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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.11.21 Thu
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2009.03.06 Fri

西郷頼母(さいごうたのも )

幕末の会津藩に於いて筆頭家老を務めた人。
熱烈な尊王家で、小柄でも性格は頑固で真っ直ぐ。
物事を冷静に客観的に見て、臆さず意見を述べました。

       ●

文政十三年(1830)閏3月24日
会津藩家老西郷近思の長男として
若松城大手口前の藩邸に生まれます。
母は会津藩士小林悌蔵の次女律子。
幼名は龍太郎。
西郷家は、会津藩松平家の筆頭家老を代々務める家柄で
藩祖保科正之の分家でもありました。
※頼母は代々の通称。名は近悳(ちかのり)。

学を好み、溝口派一刀流の剣を学びました。

安政元年(1854)
番頭になります。

安政四年(1857)
父が病のため職を辞し、藩政に参画します。

万延元年(1860)
父の死により、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えました。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

鶴ヶ城大手門外の近くに邸を構えていました。

文久二年(1862)8月19日
幕府が容保に京都守護職就任を要請してきます。
頼母は同僚の田中土佐と共に江戸に駆けつけ辞退を進言。
「京都所司代を勤めて成功した例は殆どない。
朝廷と幕府の板ばさみになるだけだ。
幕府を擁護すれば長州などから敵視され、
彼らに味方すれば、守護職の責務は果たせない。
況してこの攘夷・倒幕論の盛んな折
薪を背負って火の中に飛び込むようなものだ」

しかし結局容保は、
「徳川家の危急存の折
一藩の利害をもって論ずべきではない」
と守護職を拝命します。

10月
頼母は病を理由に辞職。
※罷免されたという説も有ります。
若松の東北舟石下の長原村 栖雲亭で五年ほど幽居生活を送ります。

慶応四年(1868)1月 鳥羽伏見の変
2月 藩主松平容保帰国。
4月 家老に復職。
世子喜徳の執事となり、江戸の会津藩邸の後始末をします。
新政府側は容保親子の斬首を要求。
新政府軍が会津に迫り、已む無く防衛に立ちます。
閏4月20日 頼母は白河口総督となります。
5月1日 落城
奪回を試みて戦闘を繰り返すもならず
一人馬に乗って突入し玉砕しようとしたところを
義兄の飯沼時衛に諫められて思い止まります。
※白虎隊士の飯沼貞吉は頼母の甥にあたります。

若松に戻ると「他に藩を救う道は無い」と恭順謝罪を説き続け、
抗戦派の諸将らとうまくいかなくなり登城差止め、蟄居処分となります。

8月22日
新政府軍が戸ノ口原に至り、頼母は一族を 集めて
「こうなっては藩主に殉じようと思うが、その前に
これまで尽くしてきた会津藩が賊軍とされた汚名は雪がねばならない」
と、長男の吉十郎(11歳)と登城。
冬坂峠方面の防備に向かいます。
足手纏いになることを嫌った妻の千重子をはじめ一族21人は
翌日全員自決したと言われています。
※自決ではなく、土地の無頼漢による強盗殺人の説もあります。

頼母は一致団結しなければと城中の者を励ます一方で
恭順より抗戦を採った同僚を批難した為
士気を乱す頼母を暗殺すべし、という空気が流れます。
容保はこれを案じ、頼母に
越後口から帰国する家老萱野・上田への使者という口実を与えて
城から脱出させました。
主戦派の家老梶原平馬が砲兵隊組頭大沼城之介と遊撃寄合組隊芹沢生太郎を刺客として差し向けましたが、
彼らも頼母の厳しく、真っすぐな心根を理解しており頼母を追うことはせず
途中で見失ってしまった、と虚偽の報告をしたと言われます。

米沢から 仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流。

明治元年(1868)9月22日
軍艦開陽丸で箱館へ向かう艦中で、会津の開城降伏の報が届きます。


明治二年5月11日
新政府軍の箱館総攻撃が始まります。
頼母は榎本に降伏を勧めます。

5月18日
降伏。

7月14日
箱館で降伏した会津藩士16名、古河藩外三藩に分けて幽閉処分となり
頼母も一旦東京に移送されます。

9月
改めて館林藩に幽閉されます。

明治三年(1870)2月
幽閉が解かれます。
本姓の保科に改姓し、保科近悳とします。

明治五年(1872)
伊豆松崎で、依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となります。

明治八年(1875)8月
福島県東白川郡棚倉町にある都々古別(つつこわけ)神社の宮司となります。

明治十年(1877) 西南戦争
西郷隆盛と交遊があったことから敵方に加担したと疑われ、
宮司を解任されてしまいます。

明治十二年(1879)
吉十郎病没。

明治十三年(1880)2月
松平容保が日光東照宮の宮司となり、頼母は禰宜として補佐します。
当時の彼は鍛錬の為日光二荒山に登り、坂や崖の昇り降りをしていたそうです。

明治十七年(1884)
会津藩士御用場役 志田貞二郎の三男 志田四郎を養子にします。
※四郎は7歳頃から天神真楊流の柔術を習い才能が開花。
師範の天津名倉堂の粟山昇一と頼母は知人でした。
※四郎は頼母の実子という説もあります。

明治二十年(1887)4月
神官廃止に伴い禰宜を辞職。
大同団結運動に加わって会津と東京を拠点に政治活動をします。
運動が瓦解すると、若松に帰郷しました。

明治二十一年(1888)
西郷家が再興となり、四郎は西郷四郎を名乗ります。

明治二十二年(1889)4月
福島県伊達市霊山町にある霊山神社の宮司となります。
頼母自身の希望で、県師範学校の嘱託として講義を始めます。

明治二十六年(1893)
従七位に叙せられます。

明治三十一年(1898)
頼母は藩士時代に武田惣右衛門から御式内等の武芸と陰陽道を学び、
御留流に工夫を加えてオリジナルの武術を編み出しました。
惣右衛門の孫の武田惣角が霊山神社を訪ね、住み込んで働きながら
それらの武術を頼母から学びます。
※大東流合気柔術 の名称は、頼母が命名したとも言われます。

明治三十二年(1899)4月1日
霊山神社の宮司を辞し、若松に戻ります。
旧藩邸から程近い十軒長屋で、下女のお仲と静かに暮らしました。

明治三十六年(1903)4月28日
早朝、脳溢血で息を引き取ります。
享年74歳。
辞世は
『あいづねの遠近人(おちこちひと)に知らせてよ
保科近悳今日死ぬるなり』

墓は福島県会津若松市内善龍寺にあります。



参考
「会津戦争全史」星亮一
「会津戦争のすべて」
「幕末・会津藩士銘々伝」
「明治維新人物事典」
その他、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2009.02.27 Fri
佐藤 彦五郎(さとう ひこごろう)

『多摩の米蔵』と呼ばれた日野の宿場を中心とした
日野本郷三千石を代々管理してきた佐藤家
第十一代かつ最後の問屋役名主です。
日野宿は多摩川の日野の渡しも管理していました。
※日野宿では『本陣』ではなく『問屋場』と呼び、
本陣の当主が名主と問屋を兼ねたので問屋役名主と呼ばれました。
京都へ行ったばかりの新選組の相談に乗ったり、資金援助をした人でもあります。
克己心が強く、義を大事にする人で人々から尊敬されていたそうです。

       ●

文政十(1827)年9月25日
武蔵国多摩郡日野宿(現在の東京都日野市日野本町)で
父 半次郎、母 まさの長男として生まれます。幼名庫太。

天保八年(1838)
父が急逝し、彦五郎は11歳で日野本郷名主、日野宿問屋役
日野組合村寄場名主を継ぎ、日野本郷三千石を管理することになります。

弘化二年(1845)
石田村の のぶ(土方歳三の姉)と結婚。

嘉永二年(1849)1月18日
佐藤家から道を隔てた一軒の農家から出火。
北風に煽られて佐藤家を含め十数軒が類焼してしまいました。
更に彦五郎の祖母を含む二人が斬り殺される通り魔事件も勃発。
この頃ペリー来航の混乱や攘夷の風潮で
押し込み強盗なども増えて治安は乱れていました。
彦五郎は、村の治安維持の必要を強く感じます。

嘉永三年(1849)
八王子千人同心の井上松五郎に紹介を頼み
天然理心流三代近藤周助邦武(近藤勇の養父)の門人となります。
自宅の一角に出稽古用の道場を設けます。

安政元年(1854)
武術に励み、天然理心流極意皆伝となります。
長屋門を改造して剣道場とし、天然理心流入門者は急増したようです。
月に数回?江戸試衛舘から近藤勇らが出稽古に来て教えていました。
また、幕府が品川沖に防衛の為砲台を造る際(現在のお台場)献金してます。
※近藤周助も献金しています。

安政二年(1855)9月20日
町田の小野路村組合の寄場名主小島鹿之助と近藤勇と義兄弟の杯を交わします。

安政五年(1858)8月
日野宿の近藤周助門人23名が八坂神社へ献額を奉納。

文久元年(1861)8月
大国魂神社で近藤勇天然理心流宗家四代目襲名披露試合。
紅白戦で、白の大将を彦五郎が務めました。

文久二年(1862)
コレラが蔓延し、死亡者が多数出てしまいます。
仏棺が街道に列を作るほどでした。
彦五郎は私財を投じて薬剤を施与し、幕府から白銀を賜っています。

文久三年(1863)
将軍警護浪士組募集に、試衛館の面々が参加します。
彦五郎も参加したかったのですが、名主の仕事がある為
義弟の土方歳三に託します。
自分は天然理心流の神文巻物を引継ぎ、宗家代行として
多摩地区各地への出稽古をしたり、門人の世話をしたりしました。
※上洛したばかりの頃の近藤たちは謂わばニートからのスタートで
給料も貰えない状況でした。
彦五郎は資金援助をしたり、相談に乗ったりしています。
近藤、土方、沖田らと、彦五郎、小島との間には
頻繁に年賀状や書簡のやりとりがありました。
土方が上田村の親戚に送った手紙には
『委細は彦五郎さんに聞いてくれ』と書かれたものがあります。
また、新選組となってからも色々な噂話を耳にしては
『君たちがいくらしっかりしていても、末端の隊士が風聞を落としては
新選組の印象が悪くなってしまう』
など心配して手紙を送っています。

元治元年(1864)7月19日 禁門の変
一週間ほどで噂が届き、近藤が戦死したという誤報もありました。
彦五郎は江戸の会津藩邸に問い合わせたり、京から戻った会津藩士から話を聞いたりして近藤の無事を確かめ、小島に伝えています。

多摩地方で農兵の取立てが行われ、日野宿組合を中心に日野農兵隊が組織されました。

慶応二年(1866)6月
天候不順による不作と、大雨による洪水で多摩川や浅川も
屡川止め(渡河不能)となり、物価が高騰します。
貧民救済のカンパを集めたり救援米が出されたりしましたが
武州吾野や名栗などで農民一揆が発生。(武州一揆)
村々の農民を巻き込んで一時は数千人にふくらみ、
飯能・所沢と豪商や豪農を打ち壊し
小宮村(現八王子市小宮町)に押し寄せようとした所を
八王子千人同心と農兵隊が出動。
多摩川の対岸で撃退し、日野宿と八王子宿は打ち毀しの難を逃れました。
長男の源之助も銃術と撃剣で鎮圧に参加したそうです。
※隊士募集に江戸へ戻った土方は、源之助の操銃を見て感嘆し、是非京都へ来て新選組の教授方になって欲しいと言ったほどだそうです。
彦五郎は行かせたかったのですが、のぶの大反対に遭い諦めています。

慶応三年(1867)3月
薩州浪人12人が軍用金調達と称して村々を脅迫して周ります。
退治せよという代官の命で、彦五郎は農兵隊6人を連れて彼らが泊まっている八王子壷伊勢屋へ。
短銃を持った相手を数人討ち取り、残りを捕縛します。
※後にこの話を聞いた近藤は、
「鉄砲とやりあうなんて危な過ぎる! 俺だってまだやったことはないよ」
と驚いたそうです。

慶応四年(1868)1月 鳥羽伏見の戦い
将軍に従い新選組も江戸へ戻ってきます。

3月 甲陽鎮撫隊編制
彦五郎は兵糧を手配。春日盛と称し、農兵隊(春日隊)を組織して参加します。
勝沼の戦で敗退。
※猿橋で、橋を焼いて敵軍を阻もうという意見に対し彦五郎は、
「橋は地元の人にとって大切な物だ。 特にこの難工事の猿橋を一度焼いてしまえば、地元の人たちがどんなに困ることか。この橋を焼くのは絶対に反対だ」
と、やめさせたそうです。

新政府軍2000人が八王子へ来て、横山町の柳瀬屋を参謀隊長板垣退助の本営として通行人を厳しく取り調べます。
新選組幹部と親しく、春日隊を出兵もさせた為
「日野の彦五郎は、草の根分けても見付けなければならぬ」
と捜索され、彦五郎一家は申し合わせる暇もなく散り散りに逃げます。
彦五郎はのぶと下女のあさ、末娘のともと小宮村北平の大蔵院へ。
尼僧に匿われて一安心かと思いきや、兵隊がやってきて間一髪で脱出。
西多摩郡ニ宮村の茂平氏宅に辿り着き、更に大久野村なる羽生家に着いた時は既に夜半の一時頃でした。
一方長男の源之助は病み上がりで室内をつかまって歩くほど衰弱しており、駕籠で、栗の須井上忠佐衛門宅へ向かいました。
同家の下男の鉄蔵に背負われ、隣家の兵蔵と井上錠之助と共に逃げますが捕まり、八王子の本営で訊問を受けます。
彼は本当に父の行き先を知らず、いくら問われても答えられません。
板垣がやってきて、
「子供が父の居場所を知らないとはおかしなことだが、
子供としてはたとえ知っていてもそれを白状しないのは親孝行だ」
と一同を釈放します。

彦五郎の屋敷は真先に捜索し、天井裏や床下まで探した上元込め銃を19挺が取り上げられました。
近藤は大久保一に、土方は勝海舟に密使をたて、彦五郎一家差構なしの達しが大本営詰め西郷からあったようです。

明治二年(1869)7月
土方の小姓、市村鉄之助が彦五郎宅へやってきて、土方の遺品を渡します。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

明治五年(1872)
戸籍作成時に名を俊正と改めます。
多摩川築堤工事を行います。

明治六年(1873)
神奈川県第九大区(南多摩地区二宿六十三カ村)の区長に就任。
学校誘致に尽力します。

明治七年(1874)
1月17日 妻のぶ、47歳で死去。

明治政府から、朝敵となった戦死者の霊を祭る事を咎めないと布告が出ます。
彦五郎、は小島らと顕彰碑の建立が計画します。

明治十一年(1878)
郡区町村編制法により多摩郡が東西南北に分けられ、初代神奈川県南多摩郡長となります。

明治十四年(1881)
三男連太郎、22歳で死去。
彦五郎は初代南多摩郡長を辞職 し、佐官になりつつあった自由民権運動を支援します。

明治二十一年(1888)
高幡山金剛寺に、殉節両雄之碑が完成します。

明治三十五年(1902)9月17日
76歳で病没します。
菩提寺は大昌寺です。

       ●

彦五郎は俳句を趣味としており、春日庵盛車という雅号を持っていました。
土方の長兄土方為次郎(閑山亭石翠)とは、共通の趣味であった俳句で親交も深かったようです。

近藤勇への追悼句
鬼百合や 花なき夏を 散りいそく

土方歳三への追悼句
待つ甲斐も なくてきえけり 梅雨の月


参考
新選組関連書籍(詳細割愛)
その他、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2009.02.20 Fri
松平容保(まつだいら かたもり)

幕末の京都京都守護職を勤めた会津藩九代目藩主。
考明天皇の厚い信頼を得、朝廷への敬慕と幕府への忠誠の姿勢を
新政府軍に逆賊として追われ、恭順も許されず戦いに追い込まれても
最後まで崩さなかった人です。
会津落城後は明治五年まで謹慎処分となり、その後東照宮宮司に任ぜられました。

       ●

天保六年(1836)12月29日
美濃国高須第十代藩主・松平義建(よしたつ)の六男として生まれます。
母は側室古森氏。幼名は銈之丞。
兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬らがいます。

弘化三年(1846)4月27日
陸奥国会津八代藩主の松平容敬(かたたか)に息子が無かった為、容保が養子となります
※弟の定敬(後の京都所司代)は、伊勢桑名松平藩へ養子に行っています。

嘉永五年(1852)閏2月25日
十日前に義父が病死したことを受け、18歳で会津藩九代目藩主となります。肥後守に転任。

安政三年(1856)
養子に入った当初から許婚だった容敬の娘、敏姫と結婚。
井伊直弼は「我が子が2人増えた」と招いて祝ってくれるほどこの結婚を祝福したと言われます。

安政七年(1860)3月3日 桜田門外の変
水戸脱藩浪士による井伊直弼暗殺事件が勃発します。
幕府では、水戸藩を討伐すべしという意見も出ましたが、容保はこれに反対。
「身内を厳罰に処しては災いが大きくなるばかりだし、各藩に代々受け継ぐ家風があるように、水戸藩は尊王の家風なのだから」
という容保の意見が結局は容れられることとなります。

文久元年(1861)10月
妻の敏姫が死去。
大層悲しんだ容保は、この後、正室を置きませんでした。
※京都守護職として京都に赴任する際、側室は、江戸屋敷に置いたままでしたが
容保を気遣った江戸家老の勧めで側室のひとり、佐久(田代孫兵衛娘)が
京都へ行き容保の世話をしたと伝えられます。

この頃の京都は、尊王攘夷の西国各藩の志士が朝廷に働きかけるべく集結し
主要人物の暗殺も日々行われていました。
軍事力を持つ親藩に任せて京都を抑え込みたいと考えた徳川慶喜と松平春嶽は
京都守護職を新設し、容保をその任務に就かせようとしました。
容保は体も弱く、城代家老西郷頼母をはじめ家臣たちは、
「薪を背負って火の中に飛び込むようなものです」と
国元の会津から急いでやって来て反対しました。

何度も固辞した容保ですが、慶喜たちは聞き入れません。
藩祖 保科正之
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
の名を持ち出して執拗に説得されます。
※史料によっては慶喜らの謀略で断りきれない状況に追い込まれ
スケープゴートにされたにも等しく書かれたものも複数見られます。

容保は駆けつけた家臣たちに
「今は己の将来より義を取ろうと思う。我らは京都を死に場所としよう」
と話し、就任を決意します。
家臣たちは主君の悲壮な決意に抱き合って涙したと言われます。

文久二年(1862)
閏8月1日 京都守護職に就任します。

12月24日
千名の藩兵を率いて上洛し、黒谷の金戒光明寺を本陣とします。
※当時の京都では
『会津肥後さま、京都守護職つとめます。内裏繁盛で公家安堵、とこ世の中ようがんしょ』
という歌が流行し、治安向上を期待して容保ら一行を歓迎したと言われます。

容保は、『言路洞開(げんろどうかい)』の方針を採りました。
「策を用いるべきではない。至誠をもって事に当たれば、自ずと人は従う。
倒幕派の志士たちは日本の未来を憂えているのであり、国を愛する気持ちは同じなのだから
腹を割って話し合えば道が見出せる」 という考えです。
武力で抑え込むことを期待した慶喜たちは、呆れていたと言われます。

文久3年(1863年)1月
容保は孝明天皇に拝謁します。彼の働きに対し天皇から
「鎧の直垂にせよ」と緋の衣を賜ります。
※天皇より直々に武家が衣を授かるなど通常考えられないことで、容保は大層感動したようです。

2月23日 足利将軍木像梟首(きょうしゅ)事件
攘夷志士たちが等持院に乱入。
納められていた、足利尊氏、義詮、義満の木像の首を引き抜き三条河原に晒しました。
捨札には「逆族に天誅を加うるもの也」とありました。
ここまで将軍家、幕府を侮辱されても、逮捕出来る力は京都町奉行所には無く、永井尚志
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
も、「強行に逮捕すれば洛中の過激浪士500人が一斉蜂起して大混乱になる」と言いました。
しかし容保は、「浪士が何百、何千いようとも国家の法は曲げられない。手に余ると言うが、ご心配には及ばない。予は会津藩主である」と答え
奉行所の捕手に会津藩士を付き添わせて、直ちに下手人を捕縛しました。

3月15日
後の新徴組として上洛し江戸へとんぼ帰りすることになった浪士の内17名が、
京都守護職肥後守御預 壬生浪士組となります。
容保は彼らと懇意となり、度々屋敷へ呼んで酒や食事を振る舞い、
剣や薙刀など彼らの武芸を見る事を好みました。
将軍の警護や市中見回りなどの任務が、浪士組には課されました。

