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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.05.09 Thu
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2009.03.06 Fri

西郷頼母(さいごうたのも )

幕末の会津藩に於いて筆頭家老を務めた人。
熱烈な尊王家で、小柄でも性格は頑固で真っ直ぐ。
物事を冷静に客観的に見て、臆さず意見を述べました。

       ●

文政十三年(1830)閏3月24日
会津藩家老西郷近思の長男として
若松城大手口前の藩邸に生まれます。
母は会津藩士小林悌蔵の次女律子。
幼名は龍太郎。
西郷家は、会津藩松平家の筆頭家老を代々務める家柄で
藩祖保科正之の分家でもありました。
※頼母は代々の通称。名は近悳(ちかのり)。

学を好み、溝口派一刀流の剣を学びました。

安政元年(1854)
番頭になります。

安政四年(1857)
父が病のため職を辞し、藩政に参画します。

万延元年(1860)
父の死により、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えました。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

鶴ヶ城大手門外の近くに邸を構えていました。

文久二年(1862)8月19日
幕府が容保に京都守護職就任を要請してきます。
頼母は同僚の田中土佐と共に江戸に駆けつけ辞退を進言。
「京都所司代を勤めて成功した例は殆どない。
朝廷と幕府の板ばさみになるだけだ。
幕府を擁護すれば長州などから敵視され、
彼らに味方すれば、守護職の責務は果たせない。
況してこの攘夷・倒幕論の盛んな折
薪を背負って火の中に飛び込むようなものだ」

しかし結局容保は、
「徳川家の危急存の折
一藩の利害をもって論ずべきではない」
と守護職を拝命します。

10月
頼母は病を理由に辞職。
※罷免されたという説も有ります。
若松の東北舟石下の長原村 栖雲亭で五年ほど幽居生活を送ります。

慶応四年(1868)1月 鳥羽伏見の変
2月 藩主松平容保帰国。
4月 家老に復職。
世子喜徳の執事となり、江戸の会津藩邸の後始末をします。
新政府側は容保親子の斬首を要求。
新政府軍が会津に迫り、已む無く防衛に立ちます。
閏4月20日 頼母は白河口総督となります。
5月1日 落城
奪回を試みて戦闘を繰り返すもならず
一人馬に乗って突入し玉砕しようとしたところを
義兄の飯沼時衛に諫められて思い止まります。
※白虎隊士の飯沼貞吉は頼母の甥にあたります。

若松に戻ると「他に藩を救う道は無い」と恭順謝罪を説き続け、
抗戦派の諸将らとうまくいかなくなり登城差止め、蟄居処分となります。

8月22日
新政府軍が戸ノ口原に至り、頼母は一族を 集めて
「こうなっては藩主に殉じようと思うが、その前に
これまで尽くしてきた会津藩が賊軍とされた汚名は雪がねばならない」
と、長男の吉十郎(11歳)と登城。
冬坂峠方面の防備に向かいます。
足手纏いになることを嫌った妻の千重子をはじめ一族21人は
翌日全員自決したと言われています。
※自決ではなく、土地の無頼漢による強盗殺人の説もあります。

頼母は一致団結しなければと城中の者を励ます一方で
恭順より抗戦を採った同僚を批難した為
士気を乱す頼母を暗殺すべし、という空気が流れます。
容保はこれを案じ、頼母に
越後口から帰国する家老萱野・上田への使者という口実を与えて
城から脱出させました。
主戦派の家老梶原平馬が砲兵隊組頭大沼城之介と遊撃寄合組隊芹沢生太郎を刺客として差し向けましたが、
彼らも頼母の厳しく、真っすぐな心根を理解しており頼母を追うことはせず
途中で見失ってしまった、と虚偽の報告をしたと言われます。

米沢から 仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流。

明治元年(1868)9月22日
軍艦開陽丸で箱館へ向かう艦中で、会津の開城降伏の報が届きます。


明治二年5月11日
新政府軍の箱館総攻撃が始まります。
頼母は榎本に降伏を勧めます。

5月18日
降伏。

7月14日
箱館で降伏した会津藩士16名、古河藩外三藩に分けて幽閉処分となり
頼母も一旦東京に移送されます。

9月
改めて館林藩に幽閉されます。

明治三年(1870)2月
幽閉が解かれます。
本姓の保科に改姓し、保科近悳とします。

明治五年(1872)
伊豆松崎で、依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となります。

明治八年(1875)8月
福島県東白川郡棚倉町にある都々古別(つつこわけ)神社の宮司となります。

明治十年(1877) 西南戦争
西郷隆盛と交遊があったことから敵方に加担したと疑われ、
宮司を解任されてしまいます。

明治十二年(1879)
吉十郎病没。

明治十三年(1880)2月
松平容保が日光東照宮の宮司となり、頼母は禰宜として補佐します。
当時の彼は鍛錬の為日光二荒山に登り、坂や崖の昇り降りをしていたそうです。

明治十七年(1884)
会津藩士御用場役 志田貞二郎の三男 志田四郎を養子にします。
※四郎は7歳頃から天神真楊流の柔術を習い才能が開花。
師範の天津名倉堂の粟山昇一と頼母は知人でした。
※四郎は頼母の実子という説もあります。

明治二十年(1887)4月
神官廃止に伴い禰宜を辞職。
大同団結運動に加わって会津と東京を拠点に政治活動をします。
運動が瓦解すると、若松に帰郷しました。

明治二十一年(1888)
西郷家が再興となり、四郎は西郷四郎を名乗ります。

明治二十二年(1889)4月
福島県伊達市霊山町にある霊山神社の宮司となります。
頼母自身の希望で、県師範学校の嘱託として講義を始めます。

明治二十六年(1893)
従七位に叙せられます。

明治三十一年(1898)
頼母は藩士時代に武田惣右衛門から御式内等の武芸と陰陽道を学び、
御留流に工夫を加えてオリジナルの武術を編み出しました。
惣右衛門の孫の武田惣角が霊山神社を訪ね、住み込んで働きながら
それらの武術を頼母から学びます。
※大東流合気柔術 の名称は、頼母が命名したとも言われます。

明治三十二年(1899)4月1日
霊山神社の宮司を辞し、若松に戻ります。
旧藩邸から程近い十軒長屋で、下女のお仲と静かに暮らしました。

明治三十六年(1903)4月28日
早朝、脳溢血で息を引き取ります。
享年74歳。
辞世は
『あいづねの遠近人(おちこちひと)に知らせてよ
保科近悳今日死ぬるなり』

墓は福島県会津若松市内善龍寺にあります。



参考
「会津戦争全史」星亮一
「会津戦争のすべて」
「幕末・会津藩士銘々伝」
「明治維新人物事典」
その他、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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大東流
武田惣角を研究しています。最新の研究では、大東流の命名者が西郷頼母だとしても、合気の技を教えたのは別人だということが分かってきました。
武田家は、藩士でも郷士でも宮司でもありません。父は謹慎者名簿に、足軽「竹田惣吉」とあります。
史実はほとんど創作されたもので、郷土史家は誰も書いておりません。
合気は、柔術を教えた人、霊能力、密教修験道を教えた人が別にいて、西郷頼母ではないことがわかりました。いずれ、新刊の本が出ますのでお知らせいたします。
池月映 URL 2009/05/04 11:34 編集
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