箇所にしかないのがやや残念ですが
客層もやや悪だったし。
でも接客は結構良かったので満足です。
また今度行こうと思います♪





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2009.01.22 Thu

それぞれの家族のみっつの物語。
あまりに生々しい。
生々し過ぎてくどいと感じる部分すらあるほどに。
しかし読み終わるとほっとする。
優しいことばかりが書いてあるわけではないのに。

家族はどれも、所謂世間で言う家族とは違っていて
所謂当たり前とは程遠い、けれど幸せを知っている。
世間で言えばマイノリティで、不幸と言われる存在かもしれない。
でもそれが彼らには普通で当たり前の日々であり関係。
異常にも慣れ、受け入れるのが人間なのだ。
そしてその中で、彼らのそれぞれの人生を彩っていく。

日に透けた髪に枝毛があって、
しかしそれですら愛していたのだろう
という描写はばななさんならではの愛情の描き方だと思った。

個人的には、『姉さんと僕』が気になった。
書いてあることはあまりにショッキングだ。
幸せの最中、新しい幸せを迎える為の散歩中
未来が奪われてしまい、ただひとり僕だけが希望として残され
それを見ていた姉。

飲酒運転は許せない『僕』は、気性の激しい人だろうか?
私には、彼の身の上を聞いても平気で飲酒運転する人間の方が信じられない。

登場人物たちの闇を普通のこととして理解できる自分は
やはり闇を持っている人間なのだろう。
しかしその闇は、多かれ少なかれ誰しもが持っている
人間臭さのひとつなのではないかと思う。

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2009.01.22 Thu
妹には見えない友達がいる。
ある日その友達がいなくなり、兄は自分には見えない
妹の友達の存在を信じ、探しに出かける。

このあらすじからは、ファンタジーや
もっとやわらかな内容を想像していた。
しかし中々リアルで、派手さはないながらも
最後はじんとしてしまう作品だった。

以降ネタバレ。

兄のアシュモルが、妹のケリーアンの想像の友達に
嫌気がさしている様子がリアル。
正直見ていても、いらっとする部分があったほど。
何故妹にだけ見えるのか。それは幽霊なのか、
ケリーアンの妄想なのか。
そういった細々したことは全部すっとばして、
家族がケリーアンの想像の友達を
信じていないながらも受け入れていく。

その最中で父親が泥棒に間違われ、世間での評判も悪くなり
父も母も仕事を失ってしまうあたりでは
一体この先どうなってしまうのだろうと
鬱々とした気分になった。
娘は友達がいなくなって塞ぎ込み
両親の気持ち考えると痛々しい。

アシュモルが友達にからかわれる描写は
少なかったものの、実際町全体があんな雰囲気になれば
父親は泥棒で妹は精神異常者
だからあの一家はみんなおかしいのだから
退けて当然、と考え
もっと酷い虐めに発展することは容易に考えられる。

それなのに、妹の言うことを信じてみようとして
言われるままに夜の坑道に
自分には見えない妹の友達を探しに行く。

実際落盤事故に巻き込まれて見捨てられたとすれば
随分グロテスクな話だし
オパールだってたまたまそこにあっただけで
それこそ泥棒かもしれない。
父が訴えられていて弁護士費用も欲しいところなのに
葬式代に変えるなんて
と、突っ込もうと思えばいくらでも大人視点でつっこめてしまうのだが
アシュモルは妹の友達の”遺体”を見つけ、
友達の為に葬式をあげてやると約束する。


父の裁判は弁護のお蔭で泥棒の容疑は晴れ
傍聴者も段々と、言わば集団ヒステリーの状態か覚めていく。
アシュモルが、妹の友達の葬式をやるから
みんなが来てくれたら妹は元気になるかもしれない
と言うのはじんとした。
日時を言い忘れるのもリアルでいい。
先の展開は読みやすいけれど、わかりやすいし
みんな来るだろうとわかってはいても
多くの人が集まったのを見て感動してしまった。

お葬式の最中での、父とアシュモルのスピーチが良い。

人は自分に見えないもの、わからないものを敬遠しがちだ。
それを信じる人自身すら退けようとすることもある。
しかし、空想の友達、幽霊など以外にも
この世の中には実際に目にすることができないことなど
いくらでもある。
アシュモルの、妹を愛する気持ち。
信じようとする気持ち。
伝えようとする気持ち。

アシュモルは良い兄貴だし、
父も母も良い親だ。
家族の思いやりが、町の人たちの気持ちをも動かした。
じんわりほんのりと温かくなれる作品。

同名小説を映画化したとのことなので
小説の方も読んでみたいと思う。

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2009.01.18 Sun

フルメタル・パニックというラノベの名前は知っていた。
流行りのものは敬遠しがちな性分なので、読んだことがなかった。
アニメを見て、面白そうかもしれないと思い読んでみたのだが…
正直微妙。

第一巻は特に、書かれた時代が古く情報や書き草が古い
というのもあるのだろうとは思う。
あとがきに注釈として色々載ってもいるのだが…。

以降ネタバレ。

ハイジャックされた飛行機が、沖縄上空から北朝鮮というのは
取るルートや会社により違いもあるのかもしれないが
積んでいる燃料から言ってかなりギリギリではないのか。
ハイジャックされてるんで進路無視で飛んだという設定かもしれないが
意外に上空には素人が思っている以上にいろんなものが飛んでいる。
航空管制塔の指示も仰がずそんなことをすれば、大事故も起きかねないのだが…。
パイロットを殺してしまってコーパイだけで、燃料ぎりぎりで
管制塔と碌に会話もせず北朝鮮に着陸、ねぇ…。

高校生にもなって、ハイジャックされているのに平気で機内で遊びまわるとか
得体の知れない外国人に捕まって、武器をつきつけられたり
裸にされて投薬されても怯まない女子高生とか