孝明天皇は有名な夷人嫌いではありましたが、政治は幕府に任せていました。
しかし、過激な公家や志士らが政権奪取を画策し、天皇の意に反することが
度々勅命として発せられるに至り、
ついに「偽勅出す奸臣を排除せよ」との天皇の密命が容保と薩摩藩に下りました。

8月18日 八月十八日の政変
長州藩などの尊攘派勢力を薩摩・桑名藩と共に追放します。
三条実美ら長州派を朝廷から排除したことから七卿落ちとも呼ばれます。
この結果、容保は孝明天皇より
忠誠に感謝すると言う宸翰(しんせん。帝の手紙)と御製(和歌)を頂きました。
※この時会津藩と共に参加した壬生浪士組に対し、容保は会津藩の武芸に優れた若者の隊名から、『新選組』の名称をつけます。

元治元年(1864)2月4日
新選組に八月の政変の恩賞を出します。
寝込んでいた容保の見舞いに来た近藤勇も神経性胃炎を病んでおり、湯治を勧めます。
2月11日 長州征伐にあたり、陸軍総裁職に転任。
2月13日 軍事総裁職に転職(陸軍総裁職の名称変更による)。
陸海軍の総指揮官としての権限が与えられました。
新選組の願いが聞き入れられ、彼らはこれまで通り容保の支配下に組み入れられることになります。
4月
市中でも容保の京都守護職復職を求める声が多くあがり、 病床にあって辞職を願っていた容保でしたが、守護職の下命を受けます。
諸藩共同でしていた京都の警護体制を、一橋家、京都所司代、幕府歩兵組、京都守護職、新選組で分担して市中警護を行うことになります。

慶応元年(1865)2月
長州征討は、容保が自ら江戸へ行って将軍上洛を願い出ます。
※新選組が同行を希望しますが、京都の警護に専念して欲しいと答えます。

7月19日 禁門の変(蛤御門の変)

9月
将軍上洛。一月ほどで将軍を辞退し江戸へ戻ろうとしたところを、容保と新選組で奔走し引き止めます。

長州征伐の総督には、容保の兄、徳川慶勝が任命されました。
慶勝が尊王派だったことと、参謀が西郷隆盛で、既に彼は内心幕府を見限り始めていたので、
征伐は長州の家老の切腹のみという結果に終わります。

慶応二年(1866年)7月20日 将軍家茂の病死
12月25日 孝明天皇が崩御
この2人の死は、いよいよ佐幕派を不利な状況へと追い込むこととなります。
※特に佐幕派であった天皇の死については、表向き疱瘡の悪化とされますが
邪魔になった攘夷派が、自分たちに言葉に従うだけの天皇と取り替える為
毒による暗殺を行ったという説が有力です。

慶応三年(1867年)
10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古の大号令
幕府は政をする権利を放棄することで倒幕の名目をなくそうとしましたが、
倒幕派は慶喜を除いて雄藩と公家で天皇の御前で会議をし徳川家の領地没収を決定。
理不尽さを訴えた藩も、天皇の意思として押さえ込まれてしまいます。
この決定に幕府側は激高しますが、慶喜は、勅令には逆らえないと言います。
幕府が歯向かってくれた方が賊軍の汚名をつけやすい薩長は、江戸で挑発行為を行います。
商家への強盗、放火、江戸取り締まりの任にあたっていた庄内藩への攻撃などを
あからさまに薩摩藩の仕業と分かるように行いました。

慶応四年(1868)1月3日
あまりの暴虐に、江戸薩摩藩邸に庄内藩が攻撃を加えたたことで
鳥羽伏見の戦いが勃発します。
薩長側には天皇が引き込まれており、官軍であることを示す錦の御旗が持ち出されます。
※この旗も西軍が手縫いで作成した偽物です。
軍備や地理の不利もあり、逆賊になって意気消沈した幕軍は大阪城に入ります。
兵達は、体制を立て直して反撃するつもりでしたが、
慶喜は夜陰に乗じて容保や定敬らを連れて幕府軍艦で江戸へ向かいます。
2月
江戸幕府が消滅すると京都守護職も廃止に。
長州の恨みを買っている容保は登城禁止処分となります。
慶喜が新政府に対して恭順を行い、幕府軍は恭順派と抗戦派が対立します。
薩長の画策で容保誅戮の宣旨が出されます。
『容保は徳川慶喜の反逆を助けた張本人であり、徳川家のためにも大不忠の者。断然追討せねば朝廷のためにもならない』
と、容保に責任を押し付け悪役に仕立てあげようとしました。

容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎します。
奥羽諸藩が会津を助けるべく同盟をし会津助命を訴えるも聞き入れられず、悲壮な戦いとなります。
《参考》木村銃太郎
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

奥羽越列藩同盟も瓦解。
閏4月20日から明治元年9月22日まで続いた会津戦争は
会津に薩長軍がなだれ込み1ヶ月の鶴ヶ城(会津若松城)篭城戦後、会津の降伏で幕を閉じました。
容保は
「孤立した城でこれまで持ちこたえられているのは、皆の忠義と勇気によるものだ。
しかし、このような戦いまでさせることになってしまった。
私一人の為に数千の人民が苦しむのを見るのは忍びない。降伏しようと思うが
もし何かほかに良い策があれば遠慮なく言ってほしい」と言い、
家臣たちは「主君に従うのみです」と答えたそうです。

容保は東京で蟄居、会津藩は極寒不毛の下北・斗南へ琉配移封となります。

明治5年(1872年)2月14日 預り処分を免じられます。
明治9年(1876年)11月1日 従五位に叙位。
明治13年(1880年)
2月2日、栃木県日光市の日光東照宮宮司に就任します。
その後上野東照宮祠官や二荒山神社宮司、東京と栃木の皇典講究所監督を兼務します。

明治二十六年(1893)9月22日 辞職。
12月4日
正三位に昇叙。明治天皇から牛乳を賜ったそうです。

12月5日
東京目黒の自宅にて肺炎のため死去。享年59歳。
葬儀は神式で行われ都内の正受院に葬られ、後に会津若松の松平家の廟所に移葬されました。
諡号は忠誠霊神(まさねれいしん)。
孝明天皇から賜った御製2首の前書き
「たやすからざる世にもののふの忠誠のこころをよろこびて」からとったと言われます。

昭和三年(1928)
明治維新から60年。
秩父宮雍仁親王(大正天皇第二皇子)と、容保の孫の松平勢津子が結婚。
賊軍とされた会津藩の復権であると言われています。

       ●

京都での恨みから執拗な処分を求められ、反撃せざるを得ない状況に追い込まれた容保さん。

容保さんの死後、肌身離さず首にかけていた小さな竹筒が見つかります。
中には孝明天皇から禁門の変の時に頂いた手紙が入っていました。
長州派の公家の一掃の感謝と容保を第一に頼りとするという旨の書。
公開すれば、明治維新後賊軍と蔑まれた汚名を雪ぐことも出来たかもしれません。
新政府軍側の人間がこの宸翰の内容を知り、抹殺する為に
会津松平家に対し法外な値段で買い取ろうとしたり、脅迫したりした
という話もあります。

しかし容保さん本人は生涯
幕末については一切語ることが無かったそうです。


生涯で2300もの歌を詠まれたそうです。

なき跡を 慕うその世は隔たれど なお目の前の 心地こそすれ
今もなほ したふ心はかはらねど はたとせあまり 世は過ぎにけり


参考
「会津藩始末記―敗者の明治維新」永岡慶之助
「会津白虎隊のすべて」小檜山六郎
「至誠の人松平容保」星亮一
「敗者から見た明治維新-松平容保と新選組-」早乙女貢
その他、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。


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2009.02.13 Fri
岡部長常(おかべ ながつね)

1300石の旗本、岡部さん。若くして病死した彼の史料は、あまり多くは残されていません。
彼の長崎での功績を評価する、同時代の人々の史料の中に名前を見つけることが多いようです。
彼と接した諸国の人が、彼の開明的で温和な態度を賞讃しています。

       ●

文政八年(1825)
武蔵国に生まれます。幼名は彦十郎。
父は太田運八郎です。
後に旗本岡部長英の養子となります。

安政二年(1855)9月
長崎海軍伝習所に目付として長崎に赴任します。
前年に目付として赴任していた永井尚志が7月に海軍伝習所の総取締となっていました。
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日蘭和親条約が結ばれます。

10月24日 海軍伝習所開所
鎖国から開国への過渡期にあったこの時期、長崎にいた岡部と永井は、海軍等の充実が急務だと考えていました。
永井と相談し、幕府がいつまでも回答を寄越さない為独断で製鉄所建設を決定。
踏み絵廃止、英語伝習所創設などにも踏み切ります。

安政四年(1857)閏5月
松本良順が伝習所へやってきます。
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岡部は永井が江戸へ戻った後、木村芥舟(かいしゅう)が赴任するまでの間
臨時で伝習所総取締を務めました。
この頃の伝習所は、多くの生徒が遊郭に入り浸るなど風紀が乱れていたようです。
奉行所は伝習生らを別格として扱い、取り締りの対象としなかったことが乱れに拍車をかけました。
岡部は木村と協力して風紀の引き締めを行いました。
悪所通は宿舎の部屋が狭い故のストレスでは、と。伝習所近辺の空き屋敷を借り上げて住環境を改善します。
長崎周辺の狭い海域に限られて行われていた訓練航海を他藩の領海を含めた広い海域で行えるようにもしました。

12月
長崎奉行に就任します。

安政五年(1858)8月17日
日蘭通商修好条約が結ばれます。
岡部が交渉を担当しました。
岡部、永井、岩瀬忠震が国王宛の書簡として起案。
海防懸、評定所一座、箱館・浦賀・下田の各奉行などが意見を付し、最後に老中がオランダ政府諸公宛の書簡に書き改めました。


安政六年(1859)
ポンペ、松本らの意見を容れて、解剖・病院設立・貧民医療などに便宜を図ります。
※プロイセン使節団のヴェルナー艦長は
「絶対専制支配が行われている日本だが、立憲的なヨーロッパの諸国家より個人の権利は守られている」
と述べています。
病院建設の為、ポンペが適した場所を探しましたが、そこは農民が畑を持っている丘の頂上でした。
岡部は農夫に土地を売って欲しいと頼み、断られると相場の三倍ほどの金額を提示しましたが、どんな条件を出されようとも売らない、と断られます。
そこで岡部は強制的に土地を取り上げることをせず、別の建設用地を探させたことがヴェルナーには驚きだったようです。
真偽の程は分かりませんが、岡部らしいエピソードと言えます。
※ポンペも岡部のことを、
「文化人で立派な働き者。母国日本の発展と繁栄に繋がることなら何でも大胆に行動した。多くの悪弊は彼によって打破された」
と評価しています。

2月9日
幕府からの伝習中止命令に対し、松本だけでも残って医学を学べるよう井伊大老に願い出ます。
(井伊の機転により、黙認されます。)

※ロシア総督リハチョフと交流しつつ岡部に働きかけていたのがシーボルトは
“シーボルト事件”で追放・再渡航禁止処分となっていました。
日蘭通商条約締結で処分解除となり、再来日して幕府の外交顧問となります。
長崎のみの開港を主張し、長崎の優遇策と自由港化を提言しました。
それにはオランダ側外交官は批判的で、岡部自身も、シーボルトが外交問題に関与しようとすることには閉口していたようです。

文久元年(1861)11月
外国奉行に就任します。

文久二年(1862)6月
大目付就任。(旗本最高位)

7月9日
越前藩用人中根靭負(春嶽の謀臣であった中根雪江)が岡部を訪ね、家門筆頭である福井藩主が他大名と同格の大老に就任するというのは受けがたいと申し出ます。
岡部はこれを容れ、その日閣老の会議で松平春嶽のポストを「政事総裁職」にすることを提案。
薩摩藩島津久光ら尊王攘夷派が春嶽と一橋慶喜の登用を幕府に求めていたこともあり
春嶽は謹慎処分を解かれ、政事総裁職に就任します。

島津久光が公武合体運動推進のため兵を率いて上京。
江戸へ行く口実を作るため堀小太郎に密命を出し、江戸に参勤します。
岡部は久光の謀臣伊地知貞馨・幕臣岡部長常・大久保一翁らと折衝します。

7月28日
堀小太郎の件を、永井を通じて春嶽に伝えます。

8月24日
春嶽から呼び出され、生麦事件の処理について
久光を引き止めて犯人を差し出させること
老中が状況して事情説明し、京都護衛につくこと
の二点を評議するよう指示を受けます。

8月27日
越前藩顧問横井小楠が、岡部を訪ねて幕政改革論
(将軍上洛と失政の陳謝、参勤交代廃止等の国是七論)を説きます。
※国是七条
国が一体となった「公共の政」と「海軍の増強」が核。
公武合体派、尊王攘夷派の主導権争いや暗殺が横行する中で、欧米列強と対等に付き合っていくための根本的な方針。
この後、坂本龍馬の「船中八策」、由利公生の「五箇条の御誓文」の原案として引き継がれて明治政府の基本方針となっていきます。

岡部は感服し、登城して将軍後見職一橋慶喜らに伝えます。
この中の一案である参勤交代廃止には板倉が反対しますが、大久保と共に説得して了解させました。
※参勤交代制は徳川幕府を守る為の策でしたが、この頃になると各藩にとって莫大な費用の負担が重荷となっていました。

8月30日
生麦事件について、英国側が板倉邸で犯人引渡しを要求してきます。
岡部は春嶽を説得して板倉邸に行かせます。

閏8月4日
越前藩が岡部の要請を受け、春嶽の登城再開が決定します。

閏8月15日
進献物廃止について老中らが自分たちの私利私欲の為反対するので、
憤慨して慶喜と共に登城をボイコットします。

9月26日
春嶽が、戦になってでも条約を破棄すべきとの攘夷論を展開。
岡部は反対します。

文久二年(1862)10月20日
幕議は開国から攘夷に一転。
岡部は開国論を曲げなかった為、尊攘急進派からは奸吏と見なされ敵視されました。

10月23日
大久保、岡部、小栗忠順に天誅を下すとの噂が広まります。

10月25日
老中格小笠原長行が、板倉に岡部らの罷免を迫ります。

11月25日
会津藩外島機兵衛が、岡部を訪ね、京都町奉行永井との共同意見として慶喜以下重職の上洛を求めます。

12月8日
将軍上洛に先発して慶喜が出発。岡部が随行を命じられます。

文久三年(1863)1月16日
反対を受けて将軍上洛が延期されます。
岡部は、中根に京都の現状を語りました。

2月27日
生麦事件の賠償について、岡部、慶喜らに、江戸へ戻り英国との交渉をするよう命じられます。

3月17日
将軍家茂が、幕府上層部の画策で江戸へ戻ることになります。
守護職の松平容保は、将軍滞京の意見書を岡部に渡し、止めます。

4月22日
慶喜が、江戸に向けて京を出立。岡部も随従します。

4月23日
東帰の道すがら、岡部は刺客に襲われ、なんとか難を逃れます。

7月
病気を理由に大目付を辞任します。

12月
作事奉行となります。

元治元年(1864)3月27日
天狗党の乱
岡部も一隊を出し、鎮圧に乗り出しています。

11月
神奈川奉行に就任。

12月
鎗奉行となります。

慶応元年(1865)閏5月
軍艦奉行となります。

7月
清水小普請組支配に就任。

8月
辞職

慶応二年(1866)12月1日
病没します。享年42歳 。
墓所は東京都中野区の境妙寺です。


参考
「明治維新人物事典」
「再夢紀事」
「維新史料綱要」
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2009.02.06 Fri
永井尚志(ながいなおゆき)

幕末の幕府官僚だった永井さん。温和で徳のある人だったと言われます。
負け戦だと分かっていながら、榎本さんや新選組らと共に箱館まで戦い、
明治になっても任官を受けて日本の為に働いた人です。
※昔は『なおむね』と読むのが一般的でしたが、子孫の方から
「永井家では代々、『なおゆき』と読んでいる」とご指摘があり、近年では併用されることが多いようです。

       ●

文化十三年(1816)11月3日
三河奥殿藩の第五代藩主・松平乗尹(のりただ)の側室の子として生まれます。
幼名は松平岩之丞。

文化十五年(1818)5月23日
乗尹が亡くなります。永井は江戸麻布の藩邸で育てられます。

天保十一年(1840)
美濃加納藩主永井家の分家 旗本の永井尚徳の養子となります。

弘化四年(1847)4月16日
部屋住から小姓組番士になります。

嘉永元年(1848)
幕府の高等教育機関、昌平校の試験に合格。

嘉永四年(1851)2月
昌平校の分校、甲府徽典館学頭(校長)となります。任期は一年間。

嘉永六年(1853)
6月3日 黒船来航。
7月20日 御徒頭となります。
10月8日 海防掛目付に抜擢。砲台建設大砲製鋳を担当します。

安政元年(1854)4月5日
長崎監察使(目付)に就任。長崎に赴きます。
8月23日
長崎西奉行所にて日英約定七箇条締結交渉。
9月1日
長崎西奉行所でオランダ国王からの献上品贈呈式が行われ、立ち会います。
9月2日 日蘭和親条約締結。

安政二年(1855)7月29日
老中阿部正弘に抜擢され、長崎海軍伝習所総取締(所長)に。
※伝習所で学んだ生徒は勝海舟や榎本武揚など4年間で約200人です。
10月24日 海軍伝習所開所式
海軍を興すのならば造船所が必要。となれば製鉄所を作らなくては、と永井は建設を幕府に上申します。
しかし一向に返事が来ません。
オランダ海軍中佐グ・ファビウスが帰国してしまえば話が流れる恐れがあるので、長崎奉行と相談して独断でファビウスに製鉄所建設を依頼しました。

安政三年(1856)7月?
アメリカ駐日領事ハリスと、通商条約締結の為面談。
10月5日
海外留学生派遣を建議します。

安政四年(1857)3月4日
第二次の長崎海軍伝習所伝習生が到着します。
永井は第一期生105名と共に、観光丸で江戸へ向かいます。
※松本良順は、第二期生を集めていた永井に頼んで伝習生附御用医として長崎へ行きます。

3月26日 観光丸、江戸品川港へ入港。
4月4日
築地の講武所内に軍艦教授所設立することになり、永井は総督となります。
※伝習所の生徒だった榎本武揚が、教授として赴任してきます。
7月 軍艦教授所の練習が始まります。
8月4日
江戸幕府がオランダに発注した木造軍艦 咸臨丸が長崎に到着。
8月5日
ファビウスから製鉄所建設の任務の命を受けた機関将校H・ハルデス率いる配下が長崎に上陸。
10月10日
浦上村淵字飽ノ浦に長崎鎔鉄所の建設着工。
12月3日
永井は勘定奉行と同時に長崎御用江戸取扱となります。
12月29日
開国の必要性が自分で分かっていながら、世間の攘夷思想は高まるばかりです。
永井は川路聖謨と一緒に水戸藩邸の徳川斉昭に相談に行きます。
攘夷派の斉昭は激昂して、「(開国派の)堀田と岩瀬は切腹、ハリスは打ち首にせよ」と言ったそうです。
※堀田正睦
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安政五年(1858) 7月29日
永井、勘定奉行を罷免され、
井上清直、岩瀬、水野忠徳、堀織部正らと共に、初代外国奉行に任命されます。
8月23日 米国条約為取替御用

安政六年(1859)2月25日
軍艦奉行に任命されます。
8月27日
安政の大獄で、一橋派だった永井は免職され、家禄没収、隠居差控という重い処分を受けます。

万延元年(1860)1月18日
日米修好通商条約の批准書交換の為遣米使節が派遣されます。
その護衛及び海軍伝習の技術の実習を兼ねて、勝海舟らが咸臨丸で同行しました。
※遣米使節は最初、永井、岩瀬、水野の予定でした。
安政の大獄で三人が左遷・処罰された為、新見正興、村垣範正らが任命されました。
3月3日
桜田門外の変。大老井伊直弼が暗殺されます。

文久元年(1861)
3月25日 長崎鎔鉄所落成(のち製鉄所と改称。三菱長崎造船所の前身)

文久二年(1862)
7月5日 御軍艦操練所御用に。
8月7日 京都町奉行に任命。
9月13日
京都に着任します。
開国派の永井ですが、実際京都に赴任して現状を目の当たりにし、朝廷の攘夷の命を受けない訳にはいかないと感じます。
※永井は京に滞在中、慶応3年4月まで壬生の医師大村宅を宿舎にしていました。
12月24日 京都守護職松平容保を三条大橋で迎えます。

