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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.05.08 Wed
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2009.01.09 Fri
岡田以蔵(おかだいぞう)

天保9年(1838年)
香美郡岩村に二十石六斗四升五合の郷士岡田義平の長男として生まれます。諱は宜振(よしふる)。

嘉永元年(1848年)
土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために、父義平が藩の足軽として徴募されます。
城下の七軒町に住み、以蔵が足軽の身分を継ぎます。
土佐藩では身分の別が厳しく、足軽は軽んじられていました。以蔵は七軒町の以蔵、略して七以と馬鹿にされ、剣術道場にも入れてもらえません。
以蔵は樫を切り出して手製で木刀を作り、二天一流を模して我流で剣を練習します。

安政元年(1854年)
18歳。武市半平太が小野派一刀流の道場を開きます。
かつて家同士が主従関係にあった為、なんとか入門させてもらえないかと以蔵が頼みに行きます。
我流ではありましたが、道場の者は以蔵に敵わないほどの腕前。武市は以蔵の入門を許可します。

11月4日
地震と津波で武市道場が半壊。
以蔵の七軒町の家も流され、父の実家の田所家へ一時避難します。

安政三年(1856年)7月
臨時御用剣道修行の為、武市が江戸へ行きます。以蔵も藩主山内豊信の参勤交代のお供で江戸へ。
ふたりは鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学びます。

安政五年(1858年)春
鏡心明智流中伝を許されます。
帰国して再び武市道場で修業します。

万延元年(1860年)7月
武市に従って長州、九州に撃剣修行へ行きます。
豊後岡藩にとどまり直指流剣術を学びます。
また、武市の友人で儒者の村上圭蔵に預けられました。

万延二年(1861年) 6月
武市、江戸へ行きます。

7月
武市、久坂玄瑞・桂小五郎・高杉晋作らと会います。

8月
武市が土佐勤王党有志血判誓約書を作ります。

文久二年(1862年)4月8日
土佐勤皇党の那須信吾らが、参政吉田東洋を暗殺。

4月中旬
以蔵が村上の下から土佐へ戻り、勤皇党に加盟します。
※後に名前だけ名簿から削られています。
暗殺役に使い捨てする為名前をはずしたのでは、という説もあります。

7月12日
山内豊範、上京途中に大阪で麻疹にかかり、随従していた以蔵らは大阪に足止めされます。

以蔵は、大阪に来ていた龍馬に肥前忠広二尺三寸を借ります。

8月2日
吉田東洋の弟子で土佐藩の下横目(刑事)の井上佐市郎が、東洋暗殺犯の下手人を追っていたのを邪魔に思った勤皇党は、以蔵の仲間で井上の同僚吉永良吉に井上を料亭「大与(大與・だいよ)」に誘わせます。
酔っているところを女でも買いに行こうと連れ出し、心斎橋で以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎で、井上を絞殺。
短刀で止めを刺し、遺体を道頓堀川へと投げ棄てます。

8月25日
山内豊範と武市・以蔵ら随従、上京します。

閏8月14日
以蔵、河上彦斎の友、堤松左右衛門と出会います。

閏8月19日
薩摩藩の暗殺役、田中新兵衛と出会います。

閏8月20日
武市らと同じ尊攘派の本間精一郎(越後出身)は、特定の藩に属さず浪人尊攘派をまとめていました。行動力もある論客で、周囲から嫉妬されます。
青蓮院宮と山内容堂との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間と後者を推す勤王党の間で対立が起きたとも、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたそうです。
武市は本間暗殺を決めます。
土砂降りの雨の中、本間は料亭から午後十時頃酔って出てたところを平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・広瀬健太・田辺豪次郎が襲撃。路地に逃げ込んだところを、新兵衛と以蔵で挟み殺害。身体は高瀬川へと投げ込み、首は四条河原に晒しました。
※この時以蔵は、龍馬から借りた刀の切っ先を折ってしまいます。

閏8月22日
関白九条尚忠の諸太夫であり、安政の大獄の際、島田左近と共に志士弾圧を行った宇郷玄蕃頭(うごう げんばのかみ)は、和宮降嫁推進にも関わっており尊攘派から命を狙われていました。
九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を岡田以蔵・岡本八之助・村田忠三郎及び肥後の堤松左衛門に急襲され子息共々殺害されます。宇郷の首は加茂川河岸に槍に刺し斬奸状と共に晒されました。

