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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.05.08 Wed
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2008.11.28 Fri
和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)
弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)生まれ。
仁孝天皇の第8皇女で、孝明天皇の異母妹。
生まれる前に父を亡くしており、16歳離れた孝明天皇は
和宮にとっては父同然の存在だったようです。
※「和宮」は誕生の際に賜られた幼名。
「親子」は文久元年(1861年)の内親王宣下の際に賜られた諱です。

和宮が6歳の時、11歳年上の
有栖川宮幟仁親王の長男・熾仁親王と婚約します。
しかし14歳になり、婚礼が近づいた時に、
14代将軍・徳川家茂への降嫁の話が出てきます。

当時日本は黒船来航で混乱しており、
尊皇攘夷(天皇を尊重し、外国人を排除する)が一般的な思想でした。
※尊攘派と対立するのが佐幕派(新選組など)と扱われますが
佐幕派も思想は勤皇・攘夷であり、
幕府を倒して自分たちが政界を牛耳ろうとしたのが尊攘派
幕府と朝廷が一体となり国をまとめようとしたのが佐幕派です。
※諸外国との交戦や交流を経て、尊攘派・佐幕派共に、幕末には
攘夷は不可能だと認識しています。

幕府側による、尊攘派を抑え幕府の権威回復のため
皇女が徳川家に降嫁する政略結婚が押し進められました。
孝明天皇と和宮は拒否しましたが、幕府側は諦めません。
関白・九条尚忠が
「幕府がどうしてもというのなら、和宮の代わりに
昨年生まれた自分の娘・寿万宮(すまのみや)を江戸へ送る」
と庇おうとしてくれ、それを聞いた和宮が降嫁を決意したとも伝わります。

文久元(1861)年10月20日。
尊攘派の和宮奪還を避けて、和宮の行列は中山道を江戸へ向かいました。
警備には数十万人が当たりました。

文久2年(1862年)2月11日に婚儀が行われましたが、
内親王の方が征夷大将軍より地位が高い為、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分として行われました。
(当時の婚姻には、身分が大きく関係し、身分を釣りあわせる為に
一旦武家や医者の家に形だけ養子になって身分をあげてから
婚姻するなどの力技も一般に使われていたほどです。)

結婚に際し、和宮は大奥風ではなく御所風の生活を守ることを
幕府側に約束させましたが
大奥にその意思が全く伝わっておらず、現場は大いに混乱しました。

たとえば将軍の正室の呼び名「御台様(みだいさま)」でなく
「和宮様」と呼ばせたり、
挨拶は家茂から和宮に言上させたり
足袋を履かずに過ごしたり
(江戸大奥では足袋を履くのが決まりだったが、
御所では勅許(天皇の許し)が出ないうちは冬でも足袋を履かない)

和宮にとっては今まで通りの生活を続けただけでしたが、
大奥側も幕府首脳がそのような約束をしたことなど知らず
身勝手な(身勝手に思えた)和宮と当初は対立したようです。

本人同士の意思に反した婚姻は当時よくあることではありました。
しかも皇族と将軍の政略結婚でもあります。
ですが、このふたりの夫婦仲はとても良かったと伝わります。

家茂は側室をおかず、和宮を生涯の伴侶とし
将軍としての職務のため離れ離れになったときは
「和宮に会いたい」と家茂がホームシックにかかるほどだったそうです。

また和宮は家茂の履物を自ら揃えるなどしました。
これは下女がするならいざ知らず、将軍の妻自らがするなどとは
当時としては考えられない行為でした。

家茂の体が弱かったこともあり子宝には恵まれず
幕府重臣が和宮に懇願して家茂に妾を持たせることを
同意させたという話もあります。

慶応2年(1866年)7月20日
家茂が長州征伐の為に上洛の折、大坂城にて病没します。
家茂は自分の後は田安慶頼の子、亀之助(後の徳川家達)に
継がせると言っていました。
しかし家茂は暗殺されたのでは、と囁かれるほどの混乱した状況です。
和宮は
「今のご時勢、幼い亀之助ではしっかりした人の協力がなければ無理です。
ならば天下の為に然るべき人を選び直しましょう」と提案しました。
一橋慶喜(後の徳川慶喜)が15代将軍候補に挙がり、和宮は
「御遺命さえ反故にしないでくれれば異存はありません」と言ったそうです。
斯くして一橋が15代将軍になります。

和宮は落飾し、(仏門に入ること)『静寛院宮』となります。

また、家茂が上洛の際、「凱旋の土産は何がよいか」と尋ね
和宮は西陣織がよいと答えたそうです。
残念ながら形見として和宮の元に届けられた西陣織を
「空蝉の唐織り衣なにかせん あやも錦も君ありてこそ」
(どんなに綺麗な衣を頂いても、家茂様がいらっしゃらないのでは
なんの意味もありません)
の和歌を添えその西陣織を増上寺に奉納。
後の追善供養の際、袈裟として仕立てられたそうです。
(これは空蝉の袈裟として現在まで伝わっています)