文久三年(1863)8月1日
実子、勤之助が19才で急逝します。
8月18日 禁門の変。 幕府側の使者として朝廷と交渉。

元治元年(1864)2月9日
八月の政変の功績により、大目付に任命されます。
永井は在京の尊攘派志士に強硬姿勢で臨みました。命を狙われることもあり、新選組の近藤自ら永井の従者に武芸を指南したそうです。
6月5日
池田屋騒動。
この直後、尊攘派志士が新選組に仕返しに来るかもしれないと考え、永井は江戸への帰路にあった講武所の剣・槍術方を京へ呼び戻しています。
7月下旬
武力上洛を謀る長州藩兵と折衝。長州へ向かいます。
11月16日
征討総督尾張藩主慶勝と共に長州藩士吉川経幹を尋問。
禁門の変の長州藩主の責任を追及します。
その結果、長州は三人の家老と十数名の家臣を処罰し、三家老の首級とともに恭順の意を示しました。
永井は首を確認後、藩主に謹慎をさせて征長軍による討伐までは行わないこととなりました。

元治二年(1865)1月11日
長州への処罰が寛大過ぎたとして、大目付から寄合に落とされてしまいます。

慶応元年(1865)10月4日 大目付再任
10月27日 外国奉行、長州御用掛
11月7日
永井は長州訊問使として大坂を出立。新選組の近藤以下数名も護衛の為に同行します。
※新選組から願い出たと言う説もあります。
※近藤はこの任務に先立ち、故郷に『もし自分が死んだら新選組は土方に。天然理心流は沖田に託す』と手紙を書き送っています。
幕府を憎む相手の陣地へ幕府の人間が行くのは、本当に命懸けのことでした。
※赤禰武人らも同道しました。
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11月16日 広島へ到着。
11月20日 国泰寺で長州藩士宍戸備後介と会談。
長州は勿論、長州に味方する周辺の国の態度は頑なで、長州隣国の岩国に入ることも出来ず
12月17日に広島出立。五日後に京都に戻っています。

慶応三年(1867)2月30日
若年寄に就任。
※旗本から若年寄(旗本の最高位)まで昇進するのは異例です。
9月20日
永井は近藤を後藤象二郎に引き合わせます。
10月14日 大政奉還
※この頃永井は坂本龍馬と何度か会い、意気投合したという話があります。新選組と見廻組に、坂本を殺さないようにと命じていたそうです。
10月18日
近藤、高台寺党に狙撃され重傷を負います。
すぐに慶喜の見舞いと御典医松本良順がやって来て近藤はとても感動したと言われますが、この見舞いは永井が慶喜の名を使い独断でしたこと、との説もあります。
11月15日 坂本龍馬暗殺事件
11月26日
土佐からの申し入れで、新選組の嫌疑を調べるため近藤を呼び事情を聞きます。
12月14日 護衛の新選組を伴って大坂へ。
※新選組は自分の部下でもないのにどこへも常に付き従い、よく自分を守ってくれた、と後に語っています。

慶応四年(1868)1月3~6日
鳥羽伏見の戦い
慶喜が密かに江戸へ去った後、永井は大阪城の混乱を収拾し城を尾張藩に預けます。
江戸へ逃げる際必要最低限の荷物しか持たなかったので、膨大な書物や蔵書を失いました。
※永井の功績が現代に余り伝わっていない(史料が少ない)一因と言われます。

2月
鳥羽伏見の責任を負わされ罷免されます。
近藤らが結成した甲陽鎮撫隊は永井自ら準備を整え、隊の名前をつけたという説もあります。
また、榎本は会津を救援する為軍を脱走したいと永井に密使を遣わします。
8月19日
幕軍から脱走した榎本艦隊の回天艦に、永井は養子の岩之丞と共に乗り込みます。
※永井岩之丞尚忠の娘・夏子の孫は作家の三島由紀夫です。

新選組と合流し、箱館上陸後は箱館奉行に就任します。
※箱館に来た人の中には、長崎海軍伝習所や築地軍艦操練所関係者が多く含まれていました。
・榎本武揚(長崎海軍伝習所二期生)
・沢太郎左衛門(長崎海軍伝習所三期生)
・中島三郎助(長崎海軍伝習所一期生)
・甲賀源吾(長崎海軍伝習所一期生の矢田掘景蔵の教え子)
・荒井郁之助(築地軍艦操練所教授)
・松岡磐吉(長崎海軍伝習所二期生)
などです。海戦もあり、当然同窓生同士で敵と味方に別れ戦うこともありました。
軍艦『蟠竜』の艦長は松岡で、同じく二期生の中牟田倉之助が艦長の新政府軍の軍艦『朝陽』と戦い、朝陽を沈没させています。
因みに朝陽は、安政五年にオランダから長崎海軍伝習所に贈呈された練習艦です。当然松岡も幾度と無く乗艦したことと思われます。

明治二年(1869)5月1日
新選組と弁天台場に篭城。
※この台場を設計したのが武田斐三郎です。
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5月11日
孤立した弁天台場を救うべく向かった土方歳三が、銃弾を受けて死亡します。
5月13日
新政府軍参謀 薩摩の黒田清隆が箱館病院長の高松凌雲の仲介で榎本に降伏を勧告します。
※榎本は応じませんでしたが、自身が翻訳した『万国海律全書』(海事に関する国際法と外交についての本)を黒田に託します。
5月15日
兵糧が尽きた弁天台場は、永井以下240名が降伏しました。
5月18日 五稜郭の榎本らも無条件降伏。約千名。
永井らは東京兵部省へ護送され、獄舎に入れられます。

明治四年(1871)1月6日 放免。
※彼らが無事放免されたのは、黒田の骨折りがあったからだと言われます。
黒田は彼らの助命嘆願の為箱館戦争中から画策し、榎本に厳罰を望む人と対立の末丸坊主になっての抵抗もしたそうです。

明治五年(1872)1月12日 開拓使御用掛に。
1月19日 左院小議官に任命されます。
4月15日 正六位に叙せられます。
10月8日 三等議官に。

明治八年(1875)7月12日
元老院権大書記官に任じられます。

明治九年(1876)10月
退官し、向島の屋敷岐雲園にて余生を過ごし、岐雲園居士と称しました。
※岐雲園は、文久元年7月に病没した盟友岩瀬忠震の別荘。白鬚神社に岩瀬の墓碑を建て、朝夕その霊を弔っていたと言います。

明治二十四年7月1日
多くの漢詩を残し病没。享年七十六歳。

       ●

外国と日本の力量差を知っており、開国すべきだと分かっていながら、血気に逸る攘夷派を前に、幕府を守る為には攘夷を行わなければならないと知った京都での日々。
結局はその攘夷派が外国の力を借りて強化した軍隊に追われ、箱館戦争まで戦い抜きます。
当時蝦夷地は見ず知らずの外国に等しく、そんな所まで行きたくないと脱走する旧幕府軍の兵も多かったようです。
永井はいずれ幕府軍が敗れると悟っていた節があります。それでも幕府に最後まで忠誠を尽くして戦いました。
いよいよ降伏が決まった時切腹しようとして、周囲に止められています。
そこまで忠義に篤い永井が、幕府を倒した明治政府に仕えたのは何故か、と人に問われて、永井は
「ある人(黒田清隆)への義理だ」と答えたそうです。


参考
「勝海舟全集」
「三島由紀夫の生涯」安藤武
「海国日本の夜明け」フォス美弥子
「長崎製鉄所」楠本寿一
「函館市史通説編」
「幕末動乱の記録-「史談会」速記録-」八木昇
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
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2009.01.30 Fri
堀田正睦(ほった まさよし)
幕末の老中、堀田さん。
「国運を振張する道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」という開国派でした。

老中首座になりながらも実権は無く、出番が来たと思えば外国と国内の間で板挟み。
通商条約の交渉は失敗し、遂には失脚した無能な指導者
とも言われる堀田さんですが、果たして本当にそうだったのでしょうか。

   ●

文化七年(1810)8月1日
下総佐倉藩 第3代藩主・堀田正時の次男として生まれます。
初名は正篤(まさひろ)。通称 左源次。のち備中守(びっちゅうのかみ)を称し、諡号は見山。
※堀田家は譜代中の名門のひとつ。

文化八年(1811)
父が亡くなり、藩主を父の兄の子どもである堀田正愛が継ぎます。
正睦はその養子となります。

文政八年(1825)
正愛が病死し、若年寄を務めていた堀田一族の長老・堀田正敦(近江堅田藩主)がその後見を務めます。
老臣・金井右膳らは正敦の子を藩主に擁立しようとしますが、当の正敦が断り、正睦が16歳で下総佐倉藩11万石の第5代藩主となります。

文政十二年(1829)
奏者番(そうじゃばん)となります。

天保四年(1833)
佐倉藩三大改革の一つといわれる天保の改革を始めます。
子育てを奨励。間引の禁止で農村人口の回復を図り、社倉の建造、勧農掛設置などの農村対策を行いました。

天保五年(1834)
寺社奉行となります。

天保七年(1836)
反対派の重臣を排除し、藩士の生活保護、学制改革を実施します。
藩校温故堂を拡充、成徳書院を設置し、儒学・書学・数学・武芸を奨励。
特に藩士教育を重視し、蘭学を奨励。西洋砲術を採用します。
蘭法医佐藤泰然を招聘して藩校と病院をかねた順天堂を開かせました。(後の順天堂大学)
※佐藤泰然は松本良順のお父さんです。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるほど蘭学が栄え、
正睦は「蘭癖(らんぺき)」「西洋かぶれ」と揶揄もされました。

天保八年(1837)
大坂城代になります。
更に7月、西ノ丸老中となります。

天保十二年(1841)3月
本丸老中となります。

天保十四年(1843)
自分が第11代将軍・徳川家斉の側近であることを理由に老中を辞任します。

安政二年(1855)10月
阿部正弘が、攘夷派を重んじたことで孤立してしまい、緩和策として開国派の正睦を老中に推挙。
正睦は阿部に代わって勝手入用掛となります。

安政三年(1856)
阿部から老中首座を譲られ、外国掛老中を兼ねます。
※この時まで正篤と名乗っていましたが、11月に家定と結婚した篤姫の名を憚り、正篤→正睦に改名します。

安政四年(1857)6月
阿部正弘が死去。正睦が最高責任者となり、
阿部から老中を罷免された松平忠固を老中に復帰させます。
10月
下田にいるアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ました。
正睦は閣議を統一し、幕府としてハリスの出府を許可する決定を下します。
10月19日
正睦はハリスと面会し、国書の写しとそのオランダ語訳を受け取ります。
10月21日
ハリスは江戸城に登城して国書を奉呈しました。
10月26日
再度ハリスが訪れ、正睦、川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震(ただなり)、永井尚志、水野忠徳らに対して延々6時間開国の必要性を演説します。
※ハリスの英語をヒュースケンがオランダ語に訳し、それを幕府オランダ語通事の森山多吉郎と名村常之介が日本語に訳しました。
11月25日
ハリスは来訪した井上清直に脅迫まがいに回答を督促します。
12月2日
正睦自身が直接ハリスに会い、交渉に入ることを告げました。
井上の他に、当時目付の地位にいた岩瀬忠震を新たに全権に任命して交渉に当たらせることにします。
12月4日
交渉が始まります。形式は、ハリスの用意した一方的に米国に有利な条約案の文言に対して岩瀬忠震が質問し、これにハリスが答えるという形で行われました。
岩瀬と井上は、条約案を丸飲みにせず、粘り強く交渉を進めました。
ハリスと、岩瀬・井上の交渉は合計14回に及びました。
12月15日
正睦は台命(たいめい=将軍の命令)を発しました。要約すると、
「今時鎖国していても埒が明かない。開国しようと思うが、納得しない人もいるだろうし、今が大事なときだから意見がある人はすぐに言いなさい」。
鎖国廃止と言い切りたいのは山々ですが、そこまで強固な態度に出られるほど幕府の権威は無く、国内の意見は分かれていました。
・幕府だけが貿易の利潤を独占するのはおかしい。
・外国人に開国するなど信じられない。
(攘夷思想の他、切支丹は魔法を使うから、という意見も)
・条約に調印しないなら武力行使に出ると不条理に脅されておいて、和議で解決するのは臆病ではないか。
などの反対意見が集まり、賛成は松平慶永や島津斉彬などごく一部だけでした。

12月25日
日米修好通商条約案が完成します。

水戸家が京都の公家達を扇動し攘夷論を盛り上げようとします。このままでは条約が結べなくなってしまうので、一刻も早く朝廷に許可を貰いに行かなくては、と林大学頭らを派遣。
しかし、「国の一大事に小吏を遣わして勅許を求めるなんて、朝廷を軽んじている」と天皇に怒られてしまいます。

安政五年(1858)2月
正睦が直々に、川路聖謨や岩瀬忠震を伴って上洛します。
2月9日
参内して日米通商条約草案を提出。
将軍家定より孝明天皇宛に黄金50枚を奉呈。
実質朝廷の意志を決定していた五摂家も、今の情勢では通商条約調印は已む無しと考えていました。通常なら勅許がすんなり降りるはずでした。
しかし、孝明天皇自らが条約への反対意見を述べます。
※孝明天皇は有名な外国人嫌いでした。因みにこのとき28歳。

九条関白がこれを黙殺し勅許を下そうとしますが、天皇は直接下級公家と結びつき、反対運動を展開。
2月23日
結局、「御三家以下の諸侯の意見を得てから改めて勅許を請え」との勅諚が出ます。
御三家の一つ、水戸家が開国に反対している為勅許を貰って黙らそうと考えたことが裏目に出てしまいました。
正睦は交渉を続け、九条関白らを動かして、外交は幕府に一任する旨を上奏します。
川路聖謨も人脈を生かして裏工作を始めます。僅か二十日ほどの間に数万両の賄賂を使ったとも伝わります。
※昔から朝廷は慢性的に財政に窮乏しており、朝廷工作には金が必需品でした。孝明天皇はこれを嫌い、九条関白に手紙を出しています。
「備中守(堀田正睦)の今回の献上金だが、前も言ったように、如何に大金であってもそれに眼がくらんでは天下の災害の基である。人の欲とは兎角金に惑うものである。迷いも事によってはその場限りですむが、今回の場合、心に迷いがあっては騒動になるであろう。 」
3月11日
正睦の画策による上奏を孝明天皇も認めます。
3月12日
88名の下級公家が、条約反対のデモ行進の末参内。幕府外交委任の勅諚案改訂を建言しました。
※この88名の下級公家には岩倉具視、中山忠能らがいます。開国=弱腰と考える攘夷派公家です。

安政五年(1858)3月20日
一度は「外交は幕府に一任する」として上手く行きそうになったものの、この公家らの反対を朝廷は受け入れてしまいます。
正睦に、条約勅許は諸大名の意見を聞いてから再願するようと再度指示します。
正睦たちは、勅許を諦めて江戸へ戻るしかありませんでした。

ところでこの頃、元々体の弱かった第13代将軍・家定の病状が悪化し、跡目争いが勃発していました。家格では水戸家の一橋慶喜。(22歳)血筋では実の従兄弟の紀伊慶福(よしとみ)(13歳)。一橋派と南紀派の争いです。
諸侯の支持で将軍になっても、独裁はできず意味が無いと、慶喜本人はこの時期、何度も後嗣辞退を幕閣に申し出ています。
将軍家定は慶福を我が子のようで可愛いと跡継ぎに推していたようです。
本人たちの意向をよそに、争いは激化。一橋派は詔勅を得て慶喜を将軍にしようとして、失敗します。

正睦も紀伊藩主の徳川慶福を推していましたが、条約の勅許を得られなかったことで考えを変えたようです。
朝廷が頼りにしている攘夷派の水戸家の慶喜を将軍にし、一橋派の松平慶永を大老にすれば朝廷も軟化し、勅許が得られるのではないかと考えます。
4月20日
正睦、江戸へ帰着します。
4月22日
登場して、家定に「松平慶永を大老にしましょう」と進言します。しかし家定は、「大老になるのは、井伊家に決まっている」と回答。
既に南紀派の政治工作が完了した後でした。
4月23日
彦根藩主・井伊直弼が大老に就任します。井伊直弼は徹底した血統主義者です。その結果、将軍後嗣は慶福に決まったも同然。
5月1日
将軍継嗣を徳川慶福にする旨を家定が老中たちに申し渡します。
6月19日
井伊は勅許がとれないままに、日米通商条約調印を断行します。
6月22日
勅許を得ずに条約を調印した責任者という形で、正睦と松平忠固は老中職を罷免されます。
※罷免された本当の理由は、正睦が紀州派から一橋派に寝返り、松平慶永らと交際した為井伊に嫌われたとも
井伊は条約を断行した責任者として一時的にスケープゴートに利用しただけで、時機を見ての正睦を再登用するつもりだったとも言われます。

6月25日
慶福が家定の正式な養子になると公式発表。
一橋派の大名が謹慎・登城停止処分となります。正睦も例外ではありませんでした。
7月6日
家定が病没します。
7月10日~18日
安政の五カ国条約が結ばれました。
10月25日
慶福が十四代将軍となり、家茂と名を改めます。

安政六年(1859)
正睦は家督を四男の堀田正倫に譲って隠居します。
※正倫は父の遺志を受け継ぎ、幕府存続に尽くしました。

安政七年(1860)
藩主の後見として財政・軍制を改革を進めます。

文久二年(1862)
桜田門外の変で井伊が亡くなります。
安政の大獄では他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受けた中で、正睦は不問に付されていました。
その為井伊と結託していたと憶測されたこともあり、正睦は謹慎処分となります。
老中在職中の外交取扱不行届の廉(かど)で、佐倉城内松山御殿での蟄居することになります。

元治元年(1864)3月21日
亡くなります。享年55歳。
戒名は文明院見山静心誓恵大居士
お墓は千葉県佐倉市新町の甚大寺にあります。


参考
「明治維新人名辞典」
「幕末新詳解事典」脇坂昌宏
「日本全史」
「幕末維新」
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2009.01.23 Fri
村垣 範正(むらがき のりまさ)

さて11回は、第二期外国奉行筆頭とも言われる村垣範正さんです。
幕末の旗本で、今で言う外交官的なことをしていました。
安政元年(1854)1月1日~慶応元年(1865)5月26日の間
「村垣淡路守公務日記」(別名「遣米使節日記」)を含めて、26冊もの公務日記を書いています。
公的な日誌の他に更に二冊の日記を書いている時期もあったり、かなりの筆まめさんです。
和歌も多く残っています。

蝦夷地にはアイヌの人も住んでいましたし、外国船も来ました。
何分遠いので幕府からの命令が中々来なくて振り回されることもありました。
そんな中で箱館奉行と外国奉行を務めた一人です。
武田斐三郎さんの上司ですね。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

では詳細お付き合い下さる方は以下どうぞ☆


文化十年(1813)9月24日
江戸の築地で、旗本村垣範行の次男として生まれます。
渾名は初め範忠。後に範正。通称は与三郎。
村垣家は先祖代々御庭番を務めて来ました。(範正で五代目。)
※庭番
表向きは文字通り江戸城などのお庭の警備をしていたので「庭番」。
御庭番家筋は幕末まで22家が続きました。

天保二年(1831)
新規召出で小十人格庭番となります。
遠国御用や目安箱への投書内容の調査にあたりました。
時には変装したり潜入捜査をしたり、命懸けの任務も多々あったようです。
蝦夷地にも鋳物師として潜入したことがあり、「鋳物師(いもじ)奉行」と呼ばれていたそうです。

安政元年(1854)
弘化二年の細工頭、嘉永三年の賄頭を経て、
勘定吟味役に抜擢されます。
海岸防禦筋御用取扱ならびに松前及蝦夷地御用掛を命ぜられます。

3月~10月
堀利煕と共に蝦夷地・樺太巡視を行い、日露国境を確認。
※「道の枝折」というタイトルで日記が残っています。

10月~12月
下田にロシアのプチャーチン艦隊が再来したので、筒井政憲・川路聖謨らと共に露使応接掛となり伊豆下田に出張します。
※「下田紀行」というタイトルで日記が残っています。

安政二年(1855)1月
箱館表御用に。

3月
箱館港開港。

5月
内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用。
更に東海道筋川々普請掛と次第に重用されます。

安政三年(1856)3月~4月
東海道主要河川巡察。

5月
箱館港の近くに奉行所と役宅があり、一撃で政治機能が停止してしまうこと、
外国人に五里四方の遊歩を認めた為全てが一望されてしまう危険性を
老中阿部正弘に訴え、役宅の新設、五稜郭と弁天台場の構築を申請します。

7月28日
箱館奉行に任命されます。
※「千しまの枝折」というタイトルで日記が残っています。
※箱館奉行は2人で、江戸と箱館とに交互に在勤していました。
更に1名を増員して、それぞれ江戸在勤、箱館在勤、蝦夷地巡回の任務につくことになりました。

9月
従五位下淡路守に叙されます。諸太夫に任じられ、200俵に加増。

10月
箱館に着任し、先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。

安政四年(1857)
貿易事務官ライスが箱館に駐在。
彼との交渉記録も相当量公務日記に書き記してあります。
範正は奉行所で酒や料理、茶菓子で持て成しつつ議論を重ねたようです。