閏8月29日
猿の文吉(ましらのぶんきち。「目明し文吉」とも)は、安政の大獄時、島田左近の手先として多くの志士を摘発した岡っ引です。岡田以蔵・清岡治之介・阿部多司馬の3人は三条河原へ連行の上、絞殺しました。
文吉は島田の高利貸しの手伝いもしており、民衆からも嫌われていた為、裸にして河原晒された遺体には投石する者もあったそうです。
※高札に「いぬ」と書いた為、ここから「○○の手先」の蔑称としての「○○の犬」という表現が生まれたという説があります。
9月1日
武市を訪ねて刀代五両借ります。
9月17日
新兵衛、明朝帰国すると武市に告げます。
9月19日
以蔵は病気になり、木屋町の武市の家で静養します。
9月23日
京都町奉行所与力の渡辺金三郎・森孫六・大河原重蔵・上田助之丞は、安政の大獄で長野主膳・島田左近らと共に志士摘発を行っており、宇郷や文吉に対する天誅後、標的とされることを避けるために京都から江戸へと転任しようとしていました。
彼らが石部宿まで来た夜殺害し、奸状には憂国の志士を多数捕らえ、重罪に処したことに対する天誅であると書かれました。
この襲撃には土佐・長州・薩摩・久留米の4藩から複数の志士が参加していたとされ、武市によると以蔵は参加していなかったとされます。
しかし、以蔵に黙って立てられた暗殺計画を以蔵が察し、後から追いかけて勝手に参加したという話もあります。
10月9日
平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛は、共に商人ながらこの年5月の勅使・大原重徳東下の際に士分となり、収賄や横領などを行いました。
長州・土佐両藩の志士が団結して天誅を加えることにします。
土佐からは岡田以蔵・千屋寅之助・五十嵐幾之助らが、長州からは寺島忠三郎らが参加しました。
家族の助命嘆願があり、相手が町人であるので殺しはせず、加茂川河岸の木綿を晒す杭に裸にして縛り付け、生き晒しにします。
10月28日
姉小路公知が江戸へ到着します。武市・以蔵も随行します。
11月15日
長野主膳の妾・村山加寿江(可寿江または村山たかとの説も)の子で、金閣寺の寺侍の多田帯刀も、長野と共に安政の大獄において志士弾圧に加わったとして標的にされます。
前日夜、島原遊郭近くにある加寿江の家を襲撃。寝ていた加寿江を引き出して三条大橋の袂に生き晒しにし、大家を脅して連れてこさせた多田を蹴上刑場へ連行して殺害。首は粟田口に晒しました。

12月21日
武市・以蔵ら京へ到着します。

1863年(文久3年)1月中旬
以蔵、龍馬と共に大阪へ。
1月22日
京都の町人出身の儒学者、池内大学は、安政の大獄時に自首した為幕府の心証が良く、処刑を逃れ出獄しました。それが味方を売って自分だけ助かったとされ、暗殺対象となります。
山内容堂の招きを受けた帰りの駕籠を取り囲み、以蔵たちが暗殺。以蔵は池内の両耳を削ぎ、首は刎ねて難波橋に晒します。
耳は一つずつ京都の公武合体派の公卿に脅迫文と一緒に送りました。
1月29日
公家千種有文の家臣の賀川肇は、安政の大獄の折、島田左近らに協力して志士弾圧に加わった為に狙われました。
浪士が自宅に踏み込んできたとき賀川は二階へと逃げ込み隠れていましたが、丁度運悪く帰宅した幼い子どもが浪士たちに捕われ厳しい詰問を受けるのを見て自ら階下へ降り、斬首されました。

2月5日
龍馬の仲介で勝海舟に会います。
3月8日
以蔵は龍馬に言われて勝の身辺警護を務めました。夜3人の刺客に襲われたところを以蔵が切り伏せ、勝を守ります。
以蔵は勝からフランス製のリボルバーを贈られました。
勝は以蔵の腕を見込み、中浜万次郎(ジョン万次郎)の護衛につけます。
その際万次郎は自らの短銃を以蔵に託そうとしましたが、受け取らなかったとの伝承もあります。
万次郎が建てた西洋式の墓を参りに行った時、4人の暗殺者が万次郎を襲い、以蔵は伏兵が2人隠れていることを察知して、万次郎にむやみに逃げず墓石を背にして動かないように指示します。襲ってきた2人を切り捨てると、残った2人は逃亡しました。
8月18日
八月十八日の政変が起こり、この後、勤王党は失速することとなります。
武市が土佐に戻ると、以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏しました。
しかし冬頃、京都町奉行に捕縛されます。

