忍者ブログ
Admin / Write
ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.05.09 Thu
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

2009.02.06 Fri
永井尚志(ながいなおゆき)

幕末の幕府官僚だった永井さん。温和で徳のある人だったと言われます。
負け戦だと分かっていながら、榎本さんや新選組らと共に箱館まで戦い、
明治になっても任官を受けて日本の為に働いた人です。
※昔は『なおむね』と読むのが一般的でしたが、子孫の方から
「永井家では代々、『なおゆき』と読んでいる」とご指摘があり、近年では併用されることが多いようです。

       ●

文化十三年(1816)11月3日
三河奥殿藩の第五代藩主・松平乗尹(のりただ)の側室の子として生まれます。
幼名は松平岩之丞。

文化十五年(1818)5月23日
乗尹が亡くなります。永井は江戸麻布の藩邸で育てられます。

天保十一年(1840)
美濃加納藩主永井家の分家 旗本の永井尚徳の養子となります。

弘化四年(1847)4月16日
部屋住から小姓組番士になります。

嘉永元年(1848)
幕府の高等教育機関、昌平校の試験に合格。

嘉永四年(1851)2月
昌平校の分校、甲府徽典館学頭(校長)となります。任期は一年間。

嘉永六年(1853)
6月3日 黒船来航。
7月20日 御徒頭となります。
10月8日 海防掛目付に抜擢。砲台建設大砲製鋳を担当します。

安政元年(1854)4月5日
長崎監察使(目付)に就任。長崎に赴きます。
8月23日
長崎西奉行所にて日英約定七箇条締結交渉。
9月1日
長崎西奉行所でオランダ国王からの献上品贈呈式が行われ、立ち会います。
9月2日 日蘭和親条約締結。

安政二年(1855)7月29日
老中阿部正弘に抜擢され、長崎海軍伝習所総取締(所長)に。
※伝習所で学んだ生徒は勝海舟や榎本武揚など4年間で約200人です。
10月24日 海軍伝習所開所式
海軍を興すのならば造船所が必要。となれば製鉄所を作らなくては、と永井は建設を幕府に上申します。
しかし一向に返事が来ません。
オランダ海軍中佐グ・ファビウスが帰国してしまえば話が流れる恐れがあるので、長崎奉行と相談して独断でファビウスに製鉄所建設を依頼しました。

安政三年(1856)7月?
アメリカ駐日領事ハリスと、通商条約締結の為面談。
10月5日
海外留学生派遣を建議します。

安政四年(1857)3月4日
第二次の長崎海軍伝習所伝習生が到着します。
永井は第一期生105名と共に、観光丸で江戸へ向かいます。
※松本良順は、第二期生を集めていた永井に頼んで伝習生附御用医として長崎へ行きます。

3月26日 観光丸、江戸品川港へ入港。
4月4日
築地の講武所内に軍艦教授所設立することになり、永井は総督となります。
※伝習所の生徒だった榎本武揚が、教授として赴任してきます。
7月 軍艦教授所の練習が始まります。
8月4日
江戸幕府がオランダに発注した木造軍艦 咸臨丸が長崎に到着。
8月5日
ファビウスから製鉄所建設の任務の命を受けた機関将校H・ハルデス率いる配下が長崎に上陸。
10月10日
浦上村淵字飽ノ浦に長崎鎔鉄所の建設着工。
12月3日
永井は勘定奉行と同時に長崎御用江戸取扱となります。
12月29日
開国の必要性が自分で分かっていながら、世間の攘夷思想は高まるばかりです。
永井は川路聖謨と一緒に水戸藩邸の徳川斉昭に相談に行きます。
攘夷派の斉昭は激昂して、「(開国派の)堀田と岩瀬は切腹、ハリスは打ち首にせよ」と言ったそうです。
※堀田正睦
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

安政五年(1858) 7月29日
永井、勘定奉行を罷免され、
井上清直、岩瀬、水野忠徳、堀織部正らと共に、初代外国奉行に任命されます。
8月23日 米国条約為取替御用

安政六年(1859)2月25日
軍艦奉行に任命されます。
8月27日
安政の大獄で、一橋派だった永井は免職され、家禄没収、隠居差控という重い処分を受けます。

万延元年(1860)1月18日
日米修好通商条約の批准書交換の為遣米使節が派遣されます。
その護衛及び海軍伝習の技術の実習を兼ねて、勝海舟らが咸臨丸で同行しました。
※遣米使節は最初、永井、岩瀬、水野の予定でした。
安政の大獄で三人が左遷・処罰された為、新見正興、村垣範正らが任命されました。
3月3日
桜田門外の変。大老井伊直弼が暗殺されます。