西蝦夷地(今の石狩や余市、小樽などの方)見回りに出掛けます。
「村垣氏西蝦夷地巡行図巻」として絵図が作られました。
鳥瞰図的手法で簡潔に的確に描かれています。
※倉庫や茅葺きの家や、アイヌのプー(倉庫)など細々描かれ、絵師の腕と範正の観察眼が見て取れます。

安政五年(1858)
4月15日
竹内保徳が箱館奉行に着任します。
範正は蝦夷・北蝦夷を巡見に出発。

6月19日
日米修好通商条約が締結されます。

9月21日
江戸に帰着。

10月9日
安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行を兼帯します。

10月11日
目付津田正路(近江守)が任命され、箱館奉行は4人となります。
(掘利熙と範正が外国奉行兼任で忙しかった為)

11月27日
外国奉行所が江戸城内に新設され、仮役所より移転。

安政六年(1859)4月
外国・箱館・神奈川・勘定四奉行を同時に兼帯。
神奈川開港地決定のための応接に関わりました。

6月2日
修好通商条約による開港
箱館港に貿易船第1号として米国商船モーレー号が入港。条約違反が相次ぎました。

9月13日
日米通商条約批准交換の遣米使節副使に選ばれます。
※手当金は十ヶ月分で二千両だったそうです。

万延元年(1860)1月18日
正使新見正興、目付小栗忠順と共に品川を出発。
ペリー艦隊のポーハタン号(USS Powhatan)に乗船しました。
咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守、艦長として勝海舟など乗り込み、太平洋航路で出港します。
ニューヨークに到着し、
「ここは北緯40度余なのに、大都会のせいか我が箱館より暖かく覚える」
「ニューヨーク商業会議所の委員が使節団を訪れ、日本との交易をさらに拡大したいと要望。
自分は商売のことは知らないので、ほどほど答えておいた」
と日記に書き残しています。
途中ハワイに寄り、
3月9日 サンフランシスコに到着。

閏3月28日
大統領に謁見します。
日本古来の装束で威風堂々と振舞った使節団にアメリカ人は感激したらしく
現地新聞はその模様を大々的に報じました。
批准書の交換に先立ち、大統領や国務長官へ贈呈する品々をホテルでお披露目します。
太刀二振、鞍鐙、錦幔幕、蒔絵、硯箱、掛軸、翠簾屏風、大和錦巻物、丸火鉢などなど。
「三・四日そのまま飾り、たくさんの人が珍しがって見物しに来た。
新聞紙屋も来て写真に撮り、新聞に載せた」そうです。

閏3月29日
使節団は各国の大使に会ったりスケジュールは過密だったようです。
21時、国務長官キャス(L. Cass)宅のパーティーに招かれます。
ガス燈に照らされて昼間のように明るい室内で、男女混じっての立食パーティ。
別の部屋では数百人が夜通しダンスをしています。
ガス燈は兎も角、人前で男女が体を寄せ合ったり
立ったまま食事をとるのは、当時の日本人からすればさぞかし下品で卑猥に見えたことでしょう。
実際範正も、
「自分には夢か現か分からない。ただあきれてしまう。
案内役の高官デュホントに言い、主に暇を告げて客舎に帰る。
礼儀のない国だけれど、外国の使節を宰相が招いているのだし不礼と咎めればきりがない。
礼や義ではなく、親交の表現なのだと思っておこう」
と、最後にこんな和歌まで詠んでいます。
「何事も 姿こと葉の ことなれば 夢路をたどる 心地こそすれ」

万延元年4月3日
ワシントンの国務省において、使節団正使の新見正興(豊前守)と国務長官のキャスとの間で批准書を交換。
※二人のほか、副使である範正と小栗忠順による署名がなされています。

ブキャナン大統領と会見。
帰路はナイアガラ号にて大西洋航路をとり、南アフリカ・インドを経由。

9月27日
江戸へ到着。使命を全うし、その功により300石加増され500石取に。
箱館に戻り、引き続き外国・箱館兼任奉行として在任します。

11月20日
プロシアとの条約交渉を行っていた堀が切腹してしまいます。
翌日から彼に代わって範正が日普(プロシア)通商条約交渉の全権となり、樺太国境問題の交渉、調印に臨みました。

文久元年(1861)
ロシア軍艦対馬占領事件
ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠します。
範正は箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めました。
また箱館港の砲台建設も促進しました。
蝦夷地巡見にも向かいます。
※「辛酉紀行」というタイトルで日記が残っています。

文久二年(1862)
外国奉行専任となります。

文久3年(1863)6月
作事奉行に転じます。 ※閑職です。

翌元治元年(1864)8月
西の丸留守居、若年寄支配寄合となり、一線から退きました。

明治元年(1868)
病のためと称して隠居、淡叟と号します。
明治維新後は官途に就きませんでした。

明治13年(1880)3月15日
東京にて没します。享年68歳。


範正さんのことを、賢くて仕事の出来る人、と言った人もいれば、
ちょっと経験があるだけで奉行の器ではない、と言った人もいます。
司馬遼太郎氏も『明治という国家』で、「封建的ボンクラ」と書いているそうです。(←まだ読んでません)
司馬先生に関しては、あの人は倒幕派についてはべた褒めするけど
佐幕派については大嫌いで貶してばかりの人ですからねぇ…。
史実とは掛け離れた内容がかなり多いのは小説だからいいんですが
(司馬先生の作品は私も好きです。)
司馬先生の小説を全て史実だと思っている読者が多いのは嘆かわしいです。

範正さんは
西洋文化=進んでる・カッコイイ より、下品、俗物という感想を持っていたようです。
それが、知識が無いとか遅れてると見る人は見たのでしょうね。
でもその分、媚びや気後れが無く、日本という国に誇りがあったように見受けられます。
国や家柄に誇りを持っていたからこそ、仕事をきっちりこなし
明治維新後の新政府に仕えるのはプライドが許さず、病気と偽って隠居してしまったのではないでしょうか。

箱館に着任した時詠んだ
「ふり積る 雪の光にてりまさる 箱館山の 冬の夜の月」
サンフランシスコに入港したときの
「古郷(ふるさと)に かはらぬ影をあふぐかな カリホルニヤのはるの夜の月」
など多数の和歌が残っています。
(日記のタイトルもなんだか風流なので、分かる部分は記載してみました。)

自分は、米大統領に謁見したときに詠んだ、
日本の誇りに溢れ過ぎていて
余りに真っ直ぐ過ぎて笑いさえ誘ってしまいそうなこの和歌が好きです。

「えみしらも あおぎてぞ見よ 東なる 我が日本(ひのもと)の 国の光を」


参考
「箱館をめぐる人物史-19世紀人の光と影-」小林裕幸
「明治維新人名辞典」
「函館市史」
「箱館五稜郭物語」河合敦
「五稜郭」田原良信
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2009.01.16 Fri
市村鉄之助

折角第十回と区切りが良いので、自分が歴史に興味を持つきっかけをくれた新選組の隊士を紹介しようと思います。
十回ごとに紹介して、全員紹介…出来たらいいね。
というわけで、新選組隊士篇 第一回は市村鉄之助さんです。
『新選組!!土方歳三最後の一日』で池松壮亮さんが演じられていた、エンドテロップのバッグで駆け抜けていらした方、と言えば「あぁ」と思われる方もいらっしゃるかも。


安政元年(1854)
美濃大垣藩の蔵奉行を務めた市村半右衛門の三男として生まれます。
兄の鋠之助(しんのすけ。7歳年上だったとされています。)と、早世した次男庄太郎と三人兄弟でした。
市村家は、尼崎以来代々戸田藩主に仕えた由緒正しいお家柄です。

安政三年(1856)8月
大垣藩で軍政改革が始まります。

安政四年(1857)8月3日
父、半右衛門が鎗奉行に就任します。

安政五年(1858)5月20日
半右衛門が永暇になってしまいます。失態をしたのか新しい藩主に嫌われたのか、理由は定かではありません。
城下立ち入り禁止になり、国を追われて名古屋へ移り住みます。

万延元年(1860)
鉄砲鍛冶で有名な江州国友村(滋賀県長浜市)に移り住みます。
国友村は幕府をはじめ諸藩が鉄砲調達に出入りする有名な場所でした。

文久三年(1863)9月16日
半右衛門が亡くなります。

慶応三年(1867年)秋
兄の辰之助(鋠之助から金を取って、辰之助と名乗ったのではと言われています。とすれば、読み方はたつのすけではなくしんのすけだった可能性があります。)
と一緒に新選組に入隊します。
慶応元年頃から新選組も鉄砲を調達に来ており、隊士の親戚がいたのがきっかけになったと言われています。
辰之助は局長附人数(平隊士に準ずる見習い隊士)。
鉄之助は両長召抱人(身辺雑務をこなす小姓)に配属されます。
召抱人は鉄之助を含めて12名いたそうです。
新選組は幕府直参に取り立てられ、鉄之助は14歳にして幕臣となります。
父の汚名を雪いだような気持ちでいたことでしょう。

※※携帯でご覧頂いていて
お兄さんの辰之助さんの名前が表示されていない方
金辰(←一文字)で「しん」です。

慶応三年(1867年)12月9日
王政復古の大号令

12月16日
新選組は不動堂村屯所から伏見奉行所へ移ります。

慶応四年(1868)1月3日
鳥羽・伏見の戦い
旧幕府軍は薩長連合に敗北し、将軍を追って江戸に撤退します。

3月
新選組は甲陽鎮撫隊となり北上しますが、勝沼戦争で敗北。
五兵衛新田へ退きます。
※この時これに協力したのが、蘭方医の松本良順です。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...

辰之助が脱走して大垣へ帰ろうと持ちかけますが、鉄之助は断ります。
辰之助は隊を脱走します。
この報を、鉄砲傷を負って入院していた鉄之助は病院で土方から聞かされたようです。

4月
流山に転陣します。新選組局長、近藤勇が捕まります。
近藤は大久保大和を名乗っていましたが、近藤だとすぐに知られ、後に処刑されてしまいます。
残された新選組は会津へ向かいます。

土方は鉄之助を勝気で怜悧と評価し、寵愛しました。
兄の脱走にもめげず、悔しさと恥ずかしさに耐えて何事もなかったようにてきぱきと隊務をこなした鉄之助を認めていたのではないかと言われます。

宇都宮戦で負傷した土方が戦線復帰すると、仙台へ鉄之助、上田馬之丞、田村銀之助、玉置良蔵が先行を命じられました。
召抱人の12名のうち4名が脱落しており、その中で年少の4人が先に逃がされたのではないかと言われます。
会津、福島、仙台と転戦しますが敗北します。

10月21日
蝦夷へ。
土方に付き従い、松前城攻略に向かいます。

11月5日
松前城奪取。
江差まで松前藩兵を追撃。上田馬之丞が行方不明になってしまいます。
(戦死したのか捕虜にされたのかは定かではありません)

12月15日
五稜郭に凱旋します。
実質上蝦夷地を平定したことになり、祝賀会が行われました。
選挙が行われれ、土方は陸軍奉行並と箱館奉行並を兼務。
田村銀之助は榎本総裁附となり、就学のため箱館のフランス人教師館へ。
日時不明ですが、十五歳で玉置良蔵も病死(戦死説あり)しており、この時点で土方に仕えていたのは鉄之助のみでした。

明治二年(1869)4月6日
雪に阻まれて中断されていた新政府軍の攻撃が再開されます。
鉄之助は土方と共に最後まで戦うつもりでしたが、土方は鉄之助に脱出を命じます。
日野の佐藤家(土方の姉の嫁ぎ先)へ自分の形見を届け、ここまでどう戦って来たのかを伝えてくれと頼みました。
鉄之助は「私はここで討ち死にする覚悟です。誰か他の者にお命じ下さい」と断りましたが、「命令に従わないならば今討ち果たす」と諭されます。
五十両と、路銀に換える為の刀二振りと品物、持ち込む店への書状、「使いの者の身の上を頼む」という佐藤家への手紙と写真、髪数本と辞世の和歌を鉄之助は託され、鉄之助は蝦夷を抜け出します。
※この写真は現在一般的に伝わる洋装の土方で、上部には土方が歯形をつけて渡しました。

箱館湾に入っていた外国船が数日の内に横浜へ行くと言うので、土方が船長に金を渡し、鉄之助を乗せてもらえるよう話をつけてありました。
鉄之助は土方に見送られ、船に乗り込みます。

明治二年(1869)7月初旬
乞食同然の姿で佐藤家へ到着した鉄之助を見て、驚いた佐藤家の人たちは風呂を沸かして着替えを用意しました。
鉄之助は初めは涙で中々言葉にならなかったものの、土方の戦いぶりを報告しました。
姉ののぶは鉄之助の話を涙を流しながら聞き、届けられた和歌は愛用の裁縫箱に入れて大切にしていたそうです。
※彼女の死後、和歌の所在は不明になってしまいました。

明治三年(1870)
沢忠輔が土方・佐藤家を訪ねます。土方の愛刀の下げ緒を届け、戦死状況を語ったそうで、鉄之助も同席したようです。
佐藤家では土方の遺言通り鉄之助を匿って面倒を見、読み書きの手習いや剣術の稽古をさせたりしました。

明治四年(1871)3月
兄の辰之助から佐藤家に手紙が届きます。
辰之助は新選組を脱退した後無事に故郷へ戻り、梅津郡太田村で商人になっていました。
鉄之助は故郷の大垣に戻ることにします。
佐藤家では鉄之助が持参してきた五十両を両替したものに加え、五十円を餞別として渡し、日野横丁の吉野屋安西吉右衛門氏を付添わせ、帰国させました。
※佐藤家は、現在も東京都日野市に日野宿本陣として残されています。
鉄之助が居住した間、土方が泊まりに来た時に使った部屋、沖田が四股を踏んだと言われる式台など惜し気もなく公開されています。

明治5年(1872)2月7日
辰之助が亡くなります。

その後の鉄之助は、故郷で病死したという説
西南戦争で西郷隆盛の指揮下で田原坂にて戦死との説もあります。
後者の説の場合の補強としては、
元治元年の天狗党騒ぎの頃、西郷の命令で美濃に来ていた薩摩藩士の中に当時中村半次郎、改め桐野がおり、この時に辰之助との接触があったと考えられています。辰之助が亡くなる際、桐野を頼るよう言い残したのがきっかけだと言われます。

また、鉄之助は箱館で病死しており、日野に来たのは鉄之助ではないとする説もあります。
ただしこの説は原史料にあたっておらず、誤記された写本や市販本のみに頼った説で全く信憑性がありません。
小島鹿之助が、松前の話について中島登の覚書が市村から直接聞いた話に近く信用できるとして書き残した文書もあります。無名で賊軍の人間であった鉄之助を匿い面倒を見たことは、事実でなければ書き残す必要の無いことだと考えられます。

幼少時に父の栄華からの転落を目の当たりにし、苦しい日々を送った鉄之助。入隊した新選組で、直参から国賊への再びの転落を経験します。
そんな鉄之助少年が従った隊長土方の生き様を見て、再び政府に対して立ち上がり戦死を遂げたという説には頷ける部分があると、私は思います。


私見ついでに。
市村さんの名前を検索すると、所謂腐女子やヲタのサイトが多く結果で表示されます。
土方さんに寵愛されていたからと言って、勝手に美男子だったとか、土方とラブラブだったとか…
勝手に都合良く年齢設定を変えてある少女漫画と、それを史実と思っている人など、酷い有様です。
同じ女として恥ずかしいです。
新選組好きを名乗るのは止めてほしい。新選組だけでなく、歴史上の人物たちはみんな実際にいた人で、子孫の方々だっているんです。
勝手なキャラ付けをしてイメージを押し付けるのもアレですが、
コスプレしてお墓参りとか、天然理心流道場見学とか、失礼極まりないと思います。

史料は然程多くは残っていない市村さんですが、小説は一切参考にしないのは当然のこと、
(これ、意外とプロでも事実と混同して事実だとして報道しちゃうことが多いので皆さんテレビや本を読むときはお気をつけください!)
史料として残された日記や名簿を主に参考にして記載しましたので、そうしたものとは一線を画した、本当の市村さんを書いたつもりです。

14歳でいろんな経験をした市村さん。三ヶ月もかけて官軍に見つからないように日野まで辿り着くのは本当に大変だったことでしょう…。
私は埼玉の自宅から日野まで歩いて行くのも出来ない気がします。

日野宿本陣は気さくなおとうさんたちが案内をしてくれて、中々楽しいですよ。

ということで、いつもは極力入れない私見ですが、長くなりました。
良ければまた次回をお楽しみに。



参考
「聞きがき新選組」
「新選組銘々伝」
「戊辰役箱館脱走人名簿(写本)」
その他多数、及びインターネット、テレビ等
また、日野宿本陣にて拝見した史料、伺ったお話を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2009.01.09 Fri
岡田以蔵(おかだいぞう)

天保9年(1838年)
香美郡岩村に二十石六斗四升五合の郷士岡田義平の長男として生まれます。諱は宜振(よしふる)。

嘉永元年(1848年)
土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために、父義平が藩の足軽として徴募されます。
城下の七軒町に住み、以蔵が足軽の身分を継ぎます。
土佐藩では身分の別が厳しく、足軽は軽んじられていました。以蔵は七軒町の以蔵、略して七以と馬鹿にされ、剣術道場にも入れてもらえません。
以蔵は樫を切り出して手製で木刀を作り、二天一流を模して我流で剣を練習します。

安政元年(1854年)
18歳。武市半平太が小野派一刀流の道場を開きます。
かつて家同士が主従関係にあった為、なんとか入門させてもらえないかと以蔵が頼みに行きます。
我流ではありましたが、道場の者は以蔵に敵わないほどの腕前。武市は以蔵の入門を許可します。

11月4日
地震と津波で武市道場が半壊。
以蔵の七軒町の家も流され、父の実家の田所家へ一時避難します。

安政三年(1856年)7月
臨時御用剣道修行の為、武市が江戸へ行きます。以蔵も藩主山内豊信の参勤交代のお供で江戸へ。
ふたりは鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学びます。

安政五年(1858年)春
鏡心明智流中伝を許されます。
帰国して再び武市道場で修業します。

万延元年(1860年)7月
武市に従って長州、九州に撃剣修行へ行きます。
豊後岡藩にとどまり直指流剣術を学びます。
また、武市の友人で儒者の村上圭蔵に預けられました。

万延二年(1861年) 6月
武市、江戸へ行きます。

7月
武市、久坂玄瑞・桂小五郎・高杉晋作らと会います。

8月
武市が土佐勤王党有志血判誓約書を作ります。

文久二年(1862年)4月8日
土佐勤皇党の那須信吾らが、参政吉田東洋を暗殺。

4月中旬
以蔵が村上の下から土佐へ戻り、勤皇党に加盟します。
※後に名前だけ名簿から削られています。
暗殺役に使い捨てする為名前をはずしたのでは、という説もあります。

7月12日
山内豊範、上京途中に大阪で麻疹にかかり、随従していた以蔵らは大阪に足止めされます。

以蔵は、大阪に来ていた龍馬に肥前忠広二尺三寸を借ります。

8月2日
吉田東洋の弟子で土佐藩の下横目(刑事)の井上佐市郎が、東洋暗殺犯の下手人を追っていたのを邪魔に思った勤皇党は、以蔵の仲間で井上の同僚吉永良吉に井上を料亭「大与(大與・だいよ)」に誘わせます。
酔っているところを女でも買いに行こうと連れ出し、心斎橋で以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎で、井上を絞殺。
短刀で止めを刺し、遺体を道頓堀川へと投げ棄てます。

8月25日
山内豊範と武市・以蔵ら随従、上京します。

閏8月14日
以蔵、河上彦斎の友、堤松左右衛門と出会います。

閏8月19日
薩摩藩の暗殺役、田中新兵衛と出会います。

閏8月20日
武市らと同じ尊攘派の本間精一郎(越後出身)は、特定の藩に属さず浪人尊攘派をまとめていました。行動力もある論客で、周囲から嫉妬されます。
青蓮院宮と山内容堂との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間と後者を推す勤王党の間で対立が起きたとも、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたそうです。
武市は本間暗殺を決めます。
土砂降りの雨の中、本間は料亭から午後十時頃酔って出てたところを平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・広瀬健太・田辺豪次郎が襲撃。路地に逃げ込んだところを、新兵衛と以蔵で挟み殺害。身体は高瀬川へと投げ込み、首は四条河原に晒しました。
※この時以蔵は、龍馬から借りた刀の切っ先を折ってしまいます。

閏8月22日
関白九条尚忠の諸太夫であり、安政の大獄の際、島田左近と共に志士弾圧を行った宇郷玄蕃頭(うごう げんばのかみ)は、和宮降嫁推進にも関わっており尊攘派から命を狙われていました。
九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を岡田以蔵・岡本八之助・村田忠三郎及び肥後の堤松左衛門に急襲され子息共々殺害されます。宇郷の首は加茂川河岸に槍に刺し斬奸状と共に晒されました。