ちょっと酷すぎると思った。

アーム・スレイブだのミスリルだのという突拍子も無い設定も、
機械的にきちんとした(していそうな)設定があり、
かつその他の背景設定が作り込んであればすんなり受け入れられるものだが
その辺りが適当に流されてしまうと、戦闘シーンなどでも感情移入できない。
ラノベだから、フィクションだから、で状況設定や考証が甘くてもOK
というのであれば、微妙だなと思う。

続きを読むか読むまいか、正直迷っている。

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2009.01.17 Sat
SHIBUYA-AXへ行ってまいりました。

私の好きな劇団、"演劇集団キャラメルボックス"さんが、
劇で使っている曲のミュージシャンを集めてライヴしちゃおうという新年会企画。
公式blog
http://caramelbox-newyear09.blog.so-net.ne.jp/
少なくとも石田ショーキチさんが見られるので、行く気満々で前売りでチケットを取りました。

で、専用blogもupされていたんですけども、そこに
パーティというからにはちゃんとした恰好しなくちゃいけないの?
って質問があったりなんかして。
当然半袖Tシャツ+ジーパン+スニーカー onタオル装備
で行こうとしていたオイラは、逆にΣ(゜Д゜;≡;゜д゜) となってしまいました。

自分は、たまたま、スパイラルライフが好きで、キャラメルが好きで、
そしたら音楽雑誌読んでたらキャラメルでSLの曲がって記事見て
はっ?! ってなった奇跡マチな人なわけですけども、
もしそうじゃなかったら。。。
SLのファンでキャラメルにはまった、またはその逆 って人と知り合ったことはあるのですが
世の中には、芝居は好きだけどロックは嫌い、音楽好きだけど芝居は無理
って人もたくさんいるわけじゃないですか。

で、多分この催しに来る人って、キャラメルのファンが殆どで、
その中には私のようにライヴ行きまくりの人もいれば
一度も行ったことない人もいれば、
寧ろキャラメルなんて知らないけど、**さんが出るから聴きに行く
って人もいるわけですよね。

普通の対バンイベとは客層が絶対違うわけなんですよ。

そ、そっか。
じゃ、ダイヴはしちゃいけないんだ??(゜Д゜;)

と気付いたら、何着て良いか逆にわからなく。(笑)
Gパンに半袖のニットにパーカー(←しかもAIRのLIVEグッズw)にコートで行くことにしました。

いざ16時過ぎに到着してみたら、人いっぱい集まってるけど
なんか整然としていて、整理している人たちも拡声器ナシの生声で、
煙草吸ってる人も殆どいないし、
何よりみんなコート着っぱなしでTシャツになってる人なんかひとりもいないっ。
AXで。よもやそんなまさか。(笑)
自分的に珍しい光景でした。

400番台前半で中に入りまして、後ろのテーブルに席を取り。
明らかに劇団ファン雰囲気で、ライヴ前雰囲気とちょっと違う会場内。
配られたモモサンバイザーを被ってる人結構いて、
暴れるのに邪魔っつーか前見えなくなるからやめてっ。
ディズニーランドでパレードetc.中被り物NGは常識よっ?
とか思っていたら、前説で加藤さんが被るの推奨しちゃったよ。(笑)
まぁいいんだけど。
どうせチビなので見えないから。だからモニター付近陣取ったんだし。

「サンバイザーを場所取りに使えばいいんだって」
と、加藤さんがおっしゃっていたことを、
お父さんがトイレから戻った娘さんに話していて、
ちょっw お父さんそれはネタかと思われww
つーか暗闇でそんなことしても普段のライヴなら踏まれて終わるのがオチ。
なんだけど、普段のAXとは違うので、ガチでキャンプとか用の小さい椅子持ってきて座ってる人とかいて…
軽くカルチャーショック受けた。(笑)
AXで…折り畳み椅子持込…すげー光景だ。(私的に)

でも悪いけど私はライヴモードで行かせて頂きますよ?

ってことで、始まってからは竹中さん以外踊りまくっておきましたが。

各アーティストさんのセットリストは勿論、
アーティストさんの順番がこれしかないって順番で。
実力派な鈴木理一郎さんで幕開け。
竹中三佳さんでしっとり。
OCEANLANEさんでがつんと盛り上がり。
堂島孝平さんで更にヒートアップ。
でトリに石田ショーキチさんという。
美しいよね、この流れ。

トータルだと四時間半という長丁場なんですけど、
実際聴いてみるとひとりひとりの持ち時間がすごく少なくて。
え? もう終わりなの? とびっくりしてしまいました。

思った以上にOCEANLANEさんが個人的にはまりまして、
ガチでBLITZかどっか行かせてもらおうかと思います。
生で聞いたら滅茶苦茶良かった。ただでさえ良かったけど
ありえないくらい良かった!

…チケット取れるのかなぁ?
客層若そうだしなぁ…。初心者だし二階席とかあるところで
すみっこでこそーりと暴れたいなぁ。(*´ー`)

我らが石田さんは相変わらずオーラ(高圧的らしい・笑)満開だし
トークもこなれて面白いし
演奏は言わずもがなで…
久しぶりに石田さんの声と生のギターの音が聴けたので
それだけでものすごく幸せ気分になりました。



後ろから見ていたので、
この人はキャラメルしか興味ないんだな。
この人はOCEANLANEのファンかっ。
ずっとおとなしくきいてた隣の人が、石田ショーキチで突然踊り出したっ。Σ(゜Д゜)
って感じで、どの人がどういうファンの人なのか立ち居振る舞いで見分けついて
なんだか面白かったです。(笑)

いろんなタイプのお客さんがいたのに
ちゃんと盛り上げてまとめてくれた加藤さん初め皆様のアイディアとバイタリティは
本当にすごいなと思いました。
お疲れ様でした。
また来年楽しみですね。(笑)