世の中は大政奉還を経て、幕府側が不利な状況に陥ります。
尊攘派が勅許を得て錦の御旗を振りかざし
(この二点は尊攘派が作った偽物という説あり)
『官軍』となりました。
佐幕派は天下を騒がせ天皇の心を騒がせた『逆賊』とされます。

慶応4年(1868)1月
戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の戦い、会津戦争、箱館戦争などの総称)
が始まりました。
維新政府軍(西軍)と旧幕府派(東軍)の内戦です。

幕府派の中でも、
自分たちに落ち度は無く、天皇の威を借りて
天下を牛耳ろうという西軍に対し徹底抗戦を叫ぶ人たちと
内戦をしても仕方ない、おとなしく降参するべき、という人たちで
意見が分かれました。

和宮は元々西側の人間です。況して天皇家の人間が、
官軍から追われる身になってしまいます。
しかし、京都へ帰ってはどうかとの勧めにも
「私の身の存亡は当家(徳川家)の存亡に任せます」
と断ったそうです。

大阪から逃げ戻った慶喜から話を聞いた和宮は状況を察し、
慶応4年(1868年)1月21日土御門藤子を使者として
将軍徳川慶喜の助命を嘆願書を甥である明治天皇に遣わしました。
(これに感謝し、後の慶喜は和宮の命日には
墓参りを欠かさなかったとも伝わります)

2月12日。
慶喜は東征軍の求めに従い上野寛永寺大慈院に謹慎しましたが
東征軍が江戸へ出発します。
しかも、征討大総督となったのはかつての和宮の婚約者
有栖川宮熾仁でした。

慶応4年(1868)3月10日。
和宮は町の人々を守るために再び藤子を使者にたて
官軍の江戸進撃猶予を嘆願。
更に翌日侍女玉島を遣わし更に嘆願。
その願いを受け、江戸総攻撃は一時差し止められました。

姑である第13代将軍家定の妻、天璋院(篤姫)
※実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。
と共に島津家や朝廷に何度も徳川存命を嘆願したと言います。

4月。江戸城無血開城の3日前。
官軍に江戸城を明け渡さなくてはならなくなり、
和宮たちは大奥から追われます。

こうして265年間続いた徳川幕府は滅亡しました。

和宮は明治2年(1869年)2月3日、京都に戻り
聖護院を仮住まいとします。

明治7年(1874年)7月8日
明治天皇の東京行幸のために東京に戻ります。
麻布市兵衛町にある元八戸藩南部遠江守信順の屋敷に居住し、
徳川家の人間を招待したり、徳川邸へ行くなど交流を続けます。
天璋院
※「討幕運動に参加した島津家には頼らない」と、
飽く迄徳川家の人間として鹿児島に戻らず、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。
とも度々会っていました。

明治10年(1877年)8月
脚気を患い、箱根塔ノ沢の温泉宿(環翠楼)へ転地療養します。
地元の子どもたちを招いてお菓子を振舞ってくれた
との話も残っています。

明治10年9月2日。脚気衝心(脚気による心不全)のため死去。
32歳でした。
「将軍のお側に」という遺言通り、
徳川家の菩提寺である東京・芝の増上寺に家茂の隣に葬られています。
和宮の棺からは直垂姿の若い男の写真乾板が見つかりました。
残念ながら保存処理が悪く翌日には肖像は失われてしまいました。
有栖川宮熾仁親王だったのでは、という説もありますが
和宮の生き方を考えれば、家茂の写真であったと考える方が
自然ではないでしょうか。

「天下のため、国のため」と降嫁した和宮。
降嫁後も天下のため国のため、そして徳川家のために
尽くした人でした。

※和宮の素顔を知っていた数少ない人物、島田正辰が
暗殺されている為、降嫁したのは替え玉との説あり。
※降嫁後詠まれる和歌の質が下がり、宮家の人とは思えない
と唱える人もいた。
※遺骨の調査から、当時の一般市民とは異なる上流階級女性独特の体躯であったことが判明。
替え玉説は後世の流布との考えが現代では一般的。
※環翠楼は慶長19年(1614)から開湯し現在に至る温泉宿。
和宮療養当時の宿の名前は『元湯』。

参考
「和宮」辻ミチ子
「静寛院宮御日記」東京大学出版会
「日本随筆大成」勢多章甫
「和宮」遠藤幸威
「和宮人物叢書新装版」武部敏夫・吉川弘文
その他
及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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