1864年(元治元年)6月14日
本来なら藩士である以蔵。犯罪者とは言えそれなりの扱いを受けるはずですが、土佐藩は幕府の問い合わせに対し、以蔵を知らない男で当藩とは関係の無い男だと回答します。
その為入墨の刑を受け、(武士にはあるまじき屈辱の刑です)京を追放されます。
解放された場所に待っていたのは、なんと自分を藩士ではないとして裏切った土佐の藩吏でした。以蔵は捕われて土佐山田町の獄舎へ搬送されます。
それを知った武市は実家への手紙で
「あのような阿呆は早々と死んでくれれば良いのに」
と書きました。
土佐藩では反論が変わり、牛耳っていた武市の一派が追われることになります。
土佐勤王党の同志は捕らえられ、上士格の武市を除いて厳しい拷問を受けました。以蔵も例外ではありません。武市は、以蔵が自白するのではと恐れました。以蔵が自白すれば、数々の暗殺事件が明るみに出ます。武市は自分に心酔した牢役人を通じて以蔵に差し入れと見せかけて弁当に毒を盛ろうとしたそうです。
「土佐生まれではあるが無宿者の土井鉄蔵だと名乗り、以蔵であることを否定し続け、連日の過酷な拷問に耐え続けた以蔵ですが、武市にまで裏切られたことに気が付き激怒。
藩吏に洗い浚いをぶちまけます。
※以蔵は毒を盛られた食べ物を食べなかった、食べたが死ななかっただけで、単に拷問に屈服したとする説もあります。
※以蔵が他の同志より身分が低く教養が無い為の差別的感情、またその為彼がより酷い拷問を受けるのではと武市が判断したという説があります。
以蔵が手がけた数々の暗殺が露見する恐れ、彼が自殺すれば防げるのに以蔵自身がそうしないことへの怒りが、武市に毒を盛らせたとされます。

慶応元年(1865年)閏5月11日
以蔵は斬首の上雁切河原に晒し首となりました。
辞世の句は
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」。
墓所は高知県高知市薊野駅近郊の山中にある累代墓地。俗名・岡田宣振として埋葬されています。

以上の暗殺事件の中で、いくつかは以蔵は関わっていなかったとする説もあります。また逆に、暗殺が横行した文久2年~元治元年の間の数々の暗殺事件の中で、以蔵が関わっていたのはこれ以上とも言われます。

尊攘派の武市の下で、暗殺者として働く一方、尊敬する坂本龍馬の依頼で開国派の幕臣勝海舟や、中浜万次郎の護衛も行いました。
土佐勤皇党の面々には、裏切りともとられ、自分の無い人間だと軽蔑されていたようです。
以蔵は個人的な思想よりも、自分が信ずる人たちの信念を守る道を選びました。しかし最後は裏切られ、失意の中でこの世を去りました。

参考
「幕末維新暗殺秘史」
「幕末 剣心伝」
「武市瑞山関係文書」
「維新土佐勤王史」
「斬奸状」栗原隆一
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

●日本の誇り 目次
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...


以下私見
2004年の演劇集団キャラメルボックスの舞台「我が名は虹」は、以蔵が土井鉄蔵として京に潜伏していた頃の物語です。
勝らの護衛をする中で、向かってくる暗殺者に先日までの自分を見た鉄は、人を殺すこと、自分が死ぬことが怖くて仕方なくなり、剣を捨てて旅籠で釜焚きの仕事をしてひっそりと暮らします。
冷酷で人を殺すことが好きで仕方ない狂犬ではなく、人を信じ守ろうとする人間らしい以蔵を描いた数少ない物語だと思っています。
自分はこれを見て、岡田以蔵に興味を持ちました。
今とは時代も違い、暗殺=テロ、人殺しをは言い切れないと思います。
自分の信じる人が大切だと思う人を守り、邪魔だと思う人を斬った以蔵が、ただの血も涙も無い人斬りだとは自分には思えないのです。

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