以下蛇足です。
キャラメルファンonlyな方は後半読まない方がいいかも?
警告はしましたので、読んで不快になったからとかで
メッセとかコメントはしないでくださいねー。




相方が煙草を吸いに出たら、AIRさんとこの社長に出会ったらしく。
「向こうも俺を見てあれ? って顔してた!(妄想が暴走中)」
と言い張っておりましたが。(笑)
私は招待くらいするだろう、普通見に来るだろうとは思っていたので
やっぱり! と思い。
くるちゃんも来てたりして! だったら歌って行って!
spiralの曲ちょっと歌ってって!!w
と更に妄想が暴走しました。(笑)

さっきも書きましたけど、自分はバンドも芝居も好きで
どっちも免疫があるからいいですけど。
別に演劇オタではないんですよね。
だからガチなキャラメルファンさんを見てると、びびることも結構あります。
ぶっちゃけたところ。
単に知識すごーい。かなわなーい。ってのはいいんだけど、
知識ひけらかしたいタイプの人は、演劇オタに限らず嫌いでふ。
で、KYだし好きなこと以外に興味がない人っているじゃないですか。

たまーにそういうオタの人がいて、いらっとすることが
公演を見に行っているときもあるんですけども。
こう、声高に呼び捨てで役者のプライベートな話して、
聞こえよがしに「あたしこんな知ってんのよすごいでしょ」みたいな。
そういうのって、本当のファンとは言えないと私は思います。

この時もそういう人が間近にいらっしゃいまして、
話し声が聞こえるんで苛々してたんです。
ライヴ中はミュージシャンに興味なしで劇団のことをおしゃべり。
合間の劇団員さん出てくると急いで人掻き分けて前行く感じ。

対バン形式で自分目当てのバンドじゃなくても
真面目に静かに遠慮気味にノッて聴く
興味ない態度は失礼 と思ってる自分からすると、
かなりナイ態度なわけなんです。

で、私のいたテーブルの前に行ったんで、更に前は見づらくなったけど
あけすけな演奏中の演奏に関係ないことについての大声のおしゃべり
が聞こえにくくなるのでまぁいいやって思ったんですが。

自分の隣の人がテーブルの上に置いていた荷物が、彼女がテーブル凭れるもんで腰にあたって押されて何度も床に落ちて。
ライヴ中はステージに集中してる隣の人が、合間に落ちてるのに気付いて
その度自分で拾っていらしたわけなんだが。
それだけでも、周囲に対しての気配りというか
注意力ない女だなーって思ってたんですけど、
三度目に落とした時、思い切り背中に手をやって、
テーブルと自分の腰の間の荷物を後ろ手にがしっと掴んで
下に投げ落としたんですよ。
気付いたんなら振り返って戻す、持ち主に会釈で謝る が常識だと私は思うにも関わらず。
邪魔だから下に。
落として無視。

決定的にありえないと思いました。
自分の荷物だったらぶちきれてたかも。

私の愛する石田さんが歌ってるのに、
おっかーさんを探して見つけて大騒ぎしてたりとか。
自分が楽しむのはいいけど、それで他人の楽しみを邪魔するのはあんまりじゃないの?
普段上演中のおしゃべり云々って注意事項知ってるでしょ?
で、守ってるはずだよね?
ライヴだからおしゃべりが一切駄目とは言わないけどさ。
なんで上演中のおしゃべりが駄目なのか
理由自分で考えてないから平気でそういうことするんだろうな。

芝居好きで、芝居自分もやってた人間だけど
初対面かそれに近い人に芝居好きって言いづらいのは
自分の周りの抱いている芝居好きのイメージって
こういう女のイメージだからなんだよね。

こういうタイプの人って、見た目だけで分かる。
如何にもって感じ。
判で押したように。

自分の行動如何で自分の好きな芝居やキャラメルのイメージが
良くなったり悪くなったりするかもしれない って
考えられないヤツは本当に好きなんじゃなくて
キャラメルが好きって言ってる自分が好きなだけなんだと思う。

こういう奴見ると、毎度毎度がっかりするし、ぐったりしますわ。

こいつが一番ムカついたけど、他にも
飲み物ずっと手に持ってるのダルイ気持ちはわかるから
声かけるなり目が合ったときに会釈するなりすりゃいいのに
なんもなしでうちらが陣取ってたテーブルに置いちゃうのはまだしも
うちの荷物の上に遠慮なくおきやがったりとかさ。
この人らも会話聞いてるとキャラメルファン。

自分だったら、置かないし、置くとしても
「すみません置かせてください」って声かけるし
間違ってもその人の荷物の上に置いたりなんかしないけどね。

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2009.01.17 Sat

見てみたいとは思いつつ、気が重くて中々見られず…。
やっと見てみた。
結果、見てよかったと思った。

タイトルだけでは、ピアニストが徴兵されたとか、現地で兵士を慰めるための音楽を弾かされていたとかそういったことを想像したのだが、
全く違った。
ただただユダヤ人であるピアニスト、シュピルマンが迫害され、逃げ、生き延びる姿だった。

迫害される様子が取り立てて残酷に大袈裟に描かれるのではなく、
なんの躊躇もなく無表情に突き落としたり銃殺したり
略奪したりする様子が寧ろリアルで空恐ろしく感じられた。
シュピルマンがそれらを特別に助けるヒーローでもなく
普通の人として、できることをし、できないことを悔い
時に貪欲に生き延びていく。

原題は『The Piannist』であり、わざわざ「戦場の」とつけたことを
批判する意見も見たが、自分は寧ろ素晴らしい邦題だと思った。
戦場というのは、何も最前線だけではなく
ゲットーの中も戦場である、日々を生きぬくことが戦いなのだ
と感じられた。
そうした深い意味を込めてつけられた邦題なのかは知らないが。


以降ネタバレ。

シュピルマンを真摯に匿ってくれる人間もいれば
人の弱みにつけこんで金を持ち逃げする人間もいる。
追い風の時に味方することなど誰にでもできるが
こういうときこそ人間の真価が問われる。