閏8月29日
猿の文吉(ましらのぶんきち。「目明し文吉」とも)は、安政の大獄時、島田左近の手先として多くの志士を摘発した岡っ引です。岡田以蔵・清岡治之介・阿部多司馬の3人は三条河原へ連行の上、絞殺しました。
文吉は島田の高利貸しの手伝いもしており、民衆からも嫌われていた為、裸にして河原晒された遺体には投石する者もあったそうです。
※高札に「いぬ」と書いた為、ここから「○○の手先」の蔑称としての「○○の犬」という表現が生まれたという説があります。
9月1日
武市を訪ねて刀代五両借ります。
9月17日
新兵衛、明朝帰国すると武市に告げます。
9月19日
以蔵は病気になり、木屋町の武市の家で静養します。
9月23日
京都町奉行所与力の渡辺金三郎・森孫六・大河原重蔵・上田助之丞は、安政の大獄で長野主膳・島田左近らと共に志士摘発を行っており、宇郷や文吉に対する天誅後、標的とされることを避けるために京都から江戸へと転任しようとしていました。
彼らが石部宿まで来た夜殺害し、奸状には憂国の志士を多数捕らえ、重罪に処したことに対する天誅であると書かれました。
この襲撃には土佐・長州・薩摩・久留米の4藩から複数の志士が参加していたとされ、武市によると以蔵は参加していなかったとされます。
しかし、以蔵に黙って立てられた暗殺計画を以蔵が察し、後から追いかけて勝手に参加したという話もあります。
10月9日
平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛は、共に商人ながらこの年5月の勅使・大原重徳東下の際に士分となり、収賄や横領などを行いました。
長州・土佐両藩の志士が団結して天誅を加えることにします。
土佐からは岡田以蔵・千屋寅之助・五十嵐幾之助らが、長州からは寺島忠三郎らが参加しました。
家族の助命嘆願があり、相手が町人であるので殺しはせず、加茂川河岸の木綿を晒す杭に裸にして縛り付け、生き晒しにします。
10月28日
姉小路公知が江戸へ到着します。武市・以蔵も随行します。
11月15日
長野主膳の妾・村山加寿江(可寿江または村山たかとの説も)の子で、金閣寺の寺侍の多田帯刀も、長野と共に安政の大獄において志士弾圧に加わったとして標的にされます。
前日夜、島原遊郭近くにある加寿江の家を襲撃。寝ていた加寿江を引き出して三条大橋の袂に生き晒しにし、大家を脅して連れてこさせた多田を蹴上刑場へ連行して殺害。首は粟田口に晒しました。

12月21日
武市・以蔵ら京へ到着します。

1863年(文久3年)1月中旬
以蔵、龍馬と共に大阪へ。
1月22日
京都の町人出身の儒学者、池内大学は、安政の大獄時に自首した為幕府の心証が良く、処刑を逃れ出獄しました。それが味方を売って自分だけ助かったとされ、暗殺対象となります。
山内容堂の招きを受けた帰りの駕籠を取り囲み、以蔵たちが暗殺。以蔵は池内の両耳を削ぎ、首は刎ねて難波橋に晒します。
耳は一つずつ京都の公武合体派の公卿に脅迫文と一緒に送りました。
1月29日
公家千種有文の家臣の賀川肇は、安政の大獄の折、島田左近らに協力して志士弾圧に加わった為に狙われました。
浪士が自宅に踏み込んできたとき賀川は二階へと逃げ込み隠れていましたが、丁度運悪く帰宅した幼い子どもが浪士たちに捕われ厳しい詰問を受けるのを見て自ら階下へ降り、斬首されました。

2月5日
龍馬の仲介で勝海舟に会います。
3月8日
以蔵は龍馬に言われて勝の身辺警護を務めました。夜3人の刺客に襲われたところを以蔵が切り伏せ、勝を守ります。
以蔵は勝からフランス製のリボルバーを贈られました。
勝は以蔵の腕を見込み、中浜万次郎(ジョン万次郎)の護衛につけます。
その際万次郎は自らの短銃を以蔵に託そうとしましたが、受け取らなかったとの伝承もあります。
万次郎が建てた西洋式の墓を参りに行った時、4人の暗殺者が万次郎を襲い、以蔵は伏兵が2人隠れていることを察知して、万次郎にむやみに逃げず墓石を背にして動かないように指示します。襲ってきた2人を切り捨てると、残った2人は逃亡しました。
8月18日
八月十八日の政変が起こり、この後、勤王党は失速することとなります。
武市が土佐に戻ると、以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏しました。
しかし冬頃、京都町奉行に捕縛されます。

1864年(元治元年)6月14日
本来なら藩士である以蔵。犯罪者とは言えそれなりの扱いを受けるはずですが、土佐藩は幕府の問い合わせに対し、以蔵を知らない男で当藩とは関係の無い男だと回答します。
その為入墨の刑を受け、(武士にはあるまじき屈辱の刑です)京を追放されます。
解放された場所に待っていたのは、なんと自分を藩士ではないとして裏切った土佐の藩吏でした。以蔵は捕われて土佐山田町の獄舎へ搬送されます。
それを知った武市は実家への手紙で
「あのような阿呆は早々と死んでくれれば良いのに」
と書きました。
土佐藩では反論が変わり、牛耳っていた武市の一派が追われることになります。
土佐勤王党の同志は捕らえられ、上士格の武市を除いて厳しい拷問を受けました。以蔵も例外ではありません。武市は、以蔵が自白するのではと恐れました。以蔵が自白すれば、数々の暗殺事件が明るみに出ます。武市は自分に心酔した牢役人を通じて以蔵に差し入れと見せかけて弁当に毒を盛ろうとしたそうです。
「土佐生まれではあるが無宿者の土井鉄蔵だと名乗り、以蔵であることを否定し続け、連日の過酷な拷問に耐え続けた以蔵ですが、武市にまで裏切られたことに気が付き激怒。
藩吏に洗い浚いをぶちまけます。
※以蔵は毒を盛られた食べ物を食べなかった、食べたが死ななかっただけで、単に拷問に屈服したとする説もあります。
※以蔵が他の同志より身分が低く教養が無い為の差別的感情、またその為彼がより酷い拷問を受けるのではと武市が判断したという説があります。
以蔵が手がけた数々の暗殺が露見する恐れ、彼が自殺すれば防げるのに以蔵自身がそうしないことへの怒りが、武市に毒を盛らせたとされます。

慶応元年(1865年)閏5月11日
以蔵は斬首の上雁切河原に晒し首となりました。
辞世の句は
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」。
墓所は高知県高知市薊野駅近郊の山中にある累代墓地。俗名・岡田宣振として埋葬されています。

以上の暗殺事件の中で、いくつかは以蔵は関わっていなかったとする説もあります。また逆に、暗殺が横行した文久2年~元治元年の間の数々の暗殺事件の中で、以蔵が関わっていたのはこれ以上とも言われます。

尊攘派の武市の下で、暗殺者として働く一方、尊敬する坂本龍馬の依頼で開国派の幕臣勝海舟や、中浜万次郎の護衛も行いました。
土佐勤皇党の面々には、裏切りともとられ、自分の無い人間だと軽蔑されていたようです。
以蔵は個人的な思想よりも、自分が信ずる人たちの信念を守る道を選びました。しかし最後は裏切られ、失意の中でこの世を去りました。

参考
「幕末維新暗殺秘史」
「幕末 剣心伝」
「武市瑞山関係文書」
「維新土佐勤王史」
「斬奸状」栗原隆一
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

●日本の誇り 目次
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...


以下私見
2004年の演劇集団キャラメルボックスの舞台「我が名は虹」は、以蔵が土井鉄蔵として京に潜伏していた頃の物語です。
勝らの護衛をする中で、向かってくる暗殺者に先日までの自分を見た鉄は、人を殺すこと、自分が死ぬことが怖くて仕方なくなり、剣を捨てて旅籠で釜焚きの仕事をしてひっそりと暮らします。
冷酷で人を殺すことが好きで仕方ない狂犬ではなく、人を信じ守ろうとする人間らしい以蔵を描いた数少ない物語だと思っています。
自分はこれを見て、岡田以蔵に興味を持ちました。
今とは時代も違い、暗殺=テロ、人殺しをは言い切れないと思います。
自分の信じる人が大切だと思う人を守り、邪魔だと思う人を斬った以蔵が、ただの血も涙も無い人斬りだとは自分には思えないのです。

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2009.01.02 Fri
保科 正之(ほしな まさゆき)

慶長16年(1611年)5月7日
第二代将軍 徳川秀忠の四男として生まれます。
幼名は幸松。幸松麿(ゆきまつまろ)、幸松丸。
母は側室のお静(お志津、のちの浄光院)。秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘です。
秀忠の正室お江与の方は、側室を持つことを許さなかった為、秀忠はお静の妊娠を知りお江与にばれないように
お静を武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預けます。
※秀忠側近の老中・土井利勝他数名しか知らない極秘事項でした。

元和3年(1617年)
武家の男子は、7歳から学問と武芸の稽古を始めなければなりません。
見性院は、信濃国高遠藩主の保科正光(甲斐武田氏の家臣・保科正直の長男)に正之を託します。
正之は、保科正光の養子となり養育されました。

元和9年(1623年)
7月27日、秀忠から息子の徳川家光(正之の異母兄)が第二代将軍になる。

寛永3年(1626年)9月15日
お江与の方が江戸城西の丸で死去します。享年54歳。

寛永6年(1629年)
お江与の方が亡くなったことで、18歳にして初めて父・秀忠と面会します。
しかしこれも周囲には極秘のうちに行われました。

寛永9年(1632年)1月
秀忠は家光に正之のことを告げないまま死去。

家光は、鷹狩りの途中に立ち寄った保科家の菩提をつとめるお寺の住職から自分に異母弟がいることを初めて聞き、早速対面。
弟の忠長とは不仲な家光でしたが、自分に忠実な7歳下の正之には絶大な信頼を寄せることとなります。

寛永8年(1631年)10月7日
正之の養父正光が享年71歳で亡くなります。
遺領を継ぎ、21歳で高遠藩3万石の藩主となり正四位下肥後守兼左近衛中将を拝受します。
以後、通称・肥後守と称されます。

寛永13年(1636年)
出羽(でわ)国山形藩20万石を拝領。
村山郡白岩領主酒井忠重に対して起きた白岩一揆の関係者を捕縛し、処刑します。

寛永20年(1643年)
3万石を加増され陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられます。
以後、会津松平家が幕末まで会津藩主を務めることとなります。
同時に幕領で南山(みなみやま)5万石余を私領同様の取扱いで預かりました。
三代将軍家光は、正之を実弟として可愛がり、幕政にも重く用いました。
正之は郷村仕置の法令を布達し、領内産物の他領流出の防止、市場の再興、特産物の蝋、漆の納入および買い方の決定などを正保年間(1644~48)までに確定します。

慶安1年(1648年
領内総検地を実施します。

慶安4年(1651年)4月
家光が病死します。
家光は亡くなる直前、枕元に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家(息子の家綱。11歳)を頼みおく」と言いました。
正之は家光の手を握り、「身命をなげうち、ご奉公致します」と言ったそうです。
正之はその後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画します。

慶安4年(1651年)4月~7月
次の将軍が11歳の幼君であることを知った由比正雪は幕府転覆、徳川将軍討取りの為に決起。
慶安事件(由比正雪の乱)を起こします。

慶安5年(1652年)9月13日
承応の変(戸次庄左衛門の乱)という老中討取り計画が起こります。

これらの事件を受けて、幕府は政策を見直し、浪人対策に力を入れる様になります。
末期養子の禁を緩和し、各藩のお家断絶を緩和させました。
各藩には浪人の採用を奨励します。
正之は幼将軍家綱の後見として幕政に参与し、それまでの武断政治から法律や学問によって世を治める文治政治へと移行し幕政を安定させました。

承応元年(1652年)11月
飲料水不足解消の為、多摩川から水を引く計画が始まります。

承応2年(1653年)
玉川上水、完成。

承応3年(1654年)6月
玉川上水から江戸市中への通水が開始されます。
農民に低利で米金を貸与する社倉法を実施。

明暦2年(1656年)
長女・媛姫(はるひめ)は上杉家に嫁しましたが、実母・於万の方が4女・摩須を殺そうと盛った毒を謝って飲んでしまい急死します。
於万の方は、側室の産んだ摩須が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先より大藩の前田家に嫁ぐのが許せず、暗殺しようとしたようです。
媛姫は上杉家菩提所である林泉寺に葬られ、正之は於万の方を遠ざけて後の上杉家の綱勝急死の際の末期養子に関して援助しています。
※この事件がきっかけで正之は女性不信に陥り、会津家訓十五箇条の第四条に婦人女子の言 一切聞くべからずと入っているのはそのせいだと考えられています。

明暦3年(1657年)1月18日
明暦の大火が起こります。
正之は焼け出された庶民を救済し、主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅。
火除け空き地として上野に広小路を設置。
芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させました。
また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張します。
そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはありませんでした。

万治元年(1658年)
定免制によって藩財政の収入を安定させるなど会津藩の藩体制を揺るぎないものとします。
殉死の禁止、領民の風俗匡正、人身売買の厳禁、孝子節婦の表彰、高齢者の養老扶持の支給なども行いました。
正之は朱子学と神道の信奉者で、朱子学は山崎闇斎(あんさい)に、神道は吉川惟足に学び、『輔養編』『玉山(ぎょくざん)講義附録』『二程治教(にていちきょう)録』『伊洛(いらく)三子伝心録』を編纂し、『会津神社誌』『会津風土記』なども残しています。
朱子学を元に身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めました。
※神儒一致を唱え熱烈な朱子学徒であったため、他の学問を弾圧した面もあります。
岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していた為藩政への積極的な参画を避けました。
加賀藩主・前田綱紀が朱子学以外の書物も収集していたことに苦言を呈していたこともあります。
また、儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したために赤穂藩に流されてしまいました。

会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とし、大名証人制度の廃止を政策として打ち出しました。

万治2年(1659年)
明暦の大火の際、橋が無いことで逃げられず10万人の死傷者を出したため、防備の面から隅田川には千住大橋のみにしていた橋を
両国にも架けることを決定。
(寛文元年(1661年)説あり)

寛文6年(1666年)
領内の寺社を整理して神仏習合を排斥。

一方藩政では、入部と同時に家臣の知行を俸禄制とし、城代、家老、奉行、加判制と月番制、軍役などの制度を改正整備します。
若松滞在は生涯3度のみでしたが、腹心の家老らが統治にあたります。
また朱子学を藩学として奨励。好学尚武の藩風を作り上げました。
また90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給します。
※日本の年金制度の始まりとされます。

寛文8年(1668年)4月11日
『会津家訓十五箇条』を定め、首席家老 田中正玄(まさはる)を江戸屋敷に呼んでこれを授けます。
※草案者は、諸説ありますが、保科正之と山崎闇斎が共同で作成したのではないかと考えられています。

第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。
以来、会津藩ではこれを藩是(はんぜ)とし様々な決断をしました。
※幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで官軍と戦いました。

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
  口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
  もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
  評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
  思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし 
  はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 
  歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若し志をうしない 
  遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
  すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

  右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
  寛文8年戊申4月11日

寛文9年(1669年)
嫡男正経に家督を譲り隠居します。

寛文12年(1672年)12月18日
江戸三田の藩邸で死去。享年63(満61歳没)。
生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学んでおり、神式で葬られ
没後は猪苗代の土津(はにつ)神社に祀られました。
また、その分霊が札幌市の琴似神社に祀られています。
墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にあります。
以後、第2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られています。

延宝3年(1675年)
墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られます。

正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められましたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通しました。
第3代・正容になって漸く松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列しました。
同時代の水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されています。

参考
「保科正之の一生」三戸岡 道夫
「保科正之」中村 彰彦
「幕末の会津藩」星 亮一
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2008.12.26 Fri
武田 斐三郎 (たけだ あやさぶろう)

文政10年9月15日(1827年11月4日)
伊予大洲藩(現在の愛媛県大洲市)下級藩士(御旗組小頭)武田敬忠の次男として、伊予国喜多郡中村に生まれました。
名は斐。通称は斐三郎で、後に成章と称しました。
兄は敬孝。(孝明天皇に仕えた人です。)
体が弱く子供時代はとても甘えたで、兄とよく比較されて馬鹿呼ばわりされていたようです。しかし手先が器用で、子供が3人ほど乗れる小船を自作し、大人たちを驚かせたこともあったそうです。

13歳のとき、父が亡くなります。
漢学を学び、語学に興味を覚えます。

18歳。大阪へ行き、緒方洪庵の適塾に入って蘭学を学びます。
当時の適塾は、国中から逸材が集まる蘭学塾として有名でした。語学だけではなく、西洋医学、西洋砲術、西洋兵学なども教えていました。
他に、大村益次郎や大鳥圭介、福沢諭吉らもここで学んでいました。門弟は三千人ほどいたそうです。
斐三郎は塾頭になるという優秀さでした。

その後江戸へ留学し、伊東玄朴に英語、佐久間象山に西洋兵学、箕作阮(みつくりげんぽ)に蘭学を習います。特に航海、築城、造兵の料目に励んだといいます。
優秀さを買われて幕臣に抜擢されます。

嘉永6年(1853年)
ロシア使節プチャーチンが長崎に来航して開国を要求したとき、箕作に従い長崎へ出張し、通訳の手伝いをしたようです。
米国水師提督ペリーが浦賀に来航した際の調査にも出向いたといいます。

翌年、正式に露使応接掛の勘定奉行兼海防掛の川路聖膜(かわじ としあきら)と筒井肥前守付属となり、露西亜船御用取扱を拝命します。

安政元年(1854年)3月
松前蝦夷地御用掛の目付堀 利煕(ほり としひろ)と勘定吟味役村垣範正の配下として蝦夷地出張。

5月5日
ペリーとの会談に出席し、名村五八郎の代わりに通訳をします。
※ペリーは斐三郎のことを、「オランダ語を書けるが殆ど話せない。しかし高貴の血筋を引く者だろう」と日誌に記しています。

堀と村垣と共に国後島探査に向かいます。

12月
堀と村垣が蝦夷地直轄、箱館詰を命じられ、箱館奉行に任じられた為付き従います。

安政2年(1855年)
機械、弾薬製造の任につき、亀田役所(五稜郭)、弁天岬砲台の築造及び
諸術調所(幕府に設置を許可された西洋科学を伝授する高等教育機関)設置を計画します。
また、商人小嶋又次郎の娘美那子と結婚しました。
※小嶋家は内潤町(現在の末広町)で雑貨酒類を販売する商家で、町名主もつとめていました。

安政3年(1856年)8月
諸術調所教授役となります。
また、斐三郎の私塾も付設されました。幕府の学校でありながら、幕臣に限らず門戸をひらいた為、全国から多数の入学希望者が殺到しました。
※江戸の官設学校は、幕士、藩士の区別が厳しいものでした、斐三郎は純粋な人材教育の為身分の公私貴賎に拘わらず学術の成績によって等級を分けました。

前島密や新島襄、山尾庸三、井上勝、蛯子末次郎、水野行敏、今井兼輔らも入学を希望して箱館へやってきました。
※新島は斐三郎が江戸に戻ったのと入れ違いになり、入学はできませんでした。

眼光が鋭く、雷先生と言われるほど厳しかったようです。
※幕府御雇い外国人のラファエル・パンペリーは、
「愛すべき性格で侍だった。誰かに腹が立ったときどうしたらよいかと訊くと『侍は無視するか刀を抜いて殺すかだ。それ以外のことをすれば相手の水準に自分を落とすことになる』と答え、私はその言葉を癇癪を抑える教訓として肝に命じた。後に支那で無傷で過ごせたのはこの言葉のお陰だ」と語っています。

弁天岬台場に備える大砲など、兵器を自家製造すべく、奉行所から反射炉の建設を命じられます。

安政4年(1857年)
五稜郭の建設が始まります。
台場も五稜郭も、蘭書を元に斐三郎が設計し、最新式で堅牢なものでした。
※弁天台場は五稜郭戦争時新選組の面々が政府軍を相手に立てこもりました。
明治29年函館港改良工事で取り壊す際、あまりの頑丈さに当時の技術でも苦労するほどでした。

高炉が完成しますが、火入れに失敗。

文久元年(1861年)
高炉を再度建設しましたが、鉄がうまく熔けませんでした。
生徒たちを連れて箱館丸に乗り込み、日本初の修学旅行に出かけます。
亀田丸を4ヵ月にわたり操船してロシアの黒竜江を遡行、航海測量をしながら露領ニコライスキーに行き交易を行ないました。