文久元年(1861)
3月25日 長崎鎔鉄所落成(のち製鉄所と改称。三菱長崎造船所の前身)

文久二年(1862)
7月5日 御軍艦操練所御用に。
8月7日 京都町奉行に任命。
9月13日
京都に着任します。
開国派の永井ですが、実際京都に赴任して現状を目の当たりにし、朝廷の攘夷の命を受けない訳にはいかないと感じます。
※永井は京に滞在中、慶応3年4月まで壬生の医師大村宅を宿舎にしていました。
12月24日 京都守護職松平容保を三条大橋で迎えます。

文久三年(1863)8月1日
実子、勤之助が19才で急逝します。
8月18日 禁門の変。 幕府側の使者として朝廷と交渉。

元治元年(1864)2月9日
八月の政変の功績により、大目付に任命されます。
永井は在京の尊攘派志士に強硬姿勢で臨みました。命を狙われることもあり、新選組の近藤自ら永井の従者に武芸を指南したそうです。
6月5日
池田屋騒動。
この直後、尊攘派志士が新選組に仕返しに来るかもしれないと考え、永井は江戸への帰路にあった講武所の剣・槍術方を京へ呼び戻しています。
7月下旬
武力上洛を謀る長州藩兵と折衝。長州へ向かいます。
11月16日
征討総督尾張藩主慶勝と共に長州藩士吉川経幹を尋問。
禁門の変の長州藩主の責任を追及します。
その結果、長州は三人の家老と十数名の家臣を処罰し、三家老の首級とともに恭順の意を示しました。
永井は首を確認後、藩主に謹慎をさせて征長軍による討伐までは行わないこととなりました。

元治二年(1865)1月11日
長州への処罰が寛大過ぎたとして、大目付から寄合に落とされてしまいます。

慶応元年(1865)10月4日 大目付再任
10月27日 外国奉行、長州御用掛
11月7日
永井は長州訊問使として大坂を出立。新選組の近藤以下数名も護衛の為に同行します。
※新選組から願い出たと言う説もあります。
※近藤はこの任務に先立ち、故郷に『もし自分が死んだら新選組は土方に。天然理心流は沖田に託す』と手紙を書き送っています。
幕府を憎む相手の陣地へ幕府の人間が行くのは、本当に命懸けのことでした。
※赤禰武人らも同道しました。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
11月16日 広島へ到着。
11月20日 国泰寺で長州藩士宍戸備後介と会談。
長州は勿論、長州に味方する周辺の国の態度は頑なで、長州隣国の岩国に入ることも出来ず
12月17日に広島出立。五日後に京都に戻っています。

慶応三年(1867)2月30日
若年寄に就任。
※旗本から若年寄(旗本の最高位)まで昇進するのは異例です。
9月20日
永井は近藤を後藤象二郎に引き合わせます。
10月14日 大政奉還
※この頃永井は坂本龍馬と何度か会い、意気投合したという話があります。新選組と見廻組に、坂本を殺さないようにと命じていたそうです。
10月18日
近藤、高台寺党に狙撃され重傷を負います。
すぐに慶喜の見舞いと御典医松本良順がやって来て近藤はとても感動したと言われますが、この見舞いは永井が慶喜の名を使い独断でしたこと、との説もあります。
11月15日 坂本龍馬暗殺事件
11月26日
土佐からの申し入れで、新選組の嫌疑を調べるため近藤を呼び事情を聞きます。
12月14日 護衛の新選組を伴って大坂へ。
※新選組は自分の部下でもないのにどこへも常に付き従い、よく自分を守ってくれた、と後に語っています。

慶応四年(1868)1月3~6日
鳥羽伏見の戦い
慶喜が密かに江戸へ去った後、永井は大阪城の混乱を収拾し城を尾張藩に預けます。
江戸へ逃げる際必要最低限の荷物しか持たなかったので、膨大な書物や蔵書を失いました。
※永井の功績が現代に余り伝わっていない(史料が少ない)一因と言われます。