大尉がシュピルマンの名前を聞いた時
何故らしい名前だと笑ったのかイマイチわからなかったが、
ドイツ語でシュピールが演奏する、マンが男なのだそうだ。

ドイツ兵が捕まり鉄条網で囲われた中にいるのを見て
ざまぁみろと唾を吐きかける様子は痛かった。
人としていけない行為ではあるのだ。
だがしかし、あれだけ辛い思いをさせられ、その元凶がこいつらだと思えば
そうしてしまいたくなる気持ちもわかってしまった。
その罵声で相手が音楽家だと知った大尉が
「自分はシュピルマンを助けた、だから自分を助けて欲しい」
と言うのが、全くのフィクションなら出てこない台詞な気がする。
その格好悪いまでの人間臭さがあまりにリアルに感じた。

この大尉、調べてみるとシュピルマンだけを特別救ったわけではないそうだ。
ポーランド語を覚えポーランドの教会に通うなど
やはりそれだけの人だったらしい。
こういう人こそ生き延びて欲しいものだが、獄死してしまったそうだ。
シュピルマンの演奏をラジオで聴くことはできたのだろうか。

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2009.01.16 Fri

大筋は面白いと思う。
最強である主人公が、最強であることを一般人にばらしてはいけない
というのは中々興味深かった。
確かにそんな面はあるだろう。
人間は自分の目で見なければ信じない。
信じていると口では言っても、百聞は一見に如かず。

以降ネタバレ。

この刊では、ミィフィとメイシェンが個人的にはムカつきました。
確かに、恋だろうが愛だろうが好きな人が心配になるし
話して欲しいと思う女心はわかる。
が、付き合いが短いのだから過去によっては信用問題に関わる
というミィの言い草と、それに最終的に同意してしまうメイとナッキには
がっかりした。

私はそんなに世間で言うほどフェリが可愛いとも思えないし
男が描いた女、ということなのかもしれないが
このミィたちのうざさはあんまりだ。
今のレイフォン、あるがままのレイフォンを受け入れて
話してくれるのを待つという選択肢が何故取れないのだろう。
訊いてもいいだろうか、と尋ねる段階も全てすっ飛ばして、
天剣授受者ってなに、と逃げ場のないところから訊いてしまうあたり
えげつないなぁと思った。
自分がレイフォンだったら、手紙読まれるは根掘り葉掘りップライベートを
しかももう知ってるから答えろ って感じで訊かれたら
ぶちきれてしまうと思う。
ミィとメイはただの世間知らずの女でしかないんだな
という印象になってしまった。

自分が感情移入しやすいのがニーナとナッキなのは、
たとえ自分の方が弱くとも、たとえ足手纏いになろうとも、
何も知らずにいる側ではなくて、武器を握って同じ戦場に立ちたいと思うからだろうか。
リーリンやメイの立場にいるのは真平だ。
フェリの立場もイマイチ違う。
同じ場所に立って同じ痛みを感じていたいと思う。
レイフォンの感じるものとは違ったとしてもだ。

レイフォンがいつか共に戦って欲しいと言ったが
如何ともし難い力量差があっても、それでもそう言って貰える立ち位置に
いつかではあっても辿り着けるところにいたいと思う。

そういう考えが無いから、自分の気持ちだけを優先して
追い詰めて怪我をさせて、落ち込んで心配させるという
身勝手な行動を取ってしまうのではないだろうか。
自分は、そういう女ではいたくないな。

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2009.01.13 Tue

結論から言うと、さして面白くもないし
目新しい記述も見つけられなかった。
子孫の方が執筆と言うと、我々の知らないような
身内ならではの話が聞けるのかとつい期待してしまうが、
作家や、一体誰だ? と思ってしまうような人の寄稿
インタビューなどが本の大半。

しかも、今日日史実ではないと言われていることを
史実として話したり、小説というフィクション作家なのに
子孫の方を目の前にして、あんたの先祖はこうだった
とまるで見てきたかのように断言するというのは
ある意味よくできるもんだと尊敬する。

この中に渡辺多恵子氏のインタビューもあり、
歴史家には一番馬鹿にされそうな少女漫画家の渡辺氏が
一番史実を調べ時代考証をしている上
謙虚に「私は~だと思います」と飽く迄自分の意見、
自分の思う永倉新八はこうだったと思う、という語り方をしている。
至極真っ当な態度だと思う。
自分はこれが普通の態度であると考える。
特に、子孫の方を目の前にして答えるのであれば尚更。

子孫だからと言ってそれに誇りも持たず
祖先に興味がない人も当然いるのだし
ネームバリューで金稼ぎや個人の売名に使うだけの人もいる。
剣術をしている人で、段だら羽織で演武することに疑問を持たない人も
それは違うだろうと考える人もいてピンキリなのだから、
致し方なしと言えば言えるのだが。

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2009.01.10 Sat

思いの他シャーニッドが掘り下げて描かれていて
読んでいて面白かった。
新しいキャラも複数出てきたし、今後に期待が持てる。

以下ネタバレ。

廃貴族という設定は面白いと感じた。
何故貴族なのだかはわからないが
このまま学園に留まっているなら次刊以降で色々と
問題を引き起こすことになるのだろう。

シェーナのキャラは中々好き。
うまくいっていた頃の三人を思うと、少し切なくなる。

ハイアの登場でレイフォンの過去もまた少し掘り下げられた。
刀使いという設定だが、
自分への罰、大切なものを穢したくないからこそ
刀を使うのを封じる、という気持ちはわかる気がする。
確かに刀と剣は似て非なるものだし、熟練した使い手であればあるほど
その違いは大きくなるのかもしれない。