文久2年
蝦夷地南部の地質調査にラファエルらが派遣され、斐三郎が同行。
斐三郎は高炉を彼らに見てもらい、何故鉄がうまく熔けないのかを教えてもらい、改良します。
ラファエルたちは、彼が蘭語の本の小さな図(イラストのようなもので、設計に必要なものは何も書かれていませんでした)だけを見て作ったと聞き、
それだけでよくここまで(空気の送り方に欠陥があった以外は完璧でした)作れたものだと舌を巻きました。

文久3年(1863年)5月
妻の美那子が病の為27歳で亡くなります。

元治元年(1864年)3月
斐三郎は江戸へ戻ります。

7月
幕府の開成所教授並となります。

明治4年
兵部省に出仕、兵学寮・士官学校の教授、長官を務めるなど草創期に大きく貢献します。
累進して砲兵大佐となり、士官学校学科提理となり、従5位に叙せられました。

明治13年1月28日
病没。54歳でした。

※日本初のストーブを考案するなど他にも数々の業績のある斐三郎。
レリーフが、五稜郭内にあります。彼の知識と行動力に肖ろうと人々が顔の部分を触るので、その部分だけが人々の手で磨かれて光っています。

参考
「箱館五稜郭物語」河合敦
「北海道人名字彙」河野常吉
「函館人物誌」近江幸雄
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2008.12.19 Fri
木村銃太郎
二本松藩 砲術師範・木村貫治の長男。1845年生まれ。
背丈は約174cmで、当時ではかなり背が高く整った顔立ちをしていたそうです。
厳しくも優しく、笑うと笑窪が出たともいいます。
※二本松藩
現在の福島県二本松周辺。
安政5年11月~慶応3年 江戸湾富津海岸警備に当たる。
文久3年 藩主長国が京都警護の為上洛。
元治元年 天狗党騒動鎮圧に出兵。
藩財政は困窮を極めていた。
『死を賭して信義を守る事こそ、二本松武士の本懐である』が信条。
藩士の家庭では毎朝ご飯の前に母親より切腹の作法を箸で教えらたそうです。

慶応元年(1863年)
藩命を受け銃太郎は江戸へ向かいます。
西洋学問所『江川塾』で約4年間西洋流砲術を学びました。
※他に江川塾で学んだのは、福沢諭吉、榎本武揚、大鳥圭介などです。

慶応3年(1867年)
帰藩して、父・貫治の砲術道場で指導に当たります。
新式銃隊装備と洋式訓練の意見書を藩庁に提出しましたが、藩財政困難のため認められませんでした。
※当時は鉄砲=足軽が持つもの、武士の使うものではない
という戦国時代の感覚が主流だったので、財政を切り詰めてまで鉄砲を仕入れる必要性を感じていなかったのです。

藩から許可されたのは元服前の少年に教えること。
結果、門弟は13~14歳の少年が多くなりました。
22歳だった銃太郎は親しまれました。
銃太郎は個別に徹底的に基本を叩き込み、体の小さな少年たちでも取れる射撃の姿勢をえるなど、丁寧な指導をしました。
「若先生」「小先生」と尊敬されていたそうです。

10月13日
大政奉還

10月14日
岩倉具視らが薩長に倒幕の密勅を下し、会津・桑名藩は幕賊を助けたという理由で賊軍とされます。

12月9日
王政復古の大号令
会津藩主松平容保がつとめた京都守護職は廃止されます。

慶応4年(1868年)1月
鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れます。

2月
容保は帰国し謹慎。朝廷に20数回に渡り藩の嘆願書を提出しますが、容れられません。

3月
新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝は、仙台藩、米沢藩をはじめとする奥羽諸藩に会津藩の追討令を出します。
二本松藩は、なんの恨みもない会津と戦いたくはなく、かと言って総督の命令に反するわけにもいかず、微妙な立場でした。

3月22日
徳川慶喜の命で白河城に居城していた阿部正静から、二本松藩主丹羽が城を受け取ります。

慶応4年(1868年)4月5日
総督府参謀世良修蔵と大山格之助らが白河城に入ります。

閏4月11日
奥羽越24藩で白石城に集まって話し合い、『諸藩重臣副嘆願書』を添えて、会津藩の『謝罪嘆願書』を提出しますが、
翌12日 世良は列藩の誠意を疑い、総督府が却下するよう画策しました。
会津討伐に行かないのは怠慢であるとの指摘も受けてしまいます。

18日
20日に会津藩が白河城を襲撃するという知らせが入り、世良は城を焼き脱します。

19日
世良は、新庄に駐在する大山格之助参謀に宛てて、
「奥羽諸藩に会津討伐の意志はない。奥羽諸藩も敵であり討伐すべし」との密書を送っています。

30日
世良の態度に憤慨した仙台藩士姉歯武之進・赤坂幸太夫らが
福島・北町の旅館に泊まっていた世良を暗殺します。

5月1日
白河城が政府軍の手に落ちます。
参謀の板垣退助が土佐兵と共に入りました。

5月3日
仙台藩・米沢藩・秋田藩・盛岡藩・二本松藩などによる奥羽列藩同盟が結成されます。
さらに北越の長岡藩・新発田藩など7藩が加わり、ここに奥羽越32藩による奥羽越列藩同盟が成立。
政府軍に反旗を翻すことになります。
※新政府は薩長など2、3の藩が作ったもの。天皇を利用して自分たちが天下を取ろうとしているだけ。
薩長も徳川の恩恵を受けた大名なのに、手のひらを返して徳川を攻め立てるのはおかしい。
と言った考えを持つ者は多く、会津に同情的な藩は多かったのです。

二本松藩は当初日和見の立場をとっており、会議での発言権も主導権もなく、大勢を見極めることができませんでした。
藩の財政は逼迫しており、重臣たちは領内を走り回り御用金を命じて戦費を調達しました。
領民たちは戦に自分たちが借り出されることは無いと思い、金や武具を提供しました。

5月16日
白河口の戦いを皮切りに、海岸線の平潟から平、会津国境、北陸方面へと戦線は拡大します。
諸藩は戦術と兵器の差で敗退し、退却か降伏を余儀なくされました。

26日
東北諸藩が白河城奪回を試みますが成らず。

6月12日
白河城奪回、再度失敗。
数度に渡る白河城奪回作戦も実らず、逆に白河城に続き、棚倉城が落ちてしまいます。

7月
新政府軍は白河城を拠点に、会津藩の周りにある小藩から攻略していくという大村益二郎の方針に従って、軍を北上させました。
海路から攻められ、平潟、湯長谷、泉、平城が落ちます。
秋田藩が同盟を離脱。

12日
白河城奪還、失敗。

25日
白河方面ではその最前線に立たされた三春藩・守山藩が政府軍へ寝返ってしまいます。
※三春藩
尊皇色が強く、奥羽越列藩同盟結成の時は、新政府側に
「同盟に参加しなければ小藩ゆえに滅ぼされるかもしれないので、やむをえず同盟に参加する」
と使者を送っていました。
※元々薩長への憎悪から結びついた同盟。戦局が不利になれば、脱落が相次ぐのも当然でした。

26日
板垣退助率いる新政府軍主力部隊が三春城に入ります。

慶応4年(1868年)7月27日
三春藩兵が案内をし、政府軍阿武隈川を越えて本宮まで進軍。二本松城と藩兵団の間を中央突破しました。
その上二本松藩の側面を薩長軍を主軸とする別働隊が包囲しました。
※三春藩投降が伝わっていなかった現場では、援軍が到着したと勘違いし、攻撃を受けてかなりの被害が出てしまいます。

二本松藩は、奥羽越列藩同盟のためを白河はじめ諸方面に兵員を派遣していた為
二本松城を守っていた正規兵はほんの僅かでした。
また、本宮の軍勢に阻まれて二本松に戻ることもできませんでした。

28日
家老丹羽一学は、藩主丹羽長国を米沢に逃がします。
藩士の60歳以上の老人兵と16歳以上の少年(元服済)の若年兵と敗残兵で防衛隊を編成し派遣します。
それでも人手が足りない状況に、少年たちが
「出陣したい」と志願しました。
二本松藩では15歳以下の者の従軍は許されていません。
重臣達は「若い命を粗末にしてはいけない」と説得しますが、
少年達は自分たちもこの国や家族を守りたいと訴えました。
銃太郎が門下の幼年兵の出陣を藩に申請し、結局藩は黙認。
二本松少年隊が結成されます。
他にも少年達が多数志願。藩校の敬学館には63名の少年達が集結。
銃砲部隊を編成しました。

銃太郎隊は城下南方の大壇口の小高い丘で守備に就きます。
隊員は23名のはずが、開戦直前の点呼の際には25人いたとも伝わります。
(理由ははっきりとわかっていません)
※銃太郎は呼称上『隊長』でしたが、実際に隊長という役職はなく
『幼年兵世話係』でした。

銃太郎たちは官軍を迎え撃つ為、まず地面に杭を打ち込みました。
それに横木を渡して、近くの民家から借りてきた古畳を二枚ずつ並べて縄で結わえ付け、即席の砲弾避けを作り、一夜を明かしました。
装備は旧式銃と大砲が一門のみ。服装もまちまちでした。
砲車が溝に落ちると子供たちの力では引き上げることすら苦労したそうです。

29日
早朝。備前、薩摩、長州、彦根、大垣、黒羽、土佐、館林、佐土原、忍(おし)の諸藩による兵力が、二本松城を目指して進行。
正法寺口が敗れ、東方の供中口も敗れました。
板垣退助の主力部隊は、大壇口への攻撃を開始します。
政府軍は隊伍を組んだまま密集して進軍し、射程距離に入って来たので
銃太郎の指令で集中砲火を浴びせます。
精度の高い砲撃は、政府軍を苦戦させました。
※『太政官日誌』に、突破できずに作戦を変更し、一小隊を二分して一手は大砲、一手は間道より攻撃して破ったとあります。
※戊辰戦争で一番の激戦だったとの、政府軍の人間の言葉も残っています。

敵の砲撃部隊が到着。しかも装備は最新式。
徐々に兵力の優る政府軍が盛り返します。
前方の敵が側面に回りこみ、攻撃が更に激化。
銃太郎は城までの撤退戦を決意。
隊士を逃がそうと努力しますが、左の二の腕に被弾し重傷を負ってしまいます。
銃太郎は近くにいた少年たちに銃創の手当のやり方を教えたそうです。
手当を済ませた銃太郎は、隊士達を励まし尚も指揮を執り続けました。
しかし更に左腰に被弾し、銃太郎はその場に倒れました。
副隊長の二階堂衛守がすぐに駆け寄り助けようとしました。
※二階堂は銃太郎のひとつ年上でしたが、銃太郎を尊敬し、支え続けた副隊長でした。

銃太郎は致命傷であることを察しており、
「この傷では助からない」と介錯を頼みます。
二階堂は泣きながら銃太郎の首を落とし、「みんなを頼む」という
隊長の最後の命令を遂行しようとしました。

城へ戻る途中、歴代藩主の菩提寺である大隣寺があったので
銃太郎の首を埋葬しようとします。
ところが政府軍に遭遇し、戦闘中に二階堂までもが命を落とします。
少年たちは散り散りになりました。
家族から
「子供なのだから太刀打ちするな、隊長と思われる敵を身体で刺せ」
と教えられていた少年たちは、それを実行し、一人一刺をして悲壮な討ち死にを遂げました。
その中で、どうにか銃太郎の首を守ります。
子どもの腕に大人の首は重く、二人で髪を引いて持ったそうです。
なんとか首を埋葬し城へ向かいました。
※場所はわかっていません。

しかし、二本松城は政府軍の猛攻に耐え切れませんでした。
昼過ぎ。丹羽一学たちは本丸に自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自刃しました。

二本松藩が陥落したことで、仙台と会津を繋ぐルートがなくなり、会津の東側は政府軍に完全制圧されたことになります。
こうして戊辰戦争の次なる舞台は、会津藩へと移ることになるのです。


参考 
「新編 物語藩史」
「白虎隊と二本松少年隊―幕末を駆け抜けた若獅子たち」星亮一
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
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2008.12.12 Fri
柴 司(しば つかさ)

弘化元年2月14日(1844年4月1日)生まれ。
姓は柴(しば)、諱(いみな)は次正(つぐまさ又はつぎまさ)、幼名は又四郎(またしろう)のち司(つかさ)。
父は柴友右衛門次直、母は西郷氏。
幾馬次俊、寛次郎次久、外三郎次元の3人の兄がいました。
幕末の京都に駐留していた会津藩士のひとりです。

元治元年6月5日(1864年7月8日)
池田屋事件(池田屋騒動、 池田屋事変、三条小橋の変、洛陽動乱などとも言う)勃発。
長州藩は八月十八日の政変で失脚し、表向き京都から追い出されていました。しかし公武合体派が主流となっていた政局を尊皇攘夷派が挽回しようと、密かに京の町に多数が潜伏していました。
新選組はそれらを探し、取り締まる中で、捕らえた古高俊太郎から、
風の強い日に御所に火をつけ、その混乱に乗じて要人を暗殺し孝明天皇を長州へ連れ去る計画があることを知ります。
新選組は近藤隊10人・土方隊24人の二手に分かれて京の町を虱潰しに当たり、池田屋で謀議中の20数名を発見し、たった4名で斬り合いとなりました。
知らせを聞いて土方らが駆けつけ優勢になると、捕縛に切り替えました。
数名の尊攘過激派は逃走しましたが、翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと共に20余名を捕縛しました。
御所焼き討ちの計画を未然に防いだことで、新選組は名をあげました。
警備要員として貸して欲しいと会津藩に要請がきたりもしました。

6月8日
五条大橋に池田屋事件批判の貼紙がされます。
長州人が新選組屯所に切り込むとの噂も流れました。
※当時は貼紙や立て札で声明を出すことがよくありました。
※庶民にとっては、実際には起きなかった御所焼き討ちよりも、目の前で血刀を下げて歩いている新選組の方が恐ろしく感じられたようです。
京の人にとっては、東側から来た新参者よりも西側の人間の方が親しみがあり、長州藩側に肩入れをして匿ったり
「御所焼き討ちなど新選組が流したデマに決まっている」と言う人もいました。
尊攘派の様々な人間が新選組を批判することで、世論を味方につけようとしたのです。

6月9日
新選組は京都守護職に援軍を要請。
会津藩士が加勢として新選組に合流します。
浪士の残党狩りを京都守護職から命じられており、日々の市中警護を強化させていました。

6月10日
幕府から諸藩へ、池田屋事件の残党狩りが命じられます。
洛東の聖護院で雑掌を務めていた2人が捕縛され、尋問により
東山の料亭・明保野(あけぼの、曙とも)に浪士数人が密会をしているという情報を得た、と町奉行より新選組に伝えられます。
明保野亭は当時、料亭と旅宿を兼ねており、志士による密議にもよく利用されていました。土佐の坂本龍馬の常宿の1つとも言われています。
※現在も東山区清水三年坂(産寧坂)に現存。
※当時は建物の二階より、京都の町並みが一望できたため、追っ手の行動がよくわかったそうです。

副長助勤の武田観柳斎率いる新選組隊士15名(10名説あり。沖田、原田、井上らという説も。)が出動。
会津藩士柴司(しばつかさ)、田原四郎、石塚勇吉、常盤常次郎、両角太郎ら5名も共に向かいました。
柴は一階を担当しましたが誰もおらず、そのうち二階が騒がしくなって侍が2名逃げてきたところに、
武田が「柴さん、そいつを捕まえてくれ。逃がすな」と言うので追いかけたところ、垣根を破って逃走しようとしたので、腰あたり(股だったとも)を背後から槍で突き、捕縛しました。
※資料により、
踏み込んだところ数名で酒を飲んでいた中の1人が突然逃げた
座敷に1人が酒を飲んでいたが逃げ出した
亭内を探したが異常はなく、庭を捜索中に二階に隠れていた二人の武士が飛び降りてきた
名前を聞くと答えずに抵抗したので刺した
などの食い違いが見られます。
※身分から見て、武田が柴たち会津藩士に対して指揮を執っていたのはおかしいのでは、という指摘もあります。

捕縛された男は、
「逃げるつもりはなかった。自分は土佐藩士だから突かないでくれ」と言います。
彼は長州志士ではなく、土佐藩家老福岡宮内家臣の麻田時太郎(時次郎との説もあり)でした。
柴たちは一旦麻田を奉行所へ引き渡したとも、その場で身元が判明して解放したとも言われています。

事を聞いた会津候容保は憂慮し、公用人の手代木直右衛門・小室金吾左衛門を河原町土佐藩邸に派遣して、事態の収拾にあたらせようとしました。
また、藩医渋沢昌益を派遣して麻田の傷の診察をさせました。
渋沢は案内されて麻田を診察し、居合わせた土佐藩医と意見交換した結果、命に別条はないと判断します。
土佐藩側も名乗らなかった麻田にも落ち度があるとの返答でした。

柴は大変動揺し、新選組の永倉新八が
「相手が逃げたのだから無理も無い、君がしたことは間違っていない」
と励ましたとも伝えられます。
※当時は誤認による殺傷も許可されるという特別条項があったので
尚の事柴に落ち度は無かったのです。

この頃の土佐藩は藩主山内容堂のもと公武合体を支持しており、会津藩との関係も良好でしたが、内部には土佐勤王党など倒幕を目論む勢力もありました。
この事件が引き鉄になり、過激派の面々は新選組を恨み屯所を襲撃しようと言い出します。わざわざ土佐藩から、会津藩を通して新選組に
「新選組を皆殺しにする」と通達が入ったとも言われます。
屯所では警備を厳重にし、会津の本陣である黒谷にも警戒を促す使者を送りました。

6月11日
一晩で土佐藩の態度は硬化します。
会津藩の公用方が再度医者を連れて見舞いに出向いても
「当藩では士道に背いた者の治療はしないので必要無い」
と門前払いされます。
※麻田が自ら「手傷を負った武士は、もはやこれまでと覚悟するもの」と断ったとする説あり。

麻田は後ろ傷を負わされながら立ち合わなかった士道不覚悟の理由で、土佐藩邸内で切腹となります。(享年35歳)
※自ら死を選んだのか、命によってなのかは諸説あり。

食い止めようと間に入っていた会津藩の千葉次郎も、土佐藩邸で切腹したという話があります。
※資料が極端に少なく詳細は不明です。

柴が会津本陣へ呼ばれ、心配した近藤、土方、永倉は、ただちに後を追いかけたとも伝わります。
町奉行所と容保へ新選組として柴の無実を報告し、助命嘆願したそうです。
しかし麻田が切腹した事により、会津藩が土佐藩との関係を続けていく為には、柴に対してもなんらかの処断を下さねば会津の顔が立ちません。
松平容保は、柴司の組頭である加賀屋左近に
「自分の口から、柴に藩の為に死んでくれとはとても言えない」
と泣きながら言ったそうです。

6月12日
柴は親族らに代役を立てて切腹してはどうかと言われますが
責任を重く受け止めていた柴は
「自分のせいで懇意であった土佐公と肥後守(ひごのかみ。松平容保のこと)が断交となってはいけない」
と自ら切腹を決意。風呂に入って体を清め、髪を結いなおして衣服を改め
兄(幾馬とも外三郎とも言われる)の介錯で切腹しました。享年21歳。
※土佐藩の人間が立ち会ったという話もあり。

柴は麻田が切腹したことは知らずに切腹を決めたとも言われています。
柴は自ら犠牲となる事で両藩の関係悪化を食い止め、この一件で土佐藩と会津藩の絆はますます強くなったとされます。

6月13日
柴の葬儀が執り行われました。
新選組からは局長の近藤勇を始め面々から香典が送られ、土方歳三・井上源三郎・武田観柳斎・河合耆三郎・浅野藤太郎(薫)が参列しました。
柴の兄、幾馬によれば、一同は柴の体に触れ、声をあげて泣いていたそうです。特に土方はかなり取り乱していたとも言われます。
新選組の隊士の多くは、農家出身など生粋の武士ではありませんでした。
土方などはこの一件で、武士として、藩のために・国のために尽くすとはどういうことかを、副長として思い知らされたのではないでしょうか。
この経験が、後に鬼と恐れられた冷血なほどに厳しい隊士への取り締まりぶりにつながったのでは、と見る人もいます。
浅野と武田で弔歌を詠みました。武田の歌が残っています。
『我も同じ 台(うとな)やとはん ゆくすえは
同じ御国に あふよしもかな』

新選組の五人は遺族と共に墓所まで柴を見送りに行ったそうです。

明保野亭事件で柴が使った鎖帷子と槍は、永倉から借りていたもので、
遺族に望まれ永倉は遺品として贈ります。

潔い最期に対して会津藩主松平容保は長兄の幾馬に白金を賜い、
三兄の外三郎を新たに外様組附とし、俸米を賜い
柴の霊を弔ったと言います。

京都黒谷金戒光明寺の会津墓地にある柴司の墓誌には、
『よく言われるのは、難しいのは死ぬことではなく潔く死に臨むことだ。
柴は、本当に潔く立派に死んだ者だというべきだろう。
この頃世間は尊攘を唱え、不逞の輩が集まり流言や暴行の限りを尽くした。
屡、京の都は脅かされ正に不測の状態で動揺していた。』
『もしこの日に死なず禁門の変に参戦していたなら、大活躍していただろうに残念だ』
と書かれてあります。
法名は忠信院盡孝刃司居士です。