2月
鳥羽伏見の責任を負わされ罷免されます。
近藤らが結成した甲陽鎮撫隊は永井自ら準備を整え、隊の名前をつけたという説もあります。
また、榎本は会津を救援する為軍を脱走したいと永井に密使を遣わします。
8月19日
幕軍から脱走した榎本艦隊の回天艦に、永井は養子の岩之丞と共に乗り込みます。
※永井岩之丞尚忠の娘・夏子の孫は作家の三島由紀夫です。

新選組と合流し、箱館上陸後は箱館奉行に就任します。
※箱館に来た人の中には、長崎海軍伝習所や築地軍艦操練所関係者が多く含まれていました。
・榎本武揚(長崎海軍伝習所二期生)
・沢太郎左衛門(長崎海軍伝習所三期生)
・中島三郎助(長崎海軍伝習所一期生)
・甲賀源吾(長崎海軍伝習所一期生の矢田掘景蔵の教え子)
・荒井郁之助(築地軍艦操練所教授)
・松岡磐吉(長崎海軍伝習所二期生)
などです。海戦もあり、当然同窓生同士で敵と味方に別れ戦うこともありました。
軍艦『蟠竜』の艦長は松岡で、同じく二期生の中牟田倉之助が艦長の新政府軍の軍艦『朝陽』と戦い、朝陽を沈没させています。
因みに朝陽は、安政五年にオランダから長崎海軍伝習所に贈呈された練習艦です。当然松岡も幾度と無く乗艦したことと思われます。

明治二年(1869)5月1日
新選組と弁天台場に篭城。
※この台場を設計したのが武田斐三郎です。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
5月11日
孤立した弁天台場を救うべく向かった土方歳三が、銃弾を受けて死亡します。
5月13日
新政府軍参謀 薩摩の黒田清隆が箱館病院長の高松凌雲の仲介で榎本に降伏を勧告します。
※榎本は応じませんでしたが、自身が翻訳した『万国海律全書』(海事に関する国際法と外交についての本)を黒田に託します。
5月15日
兵糧が尽きた弁天台場は、永井以下240名が降伏しました。
5月18日 五稜郭の榎本らも無条件降伏。約千名。
永井らは東京兵部省へ護送され、獄舎に入れられます。

明治四年(1871)1月6日 放免。
※彼らが無事放免されたのは、黒田の骨折りがあったからだと言われます。
黒田は彼らの助命嘆願の為箱館戦争中から画策し、榎本に厳罰を望む人と対立の末丸坊主になっての抵抗もしたそうです。

明治五年(1872)1月12日 開拓使御用掛に。
1月19日 左院小議官に任命されます。
4月15日 正六位に叙せられます。
10月8日 三等議官に。

明治八年(1875)7月12日
元老院権大書記官に任じられます。

明治九年(1876)10月
退官し、向島の屋敷岐雲園にて余生を過ごし、岐雲園居士と称しました。
※岐雲園は、文久元年7月に病没した盟友岩瀬忠震の別荘。白鬚神社に岩瀬の墓碑を建て、朝夕その霊を弔っていたと言います。

明治二十四年7月1日
多くの漢詩を残し病没。享年七十六歳。

       ●

外国と日本の力量差を知っており、開国すべきだと分かっていながら、血気に逸る攘夷派を前に、幕府を守る為には攘夷を行わなければならないと知った京都での日々。
結局はその攘夷派が外国の力を借りて強化した軍隊に追われ、箱館戦争まで戦い抜きます。
当時蝦夷地は見ず知らずの外国に等しく、そんな所まで行きたくないと脱走する旧幕府軍の兵も多かったようです。
永井はいずれ幕府軍が敗れると悟っていた節があります。それでも幕府に最後まで忠誠を尽くして戦いました。
いよいよ降伏が決まった時切腹しようとして、周囲に止められています。
そこまで忠義に篤い永井が、幕府を倒した明治政府に仕えたのは何故か、と人に問われて、永井は
「ある人(黒田清隆)への義理だ」と答えたそうです。


参考
「勝海舟全集」
「三島由紀夫の生涯」安藤武
「海国日本の夜明け」フォス美弥子
「長崎製鉄所」楠本寿一
「函館市史通説編」
「幕末動乱の記録-「史談会」速記録-」八木昇
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

拍手

PR
*Comment*
Name :
Title :
Color :
Mail :
URL :
Comment :
Pass :   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
   HOME   
2040  1970  2041  2042  1969  2043  1968  1974  1967  1978  2327 
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
アーカイブ
  




忍者ブログ [PR]