ところで作者は、多少なりとも武道の心得がある人なんですかね?
全然ご本人様についてよく知らないです。
武芸者サイドの苦悩や本心の吐露が要所要所にあるけれども
これがご自身の経験に少なからず裏打ちされたものだとすれば
面白いし今後とも期待大なのだが。

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2009.01.09 Fri

久しぶりにこんな酷い本を読んだ。
資料として写真が欲しかったので読んでみたのだが、激写と言うほど天然理心流だけが取り上げられているわけでも
迫力ある写真が載っているわけでもない。
文章やイラストが多いのは構わないのだが、偏見に満ちた文と絵で驚いた。
現代の殺人事件やテロと、この当時の暗殺や斬り合いを同列に捉えているのは、殺人事件の被害者やご遺族
剣豪の子孫の方々、どちらに対しても大変失礼だ。
時代考証もろくに出来ずに原稿を書いているのだろうか。
更に、参考資料として小説が山ほどあげられている。
さも事実のように記載し、小説**より、と言った記事がいくつもあるが、
少し調べれば小説としての虚飾であったり、作家が史料にあたるのを怠って間違いを書いたりしている
ということぐらいすぐわかるはずのことだ。

一般人が小説を事実と混同していることすら嘆かわしいのに
幕末の剣豪たちと断言して出鱈目を堂々と書くとは。
この本を読んでフィクションと史実を混同する人が益々増えそうだ。

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2009.01.08 Thu
掃除をすれば幸せになれる、と聞くと眉唾ものの新興宗教のようだが、
心理的に確かに頷けるものはある。
綺麗な場所にいれば気持ちも落ち着くし
考えも前向きになるだろう。
古来から掃除が鍛錬や修行、厄払いに用いられてきたことを思えば
実際運が良くなるかは兎も角として
掃除をして身辺を清め整えるのも一興と思う。

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2008.12.25 Thu

予想以上に子供用であり
全く知識の無い人以外は大人には向かないと思われる。

かなり噛み砕きわかりやすい分
事実からは微妙に逸れている部分もある気がする。

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2008.12.11 Thu


写真というのは、その人の視点を知ることだ
という話を聞いたことがある。
その人がどのように世界を見ているのかを、写真を通して知ることができるのだと。

このLivespireは、丁度そんな感じだろうか。
舞台を、映像の観点から、他人の視点で限定された情報を見る。
それは不自由でもあり新鮮でもある。
特に自分のように、舞台も映画もそれぞれに好きで
舞台の『嵐』を実際に見た人間としては
どのような映像に仕上がっているのかかなり興味があった。
事前にブログなどで、キャラメルのみなさんの高評価は目にしていたが、出来るだけニュートラルに見るように努めた。

※Livespire
ソニーによる、舞台等をデジタルシネマ作品として映画館に配給するサービス。
http://www.livespire.jp/

演劇集団キャラメルボックス
http://www.caramelbox.com/

ストーリーや芝居についての感想は
舞台を見た時に書いているので今回は割愛しようと思う。
また、若干のネタバレもあるのでご了承願いたい。


映像を見て一番驚いたのは、カット割りだ。
キャラメルの舞台をDVDやTVで見たことはあるが
その作り方はやはり舞台が基本の見せ方。
Livespireの場合はより映画的に仕上がっている。
広瀬教授がひとりで観客に話しているシーンひとつとっても
様々な角度からのカメラアングル。
時に寄ったり、劇場の客席からは見えない街路樹のアップなど
随所に差し挟まれている。

「自分なら『ここを見たい』というシーンで、こっちの映像を挟むか」
と、自分の好みとのギャップも含めて面白みを感じた。

舞台は引いた状態で、客がそれぞれ好き勝手に見たいところを見る。
映像の場合はカメラの向いたところしか見られないのだが、それが逆に新鮮でもある。舞台ではけして見られない役者の小さな表情の動きも見られる。
上映後の取材でその違いについて苦労されたのでは、と監督に質問させて頂いたところ
やはり情報整理には気を遣ったと仰られていた。
テンションの高いキャラメルの芝居を詰め込みすぎず
少し引いたところで見るように。
飽く迄も舞台は観客がいてこそなので、客の笑い声などを
完全に消すことは考えていなかったが
画面の中の観客と、映画館の観客との間にギャップが出ないよう
笑い声を調節するなどはしたそうだ。

コラボものとは得てしてそういうものだが、バランス感覚が一番大切だ。
失すると1+1=2どころか、どこまでもマイナスになってしまう。
舞台の客の笑い声で、映画館の客がひいてしまっては元も子もない。
臨場感や会場の雰囲気が違うのだから、
同じものを見て同じ反応をするとは限らないのだ。

舞台用と映像用では、役者の演技の仕方ひとつとっても異なる。
舞台用のメイク、振り、発声
それをうまく映像に切り取り、収める。
舞台という芸術を映像に作り変える、これもまた芸術なのだと思った。

一番苦労されたのは、波多野のふたつめの声を
ユーリが初めて聞くまでの一連のシーンだったそうだ。
登場人物たちが全て出揃い、それぞれの思惑を抱えて舞台に立っている。
舞台では全てを見ることが出来るが、映像では限定されるので
どれを選び見せるかということに気を遣ったという監督のお話
成る程と思った。

Livespireに使う映像を撮る際には
役者もそれぞれにマイクをつけたそうで
どの音を切りどの音を生かすかの判断もとても難しかったのではないだろうか。
舞台では最前列で見ていたらしいお客さんが
クライマックスシーンで嵐と幸吉の硝子を割る音とで
波多野の「死んでしまえ」はほぼ聞こえなかったと仰っていた。
それが映像では、ぎりぎりのところで聞こえる。

