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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.05.09 Thu
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2008.12.05 Fri
松本 良順(まつもと りょうじゅん)

1832年7月13日(天保3年6月16日)
佐藤泰然の次男として江戸麻布(東京都港区)我書坊谷で生まれました。
(幼名は佐藤順之助。後の外務大臣の林董は実弟。)
父の泰然は江戸で蘭医学を学び、薬研堀で医者を開業します。

天保13年
泰然は堀田正睦(下総佐倉藩の第5代藩主。大名・老中)に見込まれ
下総佐倉藩医師となります。
佐倉へ移住して、蘭医塾、順天堂を開きました。
良順は江戸薬研堀に残り、姉の嫁ぎ先である、林家で育ちます。
その後順天堂の父の元で蘭医学を学びました。

嘉永3年
泰然の親友である幕医松本良甫(まつもとりょうほ)
が跡継ぎを求めており、良順が養子となりました。
※弟子の尚仲が後に佐藤家に養子として迎え入れられ、明治後東京で順天堂を開きます。

安政4年(1857年)
長崎の海軍伝習所でオランダの教授による海軍伝習が始まります。
良順は外国の先生から実際に習いたいと考え、目付の永井尚志に頼みました。
永井が老中の堀田に相談すると、
「長崎の海軍伝習生として行けば良い。長崎で伝習生が分科として何を学ぶかは当人の勝手だ」という寛容な返事がありました。
漢方医らが反対し、良順の長崎生きを邪魔しようと画策しますが、永井が抑えてくれます。
※この時代は漢方医が主でした。(実態は医療というより呪いが主)
特に良順は外科で、現代で言う外科の他性病等も取り扱い
血や汚物のイメージが付き纏いました。

安政4年(1857年)閏5月18日
良順、長崎へ出発。
長崎で彼を迎えたのは、長崎奉行の岡部長常でした。
ふたりは意気投合し、後に医療事業に関する様々な改革を行います。

良順は医学校で兵書を読む学生が多いのに憤慨して
医学書のみを読むべしと兵書と文法書講読の禁令を出したところ、
擁夷熱に冒された医学生に激しい非難を受けたと言われます。

9月26日
医学伝習の教授はオランダ軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトでした。
(オランダ側伝習所総督であるカッティンディーケの長崎派遣にともない、医師として同行)
松本良順をはじめとする12人(14人との説も)が医学伝習生となり、ポンペから西洋医学等の蘭学を学びました。

安政5年(1858年)
1歳から2歳までの小児218人に種痘を施行。
米軍艦の乗組員からコレラが流行し、使者767人を出しますが、医学伝習所は治療に尽力しました。
※コレラはその後江戸まで広がり、31,229人の死者を出し
『ころり』(コレラの訛り、またころりと死んでしまうから)と呼ばれて恐れられました。

安政6年(1859年)
ポンペは岡部の援助の下幕府に対し病院設立を建白します。
良順も助手として尽力しました。
良順はポンペの意見を良く理解し、彼が授業をしやすいよう生徒の監督なども行いました。
良順についてポンペは
「階級・家柄共に門弟中筆頭。最も技術堪能で数々の才能とたゆまない熱意をもっていた」
と評価しています。
※ポンペは岡部に関しても
「誠の文化人で、とにかく立派な働き者の日本人、それが母国日本の発展と繁栄になることであれば、なんでも大胆にやった。日本はこの行政長官に最大の恩誼がある。沢山の話にならぬ悪弊は彼によって打破された」
と述べています。

安政6年(1859年)2月9日
突然伝習の中止命令が下されます。
良順はポンペ、オランダ公使ドンケル・クルチウスに相談し、ポンペは引き続き留まることになります。
良順だけでも引き続き講義が受けられるよう、クルチウスが長崎奉行岡部に、岡部は井伊大老に願い出ました。
井伊大老からの返信は、岡部への私信として密かに届きます。
「公使と教師の好意を無駄にしてはいけない。
しかし一度発した命令は取り消せない。だから君の願いは公許しない。すぐに帰府するよう下命する。
そうしたら君から再願しなさい。その願書は私が受け取ったまま暫く忘れておこう。
勉強が終わったならさらに帰府を命ずることにするから、安心して修行するように。
大老の職が医生一人の処置を忘れたからと言って、法において何の不可もない。留学費その他一切なお、従来の如くしなさい」
松本良順はその自伝で、井伊は真に大老の器だったが、道半ばにして命を落とした。とても残念だ、と述べています。

また、永井も、幕閣に対し伝習所の便宜を図ってくれました。

文久元年8月6日
日本初の洋式病院である長崎養成所落成。
17日より診療開始。
教頭はポンペ。頭取は良順でした。
※手術室や隔離室、奇宿舎等の設備が整う近代的な病院で
食事もパン等西洋式。病室も風通し等を考慮にいれて設計されました。