参考
「甲子雑録」
「会津藩庁記録」
「維新前後の会津の人々」相田泰三
「幕末維新人名事典」新人物往来社
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
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一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2008.12.05 Fri
松本 良順(まつもと りょうじゅん)

1832年7月13日(天保3年6月16日)
佐藤泰然の次男として江戸麻布(東京都港区)我書坊谷で生まれました。
(幼名は佐藤順之助。後の外務大臣の林董は実弟。)
父の泰然は江戸で蘭医学を学び、薬研堀で医者を開業します。

天保13年
泰然は堀田正睦(下総佐倉藩の第5代藩主。大名・老中)に見込まれ
下総佐倉藩医師となります。
佐倉へ移住して、蘭医塾、順天堂を開きました。
良順は江戸薬研堀に残り、姉の嫁ぎ先である、林家で育ちます。
その後順天堂の父の元で蘭医学を学びました。

嘉永3年
泰然の親友である幕医松本良甫(まつもとりょうほ)
が跡継ぎを求めており、良順が養子となりました。
※弟子の尚仲が後に佐藤家に養子として迎え入れられ、明治後東京で順天堂を開きます。

安政4年(1857年)
長崎の海軍伝習所でオランダの教授による海軍伝習が始まります。
良順は外国の先生から実際に習いたいと考え、目付の永井尚志に頼みました。
永井が老中の堀田に相談すると、
「長崎の海軍伝習生として行けば良い。長崎で伝習生が分科として何を学ぶかは当人の勝手だ」という寛容な返事がありました。
漢方医らが反対し、良順の長崎生きを邪魔しようと画策しますが、永井が抑えてくれます。
※この時代は漢方医が主でした。(実態は医療というより呪いが主)
特に良順は外科で、現代で言う外科の他性病等も取り扱い
血や汚物のイメージが付き纏いました。

安政4年(1857年)閏5月18日
良順、長崎へ出発。
長崎で彼を迎えたのは、長崎奉行の岡部長常でした。
ふたりは意気投合し、後に医療事業に関する様々な改革を行います。

良順は医学校で兵書を読む学生が多いのに憤慨して
医学書のみを読むべしと兵書と文法書講読の禁令を出したところ、
擁夷熱に冒された医学生に激しい非難を受けたと言われます。

9月26日
医学伝習の教授はオランダ軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトでした。
(オランダ側伝習所総督であるカッティンディーケの長崎派遣にともない、医師として同行)
松本良順をはじめとする12人(14人との説も)が医学伝習生となり、ポンペから西洋医学等の蘭学を学びました。

安政5年(1858年)
1歳から2歳までの小児218人に種痘を施行。
米軍艦の乗組員からコレラが流行し、使者767人を出しますが、医学伝習所は治療に尽力しました。
※コレラはその後江戸まで広がり、31,229人の死者を出し
『ころり』(コレラの訛り、またころりと死んでしまうから)と呼ばれて恐れられました。

安政6年(1859年)
ポンペは岡部の援助の下幕府に対し病院設立を建白します。
良順も助手として尽力しました。
良順はポンペの意見を良く理解し、彼が授業をしやすいよう生徒の監督なども行いました。
良順についてポンペは
「階級・家柄共に門弟中筆頭。最も技術堪能で数々の才能とたゆまない熱意をもっていた」
と評価しています。
※ポンペは岡部に関しても
「誠の文化人で、とにかく立派な働き者の日本人、それが母国日本の発展と繁栄になることであれば、なんでも大胆にやった。日本はこの行政長官に最大の恩誼がある。沢山の話にならぬ悪弊は彼によって打破された」
と述べています。

安政6年(1859年)2月9日
突然伝習の中止命令が下されます。
良順はポンペ、オランダ公使ドンケル・クルチウスに相談し、ポンペは引き続き留まることになります。
良順だけでも引き続き講義が受けられるよう、クルチウスが長崎奉行岡部に、岡部は井伊大老に願い出ました。
井伊大老からの返信は、岡部への私信として密かに届きます。
「公使と教師の好意を無駄にしてはいけない。
しかし一度発した命令は取り消せない。だから君の願いは公許しない。すぐに帰府するよう下命する。
そうしたら君から再願しなさい。その願書は私が受け取ったまま暫く忘れておこう。
勉強が終わったならさらに帰府を命ずることにするから、安心して修行するように。
大老の職が医生一人の処置を忘れたからと言って、法において何の不可もない。留学費その他一切なお、従来の如くしなさい」
松本良順はその自伝で、井伊は真に大老の器だったが、道半ばにして命を落とした。とても残念だ、と述べています。

また、永井も、幕閣に対し伝習所の便宜を図ってくれました。

文久元年8月6日
日本初の洋式病院である長崎養成所落成。
17日より診療開始。
教頭はポンペ。頭取は良順でした。
※手術室や隔離室、奇宿舎等の設備が整う近代的な病院で
食事もパン等西洋式。病室も風通し等を考慮にいれて設計されました。

その後、ポンペが帰国します。

文久2年(1862年)閏8月8日
良順も江戸へ戻り奥詰医師となります。
西洋医学所頭取助を兼ねました。

文久3年(1863年)12月26日
奥医師に進み、緒方洪庵の後任として医学所頭取となります。

元治元(1864)年10月
良順宅を、新入隊士募集のために江戸に来ていた新選組の近藤勇が訪ねてきます。
門弟や家人は切り殺されるのではないかと恐れましたが、良順は動じず招き入れました。近藤は
・幕府の医者が夷敵の技術を奉ずるのは良くないのではないか。
・開国と攘夷についてどう思うか。
などを質問し、良順は漢方医と蘭方医の実態・力量差をとくと語りました。
※近藤も当時の多くの侍たちと同じく攘夷派でした。
しかしながらその意見に凝り固まっていた訳ではなく
こうして様々な人の意見を聞き、実は攘夷は現実ではないことを悟っています。

激務から神経性胃炎を患っていた近藤は、後日良順の診察を受けます。
近藤は良順を尊敬し、京都に来た折には是非屯所を訪ねて下さいと言います。

元治元年(1864年)
5月9日 法眼に叙せられ、6月1日には奥医師の任を解かれ、寄合医師となります。
しかし8月15日奥医師に再任され、将軍侍医などを勤め、将軍徳川家茂などの治療を行いました。

慶応元(1865)年
上洛の折、約束通り新選組屯所(この時は西本願寺)を訪ねました。
土方の案内で屯所を廻りましたが、寝転がったままの隊士が半数近くいたことに驚きます。
上司と客人が通るのに無礼ではないのか、と近藤に問い質すと、近藤は傷病人故勘弁してやってくれ、と答えます。
そこで良順は、病室を別に準備して看病させ、毎日入浴するなど衛生管理を整えるよう指示しました。
土方は、良順と近藤が談笑している一時間程度のうちに全てを用意し、良順は土方の才に驚いたそうです。
良順は医師の南部精一を屯所へ往診させるなどし、更に残飯を捨てずに餌として豚を飼育し、食べて滋養をつけることを指導しました。
また、監察方の山崎烝に医療技術を伝授してもくれました。
結果、多くの隊士が一ヶ月ほどで前線復帰したそうです。
※当時牛や豚の肉を食べる習慣はありません。野蛮なことと捉えられていました。
徳川慶喜(一ツ橋)は豚好きで知られ、豚一公と人々に揶揄されていたほどです。

良順は特に沖田を気に入って、よく連れ出してご飯を食べに行っていたようです。

慶応4年(1868年)2月
再び江戸に戻ってきた近藤を呼び、写真家の内田九一に写真撮影をさせています。(現存)
良順の写真と敷物が同じであることから、良順宅で撮影されたのではという説があります。
※写真は当時ほとがら、ほとがらひーなどと呼ばれていました。
撮影されると魂を取られるなどの噂もありましたし、顔に白粉を塗って長時間じっとしていなければならないなど、庶民には理解のしにくいものでした。
こうしたことからも、良順の好奇心旺盛かつ異文化に理解ある態度が窺えます。

戊辰戦争では奥羽列藩同盟軍(幕府側。新選組も加わった)の軍医となります。
江戸に引き上げてきた近藤の怪我を見たり五兵衛新田移転についても関わりました。
※近藤は、新選組から脱退した高台寺党(伊藤甲子太郎ら)の暗殺未遂により肩を負傷。腕をあげることすら適わない状態でした。
※西軍が攻め込んできた際に新選組が江戸にいてはまずい、と良順が知人に頼んで彼らの居場所を移動させました。
新選組の屯所にしたいと言えば断られるので、友人を数人逗留させて欲しいと嘘をつきました。
知人を騙すことになりましたが、この良順の画策が無ければ西軍と新選組が鉢合わせし、江戸の町が戦場になっていたかもしれません。

西軍が江戸に攻め込んでくると、門弟数人を引き連れて会津に入り、
藩校日新館を診療所として、会津藩の医師らとともに負傷者の治療にあたります。
雨霰と銃弾の降る中先頭を切り続け、軍神と敵味方に畏れられた土方もついに足を負傷。歩くことも出来ず、良順が診察しました。
会津落城後は仙台に行きましたが、蝦夷地渡航は断念しました。

幕府方についたため戦後朝敵として一時投獄。禁固刑となります。
しかし赦免され、早稲田に病院を設立。

明治4年(1871年)
陸軍大輔山県狂介(有朋)の要請により兵部省に出仕し軍医頭となります。
陸軍軍医部を設立
従五位に叙せられた後、松本順と名乗ります。号は蘭疇、楽痴。

明治6年(1873年)
初代軍医総監となり、陸軍軍医制度を確立。

明治23年(1890年)
勅撰により貴族院議員となります。

38年(1905年)
男爵に叙されます。
軍医学は公衆衛生学が元になっており、牛乳や海水浴などの普及も行いました。
神奈川県大磯町は日本初の海水浴場。
良順が最適な別荘地として開発したもので、照ヶ崎に記念碑があります。
長野県湯田中温泉では温泉入浴法を伝え、湯田中温泉を長寿の湯と褒め称えました。現在の湯田中大湯には、今もその温泉入浴法が掲げられているそうです。

また、日野の高幡不動にある近藤土方の慰霊碑『両雄殉節碑』に揮亳してもいます。

明治40年(1907年)3月12日
大磯にて死去。享年75。
墓所は神奈川県大磯町の妙大寺です。


参考
新選組関連の本
多数につき今回は省略させて頂きます。
私のmixi、blogのレビューをご参照下さい。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2008.11.28 Fri
和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)
弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)生まれ。
仁孝天皇の第8皇女で、孝明天皇の異母妹。
生まれる前に父を亡くしており、16歳離れた孝明天皇は
和宮にとっては父同然の存在だったようです。
※「和宮」は誕生の際に賜られた幼名。
「親子」は文久元年(1861年)の内親王宣下の際に賜られた諱です。

和宮が6歳の時、11歳年上の
有栖川宮幟仁親王の長男・熾仁親王と婚約します。
しかし14歳になり、婚礼が近づいた時に、
14代将軍・徳川家茂への降嫁の話が出てきます。

当時日本は黒船来航で混乱しており、
尊皇攘夷(天皇を尊重し、外国人を排除する)が一般的な思想でした。
※尊攘派と対立するのが佐幕派(新選組など)と扱われますが
佐幕派も思想は勤皇・攘夷であり、
幕府を倒して自分たちが政界を牛耳ろうとしたのが尊攘派
幕府と朝廷が一体となり国をまとめようとしたのが佐幕派です。
※諸外国との交戦や交流を経て、尊攘派・佐幕派共に、幕末には
攘夷は不可能だと認識しています。

幕府側による、尊攘派を抑え幕府の権威回復のため
皇女が徳川家に降嫁する政略結婚が押し進められました。
孝明天皇と和宮は拒否しましたが、幕府側は諦めません。
関白・九条尚忠が
「幕府がどうしてもというのなら、和宮の代わりに
昨年生まれた自分の娘・寿万宮(すまのみや)を江戸へ送る」
と庇おうとしてくれ、それを聞いた和宮が降嫁を決意したとも伝わります。

文久元(1861)年10月20日。
尊攘派の和宮奪還を避けて、和宮の行列は中山道を江戸へ向かいました。
警備には数十万人が当たりました。

文久2年(1862年)2月11日に婚儀が行われましたが、
内親王の方が征夷大将軍より地位が高い為、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分として行われました。
(当時の婚姻には、身分が大きく関係し、身分を釣りあわせる為に
一旦武家や医者の家に形だけ養子になって身分をあげてから
婚姻するなどの力技も一般に使われていたほどです。)

結婚に際し、和宮は大奥風ではなく御所風の生活を守ることを
幕府側に約束させましたが
大奥にその意思が全く伝わっておらず、現場は大いに混乱しました。

たとえば将軍の正室の呼び名「御台様(みだいさま)」でなく
「和宮様」と呼ばせたり、
挨拶は家茂から和宮に言上させたり
足袋を履かずに過ごしたり
(江戸大奥では足袋を履くのが決まりだったが、
御所では勅許(天皇の許し)が出ないうちは冬でも足袋を履かない)

和宮にとっては今まで通りの生活を続けただけでしたが、
大奥側も幕府首脳がそのような約束をしたことなど知らず
身勝手な(身勝手に思えた)和宮と当初は対立したようです。

本人同士の意思に反した婚姻は当時よくあることではありました。
しかも皇族と将軍の政略結婚でもあります。
ですが、このふたりの夫婦仲はとても良かったと伝わります。

家茂は側室をおかず、和宮を生涯の伴侶とし
将軍としての職務のため離れ離れになったときは
「和宮に会いたい」と家茂がホームシックにかかるほどだったそうです。

また和宮は家茂の履物を自ら揃えるなどしました。
これは下女がするならいざ知らず、将軍の妻自らがするなどとは
当時としては考えられない行為でした。

家茂の体が弱かったこともあり子宝には恵まれず
幕府重臣が和宮に懇願して家茂に妾を持たせることを
同意させたという話もあります。

慶応2年(1866年)7月20日
家茂が長州征伐の為に上洛の折、大坂城にて病没します。
家茂は自分の後は田安慶頼の子、亀之助(後の徳川家達)に
継がせると言っていました。
しかし家茂は暗殺されたのでは、と囁かれるほどの混乱した状況です。
和宮は
「今のご時勢、幼い亀之助ではしっかりした人の協力がなければ無理です。
ならば天下の為に然るべき人を選び直しましょう」と提案しました。
一橋慶喜(後の徳川慶喜)が15代将軍候補に挙がり、和宮は
「御遺命さえ反故にしないでくれれば異存はありません」と言ったそうです。
斯くして一橋が15代将軍になります。

和宮は落飾し、(仏門に入ること)『静寛院宮』となります。

また、家茂が上洛の際、「凱旋の土産は何がよいか」と尋ね
和宮は西陣織がよいと答えたそうです。
残念ながら形見として和宮の元に届けられた西陣織を
「空蝉の唐織り衣なにかせん あやも錦も君ありてこそ」
(どんなに綺麗な衣を頂いても、家茂様がいらっしゃらないのでは
なんの意味もありません)
の和歌を添えその西陣織を増上寺に奉納。
後の追善供養の際、袈裟として仕立てられたそうです。
(これは空蝉の袈裟として現在まで伝わっています)

世の中は大政奉還を経て、幕府側が不利な状況に陥ります。
尊攘派が勅許を得て錦の御旗を振りかざし
(この二点は尊攘派が作った偽物という説あり)
『官軍』となりました。
佐幕派は天下を騒がせ天皇の心を騒がせた『逆賊』とされます。

慶応4年(1868)1月
戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の戦い、会津戦争、箱館戦争などの総称)
が始まりました。
維新政府軍(西軍)と旧幕府派(東軍)の内戦です。

幕府派の中でも、
自分たちに落ち度は無く、天皇の威を借りて
天下を牛耳ろうという西軍に対し徹底抗戦を叫ぶ人たちと
内戦をしても仕方ない、おとなしく降参するべき、という人たちで
意見が分かれました。

和宮は元々西側の人間です。況して天皇家の人間が、
官軍から追われる身になってしまいます。
しかし、京都へ帰ってはどうかとの勧めにも
「私の身の存亡は当家(徳川家)の存亡に任せます」
と断ったそうです。

大阪から逃げ戻った慶喜から話を聞いた和宮は状況を察し、
慶応4年(1868年)1月21日土御門藤子を使者として
将軍徳川慶喜の助命を嘆願書を甥である明治天皇に遣わしました。
(これに感謝し、後の慶喜は和宮の命日には
墓参りを欠かさなかったとも伝わります)

2月12日。
慶喜は東征軍の求めに従い上野寛永寺大慈院に謹慎しましたが
東征軍が江戸へ出発します。
しかも、征討大総督となったのはかつての和宮の婚約者
有栖川宮熾仁でした。

慶応4年(1868)3月10日。
和宮は町の人々を守るために再び藤子を使者にたて
官軍の江戸進撃猶予を嘆願。
更に翌日侍女玉島を遣わし更に嘆願。
その願いを受け、江戸総攻撃は一時差し止められました。

姑である第13代将軍家定の妻、天璋院(篤姫)
※実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。
と共に島津家や朝廷に何度も徳川存命を嘆願したと言います。

4月。江戸城無血開城の3日前。
官軍に江戸城を明け渡さなくてはならなくなり、
和宮たちは大奥から追われます。

こうして265年間続いた徳川幕府は滅亡しました。

和宮は明治2年(1869年)2月3日、京都に戻り
聖護院を仮住まいとします。

明治7年(1874年)7月8日
明治天皇の東京行幸のために東京に戻ります。
麻布市兵衛町にある元八戸藩南部遠江守信順の屋敷に居住し、
徳川家の人間を招待したり、徳川邸へ行くなど交流を続けます。
天璋院
※「討幕運動に参加した島津家には頼らない」と、
飽く迄徳川家の人間として鹿児島に戻らず、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。
とも度々会っていました。

明治10年(1877年)8月
脚気を患い、箱根塔ノ沢の温泉宿(環翠楼)へ転地療養します。
地元の子どもたちを招いてお菓子を振舞ってくれた
との話も残っています。

明治10年9月2日。脚気衝心(脚気による心不全)のため死去。
32歳でした。
「将軍のお側に」という遺言通り、
徳川家の菩提寺である東京・芝の増上寺に家茂の隣に葬られています。
和宮の棺からは直垂姿の若い男の写真乾板が見つかりました。
残念ながら保存処理が悪く翌日には肖像は失われてしまいました。
有栖川宮熾仁親王だったのでは、という説もありますが
和宮の生き方を考えれば、家茂の写真であったと考える方が
自然ではないでしょうか。

「天下のため、国のため」と降嫁した和宮。
降嫁後も天下のため国のため、そして徳川家のために
尽くした人でした。

※和宮の素顔を知っていた数少ない人物、島田正辰が
暗殺されている為、降嫁したのは替え玉との説あり。
※降嫁後詠まれる和歌の質が下がり、宮家の人とは思えない
と唱える人もいた。
※遺骨の調査から、当時の一般市民とは異なる上流階級女性独特の体躯であったことが判明。
替え玉説は後世の流布との考えが現代では一般的。
※環翠楼は慶長19年(1614)から開湯し現在に至る温泉宿。
和宮療養当時の宿の名前は『元湯』。

参考
「和宮」辻ミチ子
「静寛院宮御日記」東京大学出版会
「日本随筆大成」勢多章甫
「和宮」遠藤幸威
「和宮人物叢書新装版」武部敏夫・吉川弘文
その他
及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2008.11.26 Wed
ご質問頂いたので補足します。


当時は今に比べて格段に身分差が厳しく
また己の誇りを大切にしていました。

長州征伐を幕府は二度行いましたが
実情は、そうしないと幕府に逆らった長州に対して、また周りに対して示しがつかないからで
本当は幕府もやりたくなかったのです。
今の日本と同じく、平和ボケして軍事力もお金も無かったんですね。

長州側も、倒幕派と穏健派に分かれていまして
衰退してはいてもお上はお上。藩の取り潰しになったら無職で住むところもなくなるし
何よりここまで続いてきたものを自分たちの代で潰すのはご先祖様に申し訳ない訳です。
で、
「こういう風に反省してるから許して☆」
と言ってきた長州に渡りに船で、
「そんなに反省してるなら許してあげよう」
ってのが幕府。
ただ、
「本当に反省してるのか代表が見に行くからね」
ってことで行かされたのが永井さんや新選組の近藤さんたちでした。