勝本が「(台本を取りにいってもらって)ごめんね」という小声や
雪絵の息遣いなど、舞台では聞き取れないような音が聞こえたのは非常に面白かった。

音と同じく映像ならではだったのは、やはりアップなどのカメラワーク。
安理さんが、
舞台では実際に殴らない乱闘シーンも、映像では殴られているかのように見え、緊迫感が増すと仰っていた。
映像ではアングルやフレーム数でいくらでも"誤魔化す"ことができる。
舞台では役者の演技力で作られる緊迫感が
映像処理でまた違った緊迫感を作り出すことができるのだ。

高杉と言い合いになり始めて、心配した雪絵に大丈夫、と言いながら
高杉の方へ向かう波多野の
大丈夫という手話と目線の鋭さに
波多野が高杉を敵と認識して立ち向かおうと戦闘体勢に入る様子が見て取れ
こういったところは舞台ではかなり前のほうの席でもない限り
感じ取ることが出来なかった点だろうと思う。

波多野に近づかれてどんどん表情が強張っていくユーリ
オーディションの際ユーリの演技にはっとする滝島の表情
手話を取り入れたダンスシーンでのチカコの笑顔
「彼って誰だ?」と問いながら気付く己のことだと気付く幸吉
などなど、はっとさせられるところが多かった。


正直、「そうは言っても舞台の生の迫力には叶わないだろう」
と思っていたのだが、違った。
切り捨てることで凝縮されたキャラメルボックスの面白さがそこにはあった。

芝居が好きな人は、大画面で大音響で
美しいカット割の映像を楽しむことができるし
芝居に免疫のない人でも映画みたいなもの、として
気軽に楽しめそうで、とても面白いと思った。


しかしながら。
舞台では前説などで飲食・おしゃべり、携帯電話等々について
注意を促してくれるので今まで観劇中に然程嫌な思いはしてこなかった。
今回の試写で、上映が始まってだいぶたってからやってきた二人組みがいたのだが
正直それだけでも大変迷惑なのに、がさがさと遠慮なくコートを脱いだり
足を組んだり喋ったり、飲み物を飲んだり飴を食べたり。
特に飴は匂いとその包み紙の音に閉口した。

自分は映画でも、上映が始まると集中するので
飲み食いやお喋りは基本的にしないタイプなのだが
それにしてもブログライター=恐らくキャラメルのファン が
舞台ではなく映像だからと言ってこうした行動に出るだろうか? と思ったら
案の定ブログライター用の席だと知らず、あいていたから座っていたようで
取材に残らず上映が終わるとコートを着て出て行った。

映画館となれば、館でポップコーンが売っているわけでもあるし
上映前に食べ終える、物音を立てないよう食べる か
気にせず食べながら友達を喋る かは個人の判断に委ねられる。

間口が広がるのも、痛し痒しというところか。

 

余談だが、佐藤監督が丁寧に言葉を選びながら
質問に答えてくださり、技術者かつ芸術者なのだろうなと感じた。
そしてワンピースで現れた安理ちゃんの可愛いこと可愛いこと…。
小さくて必死に頑張る安理ちゃんのユーリも
とてもはまり役だったなと改めて思った。

Livespire 『嵐になるまで待って』
本編:124分
(c)株式会社ネビュラプロジェクト/ソニー株式会社 2009

2009年春 全国映画館で順次公開
 

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2008.12.09 Tue

読み出した頃は高校生だったんですけどね…。
今ではすっかり遠い昔で、卒業生を送る会で体育館に椅子を持って移動、とか
やたら懐かしいですね。
以下ネタバレ。


 

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2008.12.07 Sun

公開当時映画館まで見に行った。

実話を元にしているからと言って
丁寧に作ってあるとは限らないし
押し付けがましいだけの話になることだってある。
しかしながらこの作品は、非常に丁寧で
ここに描かれる現実を生き抜いてきた人たちへの
敬意もきちんと払われているように感じられる。
それでいて、可哀想だの頑張っただのという
押し付けがましさがなく、見ていて自然に感情移入出来、
紀美子のダンスシーンでは映画の中の観客と同じに
思わずスタンディングオベーションをしてしまいそうなほど
感動した。

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2008.11.30 Sun

11月28日。
演劇集団キャラメルボックス2008年クリスマスツアー
『君の心臓の鼓動が聞こえる場所』
11月1日から札幌、神戸、名古屋を経て、29日から始まる東京公演に先立ち
ゲネプロを拝見させて頂ける幸運に恵まれた。
"ブログライター"という、素人が舞台を見て取材をし、ブログに記事を上げるという招待企画。
どの道レビューを必ずブログに上げている自分。いつもと同じことをするだけなのに
無料招待して頂けて取材までできるとは。
いつも応募しそこねていて今度こそは、と応募したところ当選し
初めてのブログライター取材参加となった。


ヒロインが黒川智花さん。客演な上に『芸能人』が主役だ。
正直、ある程度以上演劇を齧っている人間なら、芸能人が舞台に立つことに否定的になる人は多いだろう。
いくら女優でも、映画やテレビと舞台は全く違う。
求められるスキルが違うのだ。
何年もみっちり基礎から訓練をして舞台に立つ役者陣の中にあって
たとえば声量が足りないなどは致し方ない話。
それを「芸能人だから」。「女優さんだから」。とそのまま許したりマイクをつけさせたり
そういった観客はもちろん客演者ご本人を馬鹿にしないところがキャラメルボックス。

舞台に白いダウンのコートを纏って登場した黒川さんに私は目を奪われた。
稚拙な表現をするなら、『芸能人のオーラ』というものだろうか。
立っているだけでそこが輝いていて、ちょっとした手の仕草までが可愛らしい。
しかし舞台が進み話が明らかになっていくうち、彼女が可愛らしく見える別の理由に思い至った。
それは黒川智花ではなく、彼女が演じるいぶきの、溢れんばかりの父への愛が
いぶきを可愛らしく輝いて見せるのではないかと。