その後、ポンペが帰国します。

文久2年(1862年)閏8月8日
良順も江戸へ戻り奥詰医師となります。
西洋医学所頭取助を兼ねました。

文久3年(1863年)12月26日
奥医師に進み、緒方洪庵の後任として医学所頭取となります。

元治元(1864)年10月
良順宅を、新入隊士募集のために江戸に来ていた新選組の近藤勇が訪ねてきます。
門弟や家人は切り殺されるのではないかと恐れましたが、良順は動じず招き入れました。近藤は
・幕府の医者が夷敵の技術を奉ずるのは良くないのではないか。
・開国と攘夷についてどう思うか。
などを質問し、良順は漢方医と蘭方医の実態・力量差をとくと語りました。
※近藤も当時の多くの侍たちと同じく攘夷派でした。
しかしながらその意見に凝り固まっていた訳ではなく
こうして様々な人の意見を聞き、実は攘夷は現実ではないことを悟っています。

激務から神経性胃炎を患っていた近藤は、後日良順の診察を受けます。
近藤は良順を尊敬し、京都に来た折には是非屯所を訪ねて下さいと言います。

元治元年(1864年)
5月9日 法眼に叙せられ、6月1日には奥医師の任を解かれ、寄合医師となります。
しかし8月15日奥医師に再任され、将軍侍医などを勤め、将軍徳川家茂などの治療を行いました。

慶応元(1865)年
上洛の折、約束通り新選組屯所(この時は西本願寺)を訪ねました。
土方の案内で屯所を廻りましたが、寝転がったままの隊士が半数近くいたことに驚きます。
上司と客人が通るのに無礼ではないのか、と近藤に問い質すと、近藤は傷病人故勘弁してやってくれ、と答えます。
そこで良順は、病室を別に準備して看病させ、毎日入浴するなど衛生管理を整えるよう指示しました。
土方は、良順と近藤が談笑している一時間程度のうちに全てを用意し、良順は土方の才に驚いたそうです。
良順は医師の南部精一を屯所へ往診させるなどし、更に残飯を捨てずに餌として豚を飼育し、食べて滋養をつけることを指導しました。
また、監察方の山崎烝に医療技術を伝授してもくれました。
結果、多くの隊士が一ヶ月ほどで前線復帰したそうです。
※当時牛や豚の肉を食べる習慣はありません。野蛮なことと捉えられていました。
徳川慶喜(一ツ橋)は豚好きで知られ、豚一公と人々に揶揄されていたほどです。

良順は特に沖田を気に入って、よく連れ出してご飯を食べに行っていたようです。

慶応4年(1868年)2月
再び江戸に戻ってきた近藤を呼び、写真家の内田九一に写真撮影をさせています。(現存)
良順の写真と敷物が同じであることから、良順宅で撮影されたのではという説があります。
※写真は当時ほとがら、ほとがらひーなどと呼ばれていました。
撮影されると魂を取られるなどの噂もありましたし、顔に白粉を塗って長時間じっとしていなければならないなど、庶民には理解のしにくいものでした。
こうしたことからも、良順の好奇心旺盛かつ異文化に理解ある態度が窺えます。

戊辰戦争では奥羽列藩同盟軍(幕府側。新選組も加わった)の軍医となります。
江戸に引き上げてきた近藤の怪我を見たり五兵衛新田移転についても関わりました。
※近藤は、新選組から脱退した高台寺党(伊藤甲子太郎ら)の暗殺未遂により肩を負傷。腕をあげることすら適わない状態でした。
※西軍が攻め込んできた際に新選組が江戸にいてはまずい、と良順が知人に頼んで彼らの居場所を移動させました。
新選組の屯所にしたいと言えば断られるので、友人を数人逗留させて欲しいと嘘をつきました。
知人を騙すことになりましたが、この良順の画策が無ければ西軍と新選組が鉢合わせし、江戸の町が戦場になっていたかもしれません。

西軍が江戸に攻め込んでくると、門弟数人を引き連れて会津に入り、
藩校日新館を診療所として、会津藩の医師らとともに負傷者の治療にあたります。
雨霰と銃弾の降る中先頭を切り続け、軍神と敵味方に畏れられた土方もついに足を負傷。歩くことも出来ず、良順が診察しました。
会津落城後は仙台に行きましたが、蝦夷地渡航は断念しました。

幕府方についたため戦後朝敵として一時投獄。禁固刑となります。
しかし赦免され、早稲田に病院を設立。

明治4年(1871年)
陸軍大輔山県狂介(有朋)の要請により兵部省に出仕し軍医頭となります。
陸軍軍医部を設立
従五位に叙せられた後、松本順と名乗ります。号は蘭疇、楽痴。

明治6年(1873年)
初代軍医総監となり、陸軍軍医制度を確立。

明治23年(1890年)
勅撰により貴族院議員となります。

38年(1905年)
男爵に叙されます。
軍医学は公衆衛生学が元になっており、牛乳や海水浴などの普及も行いました。
神奈川県大磯町は日本初の海水浴場。
良順が最適な別荘地として開発したもので、照ヶ崎に記念碑があります。
長野県湯田中温泉では温泉入浴法を伝え、湯田中温泉を長寿の湯と褒め称えました。現在の湯田中大湯には、今もその温泉入浴法が掲げられているそうです。

また、日野の高幡不動にある近藤土方の慰霊碑『両雄殉節碑』に揮亳してもいます。

明治40年(1907年)3月12日
大磯にて死去。享年75。
墓所は神奈川県大磯町の妙大寺です。


参考
新選組関連の本
多数につき今回は省略させて頂きます。
私のmixi、blogのレビューをご参照下さい。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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