それに赤禰さんたちは同道することになった訳です。

会見の場所は、当時比較的中立だった広島藩で行われました。
幕府は今の政治家並に腐っていましたし、長州はそれを舐め腐っていたので
実態は反省なんてしちゃいません。

将軍様を慕う新選組としては、長州の態度は勿論幕府の役人に対してもムカつきまして
自分たちだけでも長州と広島の間にある岩国藩にせめて視察に行こうとしましたが
新選組は池田屋なんかで『幕府の犬』として滅茶苦茶恨みを買っていましたから
肩書きを隠してもバレバレ。
岩国は長州に肩入れしてましたから、当然門前払い。

そこで近藤さんは自分らは引き上げ、監察方(スパイ)を送り込み内情を探らせることにしました。

赤禰さんたちも、ここで別れることになった訳です。



志は違えど、真に目指していたのはこの国を守りたいということ。
今の日本で、首相や天皇の為に命を捨てる という考えは馴染みないですけど。

大事な人を、大事な人のいる場所を守りたい。
その為に命を賭して戦おうと思う人が
今の日本にどれだけいるのでしょうね。


「武士で無いからこそ武士に憧れる」
身分に苦しみそれを乗り越えて志を高く持ち
実際に武士以上の武士になった人たち。

だから私は『侍』に惹かれ、幕末に惹かれるのだろうと思います。

ちょっと独り言でした。

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2008.11.21 Fri
赤禰武人(あかねたけと)
赤根と標記されることが多いが間違い。略記でも赤祢。

天保9年1月13日(1838年2月7日)生まれ。(1月15日説あり)
周防国玖珂郡柱島(現岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の長男。
13歳のとき、勤皇僧月性の家塾『時習館』の門下生となり、尊王思想を学びました。
浦家家臣赤禰忠右衛門雅平の武家養子となり
19歳で所帯を持ったとされますが、諸説あります。

24歳になった武人は、高杉晋作、久坂玄瑞ら松下村塾門下生らと共に尊王運動に奔走するようになりました。
外国公使要撃未遂事件(金沢事件)、英国公使館焼き討ちに参加。
1863年10月2日には、奇兵隊の第三代総管に就任します。
この頃赤禰の下で軍監の地位にいたのが山県有朋です。

1864年8月5日 四国連合艦隊下関砲撃事件が起こります。
英米仏蘭16隻からなる連合艦隊が馬関(今の下関)を攻撃しました。
馬関の砲台に備えられた大砲は全部で80門しかなく、対する敵艦の砲門は180を超えました。その上性能の上でもはるかに劣っていました。
赤禰は最後まで戦場に踏みとどまり、必死に奮戦したことが
白石正一郎の日記とアーネスト・サトウの記録に残っています。
ところが奇兵隊日記には記録は該当ページが何者かによって破り捨てられています。
馬関の防衛を任されていた武人の知らぬ内、高杉が講和談判の全権使節として馬関海峡に浮かぶ英国艦に赴いて条約を結び、戦いは終わりました。

この経験で、武人は攘夷が不可能であることを悟りました。
また、俗論派(幕府恭順派)と正義派(倒幕派)とに分かれて対立する自藩の状況にも虚しさを感じたようです。
武人は持病の眼病悪化を理由に奇兵隊総管を辞任して帰郷。
総管は山県が受け継ぎましたが、すぐに手に終えなくなり武人を呼び戻しました。

長州藩を救うためには、まずは内戦を回避することが不可欠。
俗論派と正義派の和平を実現し、征長軍から藩を守るため無益な戦をしてはならない。
武人の奔走が始まります。
西郷隆盛らの協力を得たり、萩に行き、藩公に謁見したりしました。
内戦回避が実現するかと思われたとき、
俗論派に命を狙われ九州に亡命していた高杉晋作が戻って来て、決起を促します。
「兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
武人は
「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」
と、奇兵隊の決起に反対し、高杉と対立しました。
高杉は
「君たちは武人に騙されている。そもそも武人は平民ではないか。
国家の大事や藩主親子の危急を知る者ではない。
君たちは僕を何だと思っているのだ。
僕は毛利家三百年来の家臣である。
武人のごとき平民と比べてもらっては困る」
と演説しましたが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為顰蹙を買った部分が多かったようです。
結局伊藤俊輔率いる力士隊と、他藩士からなる遊撃隊80名ほどが高杉に同調。
俗論政府を相手に藩内革命を起こしました。

丁度幕府の巡見使が長州服罪の状況を確認しに萩へ来ていた時だったので
藩政府は、巡見使の手前、正義派の人間を捕縛し斬首しました。

武人は時局収拾のため、毛利元周(長府候)の出馬を長府藩士・時田少輔らに頼み
建言を受け入れた毛利元周は、兵を率いて萩に至り、内戦を集結に導いたこともありましたが
この一件で武人の正俗合論の為に努力は水泡に帰すことになります。

激しい戦闘の末に俗論党は瓦解。藩政府は再び正義派の牛耳る所となったのです。

武人は戦を避けようとしただけで、正義派を裏切ったつもりではありませんでした。
しかし高杉たちからは、自分たちを裏切り幕府に寝返った人間として追われる身になってしまいます。
大阪に逃げましたが、一緒にいた渕上郁太郎と共にいたところを
今度は幕吏に捕らえられてしまいました。

京都の薩摩屋敷にいた西郷はこれを知り、今まで自分と武人の間にあった密議(薩摩+長州+筑前の連合)
が幕府に知られるかもしれないので、別の計画を練ることにしました。
(これが後の坂本龍馬による薩長連合です)

武人は京都の六角獄で8ヶ月に及ぶ獄中生活を余儀なくされます。
慶応元年(1865年)11月16日。
牢獄の中で再度長州征伐が行われることを知った武人は、
「我々を出牢させてくれるなら、公武合体・諸藩一致のため、長州を鎮静させ、朝幕のために尽力する」
と『急務五ヶ条』と題した意見書を獄中から提出しました。
幕府の大目付・永井尚志は武人の願いを聞き入れ放免。
長州尋問のために下向する永井の随員となり、長州尊攘派の説得に当たってほしいと言われた武人は
渕上郁太郎と一緒に、新選組の近藤勇、伊東甲太郎らと同道することになり、広島で釈放されたのです。

近藤たちは長州の隣国岩国への入国も拒否されました。
武人の目的は、幕長戦を回避して庶民を戦禍から守り、諸外国につけいる隙を与えないことです。
岩国、長府両藩主は萩の本藩主も同意の上武人に諸隊が激発しないよう説得せよと命じました。
しかし時既に遅く、高杉が蜂起して長州は幕府と戦う覚悟を決めており、
説得に耳を傾けるどころか、武人を幕府のスパイと見なしました。
藩からは新選組局長との交友等を理由に幕府との内通の嫌疑をかけられた武人は故郷に潜伏。
岳父の中富十兵衛が匿ってくれましたが、追っ手が迫り
逃げ切れる見込みもなかったので、自刃するよう勧めました。
武人は
「今、自刃すれば、謂れのない中傷讒言を認めることになる。
裁判において、自らの清明を述べ、
我が主張のどこに誤りがあるかを問いただした上で死を決したい。
自分には、検問を論破してみせる自信がある」
と断り、絶筆を書いた後、大人しく縛に就きました。
絶筆は「猛虎猶豫不如蜂蠍忽螫 騏驥跼促不及駑速駆」。
(猛虎もグズグズしていたら蜂やサソリにさされ、駿馬も駄馬に追いつかれる)

自らの正義を訴えるため敢えて縛についた武人は
髑髏の絵を描いて示し、こんな和歌も詠みました。
「誰もみな かくなり果つるものと知れ 名をこそ惜しめ もののふの道」

しかしただの一度の審問もなく、一言の弁明も許されぬまま
武人は幕府に通じたスパイとして「不忠不義之至」と断罪されます。
「私を処断する前にまず時田少輔(長府藩士)に連絡を取ってくれ」
言いましたが、刑吏はこれを無視します。

処刑前夜、悔しさからか獄舎で武人はすすり泣き
酒を飲んだと言われています。
獄衣の背に
真誠似偽 偽以似真
(真は誠に偽りに似 偽りは以って真に似たり)
と記したそうです。

慶応2年(1866年)1月25日 午前8時
長府藩主の毛利元周は処刑決定の知らせを聞き、
自ら早馬を飛ばして山口に向かいましたが
既に武人の処刑は行われた後だったと言います。
28歳でした。

処刑当日は摩擦を避けるため奇兵隊士に禁足令が出されました。
また、処刑した武人の腸を引きずり出し、竹に渡して鳥がついばむのにまかせ、
遺体は通行者が確実に踏みつける場所に葬らせたそうです。
首は自主しなかったから更に重罪だとして
三日間河原で晒されることになりました。

その日の夜、見張りに「酒を買ってやるから首を盗ませてくれ」と侍がやってきて断られ
夜半再び現れ刀を振り回し、武人の首を奪い去ったという記録があるそうです。
男装した女だったという説もあり、その後の首は行方知ずです。
首を取り返したのは長府藩士の時田少輔だったとも、武人の嫁だったとも囁かれています。



明治44年のこと。
赤禰篤太郎(赤禰武人の養父、赤禰忠右衛門雅平の実子)は、明治政府が行っていた維新殉難者への贈位によって
赤禰武人を復権させようとしました。
史談会からは「贈位に値する」との解答が得られ、帝国議会でも承認が得られたのですが、
あとは政府の最終的な審査だけという段階になって、
山県有朋、三浦梧楼から
『四国連合艦隊下関砲撃事件において赤禰武人は敵前逃亡した』との
主張があり、名誉回復と贈位は実現されませんでした。
「自分の目の黒いうちは、決して赤禰に日の目は見せない」と山県が言ったとも伝えられます。


赤禰武人の贈位に反対した理由はなんなのか?
・奇兵隊は最初、高杉の挙兵に反対を唱えた手前、それに合流するには誰かを『悪者』にして責任を被せねばならなかった。
・奇兵隊日記の欠落は赤禰武人の死と関わりがある?
・奇兵隊日記を破り捨てたのは山県有朋?
(日記を管理していたのは山県で、破り取ることが出来たのは彼だけ
という説がある)
→かつての同志たちによって「裏切り者」に仕立て上げられた、スケープゴートなのか。

その後も篤太郎をはじめ、色々な人物が赤禰復権の請願に奔走するも、
実現しないままに昭和19年に維新殉難者への贈位は
全て打ち切られてしまいました。

平成7年
遺族や関係者の希望で下関市吉田町東行庵(奇兵隊及び諸隊顕彰墓地)に
赤禰武人の墓地が建立されました。
結局贈位は為りませんでしたが、赤禰武人の復権はこれでようやく形を見ました。
しかし、未だ靖国神社などには祭られていません。


参考
「エピソードでつづる吉田松陰」海原徹・ 海原幸子
「開国と攘夷」豊田泰
「狂雲われを過ぐ」古川薫
「奇兵隊燃ゆ」童門冬二
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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2008.11.16 Sun
コミュニティ『日本人が忘れてはならない歴史』
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_c_home&t...
黙認☆企画。
歴史を知り、日本の誇りを甦らそう★

日本って…良い国だよ?

sayの独断と偏見により「かっこいい」と思った人の偉人伝。
教科書では教えてくれない人
小説や映画のイメージばかりが有名な人
を選ぶようにしています。

400字詰原稿用紙10~15枚前後にまとめてあります。
ひとつ5枚分ほどに分割してあり、『次の日記』クリックでつづきに飛びます。
1/3なら3分割で、1/3がひとつめ、3/3が最後です。
毎週金曜日更新。


本当は色んな時代の人をとりあげたいのですが
時間に迫られて自分に予備知識があり
資料が集めやすい幕末に集中しているのは申し訳。m(_ _"m)

※言い訳
書き手は読書と絆が趣味のただのOLです。
なので市販の本とネットが主な元ネタです。
おすすめ史料大募集中。
ご指摘歓迎!! 但しソースもよろです♪


(一) 浮田幸吉
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
(二) 赤禰武人
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
補足:http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
(三) 和宮
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(四) 松本良順
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(五) 柴司
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(六) 木村銃太郎
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(七) 武田斐三郎
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(八) 保科正之
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(九) 岡田以蔵
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(十) 市村鉄之助
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(十一) 村垣範正
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(十二) 堀田正睦
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(十三) 永井尚志
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(十四) 岡部長常
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(十五) 松平容保
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(十六) 佐藤彦五郎
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(十七) 西郷頼母
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2008.11.14 Fri
これはコミュニティ『日本人が忘れてはならない歴史』
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_c_home&t...
に勝手に協賛しつつ、東京裁判など近代史は
素敵な書き手さんたちが既に書いてらっしゃるので
自分はもっと過去を振り返りつつ、「日本人ってすげーな」と思った人々の
偉人伝的なものを紹介し、日本人であることの誇りを思い出そう
という勝手企画です。
暇潰しの読み物としてどぞ。
興味を持っていただければ幸いです。


浮田幸吉(うきた こうきち)
ドイツのオットー・リリエンタ-ルが飛行装置で初飛行した1891年より100年前
それに刺激を受けたライト兄弟が動力飛行をした1903年より120年前に
空を飛んだとされる人です。

幸吉は1757年(宝暦13年)。
備前の国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)に生まれました。
当時漁港として、商船の寄港地として栄えていた場所です。
ここで宿屋『櫻屋』を営んでいたのが、幸吉の父清兵衛。
櫻屋の近くには小高い山があり、鳶がよく飛んでいたと言います。

次男だった幸吉が7歳の時、父が亡くなります。
残された母は親族会議の末、一旦一族が櫻屋を経営し、11歳の長男瀬平が成人したら継ぐことを決め
幼い兄弟たちはそれぞれ親族に預けられることになりました。
幸吉が預けられたのが、近所の傘屋でした。

翌日から、竹で骨組みを作り紙を貼って作る傘職人の修行の日々が始まります。
幼い幸吉は修行に励みつつも、よく空を飛ぶ鳥を見上げていたと言います。
幸吉が14歳になったとき、腕を認められ、
遠縁の万兵衛に、自分の店の表具屋で働かないかと勧められました。
結果的に、岡山の紙屋に預けられた弟の弥作と同居できる事になり、
幸吉は喜んで岡山へ移り住みます。

当時、備前藩の表具類はとても評判が良く、
池田藩主が幕府や諸大名へ屏風や掛け軸等多数を寄進したという記録も残っています。
万兵衛の店は池田藩御用達で、腕利きの職人がたくさんいました。
表具師は武家の屋敷へ出張し襖や壁紙を貼る仕事もこなします。
壁の横幅、高さを測り、必要な紙の枚数を算出しなくてはならないので、
幸吉は算数の知識も身につけることができました。
こうして25歳の頃には、評判の表具師になっていました。
幸吉は仕事の合間に近くの蓮昌寺へ息抜きに出掛け、親子が鳩に豆を与えるのをよく見ていたそうです。

ある日幸吉は、鳩のような羽を作って背中につければ
人間でも空を飛べるのではないか、と思いつきます。

店の二階にあった自分の部屋で、仕事の後研究を始めました。
鳩を捕まえてきて、体型や翼の形、長さ、重さを量り記録しました。
ときには解剖して記録するなど、レオナルド・ダ・ヴィンチさながらの研究熱心さでした。
その末に自分の身体に合う翼の大きさ等を計算し、設計図を作ります。
更に毎朝蓮昌寺に出かけ、鳩の飛び方を観察し、左右同時に翼を上下させる仕掛けを考案したのです。
これは飛行装置(今で言うグライダーのようなもの)でした。

時は江戸時代中期。鳥以外で空を飛ぶのは、天狗や龍、神様でした。
その中で空を飛ぼうという幸吉の発想は、かなり突拍子も無いものだったはずです。
まさか岡山城下で飛行試験をするわけにもいかないので、
盆休みに八浜へ帰った時にするため、翼は部品で作って八浜で組み立てようと決めます。

表具師の腕を活かし、竹で骨組みを作り、縄で固定して
耐水性のある土佐紙を貼って、一ヶ月ほどかけて
両翼が約5.4m、胴の長さが約1.8mある翼が完成しました。

しかし故郷の八幡宮の石段での実験は、助走距離と時間が短く失敗。
羽は壊れ、幸吉も左足を骨折してしまいました。

それでも幸吉は、「1回失敗しただけじゃ諦めない」と
失敗の原因を追究しました。

高さや助走距離の他に気が付いたのが、
鳶と鳩の飛び方の違いです。
羽ばたくことで体を持ち上げて飛ぶことは難しいと悟った幸吉。
羽ばたかず風に乗って飛ぶ鳶の研究が始まります。

『人間の筋力では羽ばたいて飛ぶことはできない』ことは
現在ではアルフォン・ボレリの理論として知る人も多いかもしれませんが
この時代に己の感覚のみで気が付いた幸吉の閃きには、
目を見張るものがあります。

実験に失敗して怪我をしたことから、幸吉が空を飛ぼうとしたことがばれ
周囲から「気がふれた」「天狗になるつもりらしい」と噂されましたが
幸吉は一向に諦めませんでした。

怪我が治り、幸吉は長屋での一人住まいを始めます。
鳥売りから鳶を買い、翼の仕組みを調べつくし、
竹ひごと紙で模型を作って何度も改良を重ねた上で
翼の作製にあたりました。
今度は9m×2mのサイズで、二つに分解できるように作りました。
強度をあげるため紙と布を張り、柿渋を塗りました。
方向を変えるために足を使って尾翼の調整が出来るようにもしました。

場所は旭川に架かる京橋。山からの風が吹く夜に、遂に決行します。
欄干から、橋の下から吹き上げる風に乗り旋回。
今回の実験結果は、飛行時間約10秒。距離は約30m。
天明5年(1785年)8月21日の事です。

一応の成功に喜んでいた幸吉でしたが、この様子を老夫婦が目撃。
「天狗が出た!」と大騒ぎになり、幸吉は捕まって牢屋に入れられてしまいます。
当時天明の大飢饉など天災で不穏な世の中。
それを更に騒がせて人々に不安を与えた罪で
所払い(追放)の処分を受けました。
これは藩主池田治政の温情と万兵衛の働きによるもので
一時は死罪になるところだったようです。

岡山城下を所払いになったので、八浜へ移り、商家橋本屋の手伝いをしました。
船での配送業務で江戸や博多へ赴く日々の中で、歯車仕掛けの時計を知ります。
その後駿府の府中(現在の静岡市)江川町で雑貨屋備前屋を始めます。
繁盛したので兄の子どもで、養子の幸助に託し、幸吉は名古屋時計と入れ歯の店をしながら
こっそりとまた飛行の研究を始めました。
器用な幸吉が作るツゲの入れ歯は有名になり、時計より歯医者業の方が
比重が重くなっていたようです。
時々子どもたちと一緒に河原で駿河凧をあげて遊びつつ
50歳になった幸吉はもう一度空を飛んでみようと決意します。

所払いになってからの経験を活かし、
歯車と滑車を使って翼を動かすからくり(時計)
平地から紐で引っ張り上空へ飛び立つ曳航方式(凧)
を入れて考案し、翼が12m、胴が1.8mの翼を作ります。
箱型の胴体に腹這い、手で紐を引いて翼を動かし、足で尾翼調整をする
さながら人間サイズの飛行機でした。

幸吉は河原で、川渡しの船に頼み込み、機体を曳航してもらいました。
今度は数十秒間、以前よりずっと上空を滑空し続けました。
現代で言うならパラセーリングというところでしょうか。
船頭たちは、
「頭のおかしいじいさんの言うことをお金をもらってきいてやった」
つもりでいたので、本当に空を飛び上がった幸吉を見て
びっくりして腰を抜かしたそうです。

ですが今回も町奉行所に呼び出され、入牢。
駿府は徳川家のお膝元でもあり、どこかの外様大名の間者の嫌疑を受け
厳しい取調べを受ける羽目になります。
またしても騒乱罪で府中城下を所払いになってしまいました。

幸吉の入れ歯を愛用していた見附宿(現在の静岡県磐田市)の香具師の親分大和田友蔵が呼んでくれて
幸吉は見附に住むことになり、小さい一膳飯屋を営み
弘化4年(1847年)8月21日 91歳の天寿を全うしました。

※二度目の滑空で死罪になったという説もあります。


航空界における偉業とも言える"鳥人"幸吉。
戦前の尋常小学校では学ばれていました。
しかし戦後学校教育では全く触れられなくなりました。
初めて空を飛んだ人は と言えば、
リリエンタールやライト兄弟を思い浮かべる人が多いでしょう。
実は彼らより100年以上前に紙と竹で空を飛んだ人物がいた。
それが浮田幸吉なのです。


参考
「飛行機とともに-羽ばたき機からSSTまで」斎藤茂太
「日本航空發達史」相模書房
「鳥人表具師・幸吉」渡辺知水
「鳥人桜屋幸吉を偲ぶ」貝原璋
「『鳥人幸吉』史料の分析」北村章
「筆のすさび」管茶山
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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