黒川さん演じるいぶきは19歳。
西川浩幸さんが演じる脚本家、根室典彦の娘だ。
典彦はいぶきが5歳の頃に妻の亜希子と離婚し、それ以来一度も娘とは会っていない。
ばかりか、自分の娘がいることも、結婚していたことも周りには話さず
元教え子の砂川と立ち上げた会社『ダブルハーツ』で日々執筆に励む日々。
クリスマスの近いある日。そんな典彦の家に、いぶきが自分の書いた小説を持って現れる。
14年ぶりの愛娘との再会だった。


重たくなりがちな親子愛というテーマだが
そこはやはりキャラメルボックス。
テンポ良くまさに笑いあり涙ありで軽快に物語が進んで行く。

拝見した後の"取材"では、製作総指揮の加藤昌史さん、脚本・演出の真柴あずきさん
更にたった今ゲネプロを終えたばかりの西川さんが来てくださった。
舞台自体にも感激したが、我々の質問に真摯に丁寧に答えてくださり
一質問すれば十返ってくるという体で、大変感激した。
舞台の余韻で感想ばかりが浮かび、みなさんの質問を聞きながらいくつか質問を考えたが
他の方の質問とかぶったり、コアな質問をしても…と自分なりに厳選して
ひとつだけ質問をさせて頂くことが出来た。
取材でのみなさんと真柴さんのやりとりを聞いていて気が付いた。
自分はどうも、典彦のマネージャーを務める、岡内美喜子さん演じる真知子の立場で
典彦を見ていたようだ。

このお芝居は、成井さんの同タイトルの小説が原作としてあって
それを舞台化したものだ。
残念ながらまだ小説の方は読んでおらず、比較して見られなかったのがもどかしい。
原作を読んでから舞台を見たのは、自分は『クロノス』が初めてだった。
これは自分としては、かなりの挑戦でもあった。
何故なら、先に原作を読んでしまえば原作が面白いと思うに決まっている。
原作に忠実でない部分ばかりが目に付き、映画やドラマや舞台を純粋に楽しめなくなる。
それが大抵のパターンなのだ。
しかしながら、何度も書いているがクロノスは違った。
原作で疑問のあった部分が全て解消され、感動し、
あれほどまで面白くすることが出来る『脚本家』という人に対し
悔しいと感じるほどだった。
それ以来、キャラメルの舞台で原作モノは、原作を先に読むようになった。
却ってその方が、「まさかあれをこうしてしまうとは!」と驚嘆し楽しめてしまうからだ。

繰り返しになるが、今回は原作をまだ読んでいないのだが
真柴さんが脚本にするにあたり、女性としての視点を入れた、というのが印象的だった。
原作は成井さんが、自分をモデルに書いた小説とおっしゃっているほどのもの。
典彦の一人語りともいうようなお話だという。
だが、主人公は女性であるいぶき。典彦の母、妹、マネージャーの真知子
プロデューサーの奥尻、マネージャーの亀田
そしていぶきの母の亜希子。
みな女性だ。
リアルでシビアな女性視点が、男性視点の話に取り入れられることで
同性が見ても嫌味にならない女性の可愛さ、外で働く女性の恰好良さ
結婚という"家内"としての仕事と外の仕事との両立の大変さ
がさりげなく散りばめられることで、物語はよりリアルに観客の心に迫ってくる。

脚本家典彦を尊敬し、仕事を尊重してあげたい。
しかし娘との再会も大切にしてあげたい。
いぶきを信じ、可愛いいと思い、
そう思いたいのにある過去の事件の罪悪感から素直に思うことができない典彦を
理解し、助けたいと思う。
正に自分は、真知子と似た心境で典彦といぶきを見ていたようだ。

物語の中では、典彦たちが物書きであることもあり
色々な有名作品やそれをもじった作品名がたくさん出てくる。
自分はコインランドリーから吹きっぱなしだったが
『ヒトミ』をもじったものが出てくるのは驚きだった。
その理由について、成井さんに聞かなければ本当のところはわからないが
ヒトミはどこまで信じられるか、という物語だから使ったのでは
という真柴さんのお話、成る程と思った。
離れ離れだった親子。
いぶきにとっては、5歳のときに別れたきり
写真でしか顔も見られない父。時折テレビなどのテロップで
名前を見るだけの父。
典彦にとっては、5歳までのいぶきの記憶しかなく
突然再会したいぶきは、言ってしまえば一人の見知らぬ女性に過ぎない。
14年という年月の中で、互いに何があったのかを知らないふたり。
それでも親子であるという繋がりを思い
互いを信じるふたり。


自分は、愛娘に会えずにどんな思いで14年間を過ごしてきたのか
という質問をさせて頂いた。
会えないことが損失という西川さんの言葉が印象に残った。
『損失』とまで言わせてしまうほどに、しかもそれに聞き手が納得するほどに
それは重いことなのだろう。
それと同時に、そこまで会えないことが辛いほどに愛されたいぶきに羨望も感じた。
典彦がいぶきの話を誰にもしなかった理由。
真柴さんと西川さんのお話を聞いて、はっとした。
辛かったから、言えなかった。
離婚したのが恥ずかしいから、娘に会えないのが寂しいから
それだけではない深い理由がそこにはあるのだ。
償いたくても償えない罪。
いぶきが笑顔でいてくれればくれるほどに感じてしまう罪悪感。
そんなものを抱えて過ごす14年間の重み。
加藤さんが、お子さんが12歳で…とおっしゃっておられたが
加藤さんがお子さんと過ごした12年丸まる。しかもそれ以上に長い14年という月日。
会えないなど信じられない、という本当の『お父さん』である加藤さんの言葉で
改めて長い時間、辛い日々、ある意味で仕事に逃げ
それでもどこかで、仕事で成功することで愛娘に何か伝え、
少しでも償えることがあるかもしれないと思いながら
執筆に打ち込んできた典彦のことを考えた。

今回の舞台に限ったことではないが
キャラメルのお芝居はストーリーが面白く、深い。
何故なら舞台上でそれぞれの役柄が本当に『生きている』からだ。
いぶきの14年間。典彦の14年間。
少しだけ事情を知っていた砂川。傍にいた真知子。
典彦の家族。仕事で関わるひとたち。
それぞれが生き、考え、それぞれの視点がある。

原作を読んだ上で、もう一度
いぶきや典彦の14年間抱えてきた思いについて考えながら
舞台を観に行きたいと思う。

 


以降ネタバレです。


 

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2008.11.10 Mon

女としての生生しさを個人的には感じた作品。
ばななさんの私小説とも思えるような内容で、素直で淡々とした文面から
日常とその中にある非日常が伝わってくる。

男と女の違いというものを、否応なしに考えた。
やはりまったく変な意味でなく、役割が違う生き物なのだと改めて思った。
人間と言っても動物なのだから、本能というものはある。
雄は戦い、雌は守る。
そういう役割分担がきちんと出来ているのだ。
現代は女が戦いながら守ることもしなければいけなくて
というような記述にははっとした。

また性別の違いを抜きにしても、本能について考えさせられた。
『現代化』でセンサーが鈍ってきていて
霊感や直感、第六感だとか虫の知らせだとか呼ばれるけれど
やはり人には本能が備わっていて
その本能の『声』は雑多なことに掻き消されることが多い世の中だが
感覚を研ぎ澄ませていれば聞き届けることが出来るし
お腹の中に自分以外の命が宿っていれば尚更
守らなくてはという本能が働くものだろう。
また、南の国や田舎に療養に行ったり、寺へ行ったりすれば
静かな環境で本能に寄り添いやすくなり
歪んでいたことも修復されていくのではないかと思う。

オカルト的なことでなくとも、日常にちょっとした不思議は溢れていて
なんとなく嫌だな、とかなんとなくこうかな、と思ったことが
実は的を射ているということは結構あるものだ。

日常を本能に従い、良いものを選び取って間違えずに生きていくことは
誰の邪魔がなくとも実は難しい。

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2008.11.05 Wed

平行してよしもとばななさんの『イルカ』という小説を読んでいて
どちらからも”男と女”。特に女の生生しさを感じた。
女であるばななさんが女を描けるのは当然かもしれないが
男である真保さんがこうまで描けるというのは異常とも言える天才ぶりは
相変わらずである。

連載モノだったらしく、男女の手紙のやりとりで終始構成されている。

以降ネタばれ。

夫婦が離婚だ浮気だとごたごたと、文通でやりとりをしているところから始まる。
手紙文しかないのに、読者は徐々にふたりの名前や状況
そこにある問題などを理解していく。

心憎いのは、主人公の男女のやりとりに終わらず
女性の祖父母の手紙が祖父の遺品から出てきたのでコピーを送る
として、三篇から成る第二篇は祖父母の文通へと移り変わること。
男女すれ違いの問題だけに終わらず
戦後の苦しさ、現代とは違う男と女の役割
深い愛
刑務所の習慣のようなものまでが包括され描かれている。

主人公の夫婦のやりとりに再び戻り、
夫が離婚を承諾するところで物語は終わっている。
これは納得がいかないような気もするものの
妻が返送された離婚届を提出するかどうか。
離婚したがっていた妻が、祖父母の手紙を読んで
愛とは、夫婦とは、ということを考え直して、
その行為に安易にうつるとは思えない。

結婚してなんらかの疑問を一度でも感じた夫婦は
これを読んで何がしか感じるところがあるのではないだろうか。
家庭が単なる同居の場所になっているという言葉にははっとさせられた。

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2008.11.05 Wed

開戦3日もすれば、100m以遠の空爆に無関心になるほどの頻繁な空爆。
あまりに多すぎて空襲警報すら鳴らなくなるほどで
ホテルに飯も無くなる。
そんな状況、信じられるか。
ただの一度も戦争を経験したことのない自分には、
あまりに非日常に感じられて想像することすら難しい。

写真集とも言うべき大判の本で、写真がたくさん載っている。
テレビでは到底目にすることの出来なかった生々しい写真たち。
さっきまで自分がいた場所が空爆され破壊されたり
一瞬で知人が血の海に浮かぶ肉片に変わる。
あまりの『真実』がそこには映し出されていた。

きちんと写真を撮りたいけれど、三脚に起望遠を使うと
銃座に間違われるかもしれないからやらないという
そんな環境と経験。

市民の略奪や放火。官庁や図書館までが灰と化す。

宮嶋氏が書いておられる通り、当然国民性もあるのだろうが
それにしても自分には想像もつかない状況だ。

当時大手報道は軒並み社命に従い避難した。
安全圏から、アメリカが操作して流す情報だけど報道として流した。
その上現地に残っていた彼らフリーのカメラマンやジャーナリストたちを
「自己責任」などと非難した。
報道人として間違っているのは果たしてどちらなのだろう。

そんな「『報道』をするな」という社命を守るくらいなら
会社を辞めてバグダッドへ行く
ぐらいの気合の入ったやつはいないのか、という宮嶋氏の発言は尤もと思ったし
実際に信濃毎日の記者が辞表を書いた上で入ったというのは
この本で初めて知り、驚いた。
しかしそれが本来の『報道』というものなのではないだろうか。

カメラマンは現場で写真を残してこそ
この言葉は深く響いた。

 

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2008.10.25 Sat

非常に面白いのひとこと。
このミスを受賞するだけのことはある。
ミステリーだが危惧したほど後味が悪くもなく
ほのぼのとした部分もあり、楽しめる。

筆者が内科医だということだが
心臓外科専門医の方から見ると、やはり内容に色々問題
(事実と違う部分)が多々あったようで
それをフィクションだから良しとするか、取材不足とするかは微妙な問題かもしれない。
一般人から見れば非常に面白くなんの違和感も持たず読めてしまう分
やや問題か。


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