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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.12.04 Wed
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2008.12.12 Fri
柴 司(しば つかさ)

弘化元年2月14日(1844年4月1日)生まれ。
姓は柴(しば)、諱(いみな)は次正(つぐまさ又はつぎまさ)、幼名は又四郎(またしろう)のち司(つかさ)。
父は柴友右衛門次直、母は西郷氏。
幾馬次俊、寛次郎次久、外三郎次元の3人の兄がいました。
幕末の京都に駐留していた会津藩士のひとりです。

元治元年6月5日(1864年7月8日)
池田屋事件(池田屋騒動、 池田屋事変、三条小橋の変、洛陽動乱などとも言う)勃発。
長州藩は八月十八日の政変で失脚し、表向き京都から追い出されていました。しかし公武合体派が主流となっていた政局を尊皇攘夷派が挽回しようと、密かに京の町に多数が潜伏していました。
新選組はそれらを探し、取り締まる中で、捕らえた古高俊太郎から、
風の強い日に御所に火をつけ、その混乱に乗じて要人を暗殺し孝明天皇を長州へ連れ去る計画があることを知ります。
新選組は近藤隊10人・土方隊24人の二手に分かれて京の町を虱潰しに当たり、池田屋で謀議中の20数名を発見し、たった4名で斬り合いとなりました。
知らせを聞いて土方らが駆けつけ優勢になると、捕縛に切り替えました。
数名の尊攘過激派は逃走しましたが、翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと共に20余名を捕縛しました。
御所焼き討ちの計画を未然に防いだことで、新選組は名をあげました。
警備要員として貸して欲しいと会津藩に要請がきたりもしました。

6月8日
五条大橋に池田屋事件批判の貼紙がされます。
長州人が新選組屯所に切り込むとの噂も流れました。
※当時は貼紙や立て札で声明を出すことがよくありました。
※庶民にとっては、実際には起きなかった御所焼き討ちよりも、目の前で血刀を下げて歩いている新選組の方が恐ろしく感じられたようです。
京の人にとっては、東側から来た新参者よりも西側の人間の方が親しみがあり、長州藩側に肩入れをして匿ったり
「御所焼き討ちなど新選組が流したデマに決まっている」と言う人もいました。
尊攘派の様々な人間が新選組を批判することで、世論を味方につけようとしたのです。

6月9日
新選組は京都守護職に援軍を要請。
会津藩士が加勢として新選組に合流します。
浪士の残党狩りを京都守護職から命じられており、日々の市中警護を強化させていました。

6月10日
幕府から諸藩へ、池田屋事件の残党狩りが命じられます。
洛東の聖護院で雑掌を務めていた2人が捕縛され、尋問により
東山の料亭・明保野(あけぼの、曙とも)に浪士数人が密会をしているという情報を得た、と町奉行より新選組に伝えられます。
明保野亭は当時、料亭と旅宿を兼ねており、志士による密議にもよく利用されていました。土佐の坂本龍馬の常宿の1つとも言われています。
※現在も東山区清水三年坂(産寧坂)に現存。
※当時は建物の二階より、京都の町並みが一望できたため、追っ手の行動がよくわかったそうです。

副長助勤の武田観柳斎率いる新選組隊士15名(10名説あり。沖田、原田、井上らという説も。)が出動。
会津藩士柴司(しばつかさ)、田原四郎、石塚勇吉、常盤常次郎、両角太郎ら5名も共に向かいました。
柴は一階を担当しましたが誰もおらず、そのうち二階が騒がしくなって侍が2名逃げてきたところに、
武田が「柴さん、そいつを捕まえてくれ。逃がすな」と言うので追いかけたところ、垣根を破って逃走しようとしたので、腰あたり(股だったとも)を背後から槍で突き、捕縛しました。
※資料により、
踏み込んだところ数名で酒を飲んでいた中の1人が突然逃げた
座敷に1人が酒を飲んでいたが逃げ出した
亭内を探したが異常はなく、庭を捜索中に二階に隠れていた二人の武士が飛び降りてきた
名前を聞くと答えずに抵抗したので刺した
などの食い違いが見られます。
※身分から見て、武田が柴たち会津藩士に対して指揮を執っていたのはおかしいのでは、という指摘もあります。

捕縛された男は、
「逃げるつもりはなかった。自分は土佐藩士だから突かないでくれ」と言います。
彼は長州志士ではなく、土佐藩家老福岡宮内家臣の麻田時太郎(時次郎との説もあり)でした。
柴たちは一旦麻田を奉行所へ引き渡したとも、その場で身元が判明して解放したとも言われています。

事を聞いた会津候容保は憂慮し、公用人の手代木直右衛門・小室金吾左衛門を河原町土佐藩邸に派遣して、事態の収拾にあたらせようとしました。
また、藩医渋沢昌益を派遣して麻田の傷の診察をさせました。
渋沢は案内されて麻田を診察し、居合わせた土佐藩医と意見交換した結果、命に別条はないと判断します。
土佐藩側も名乗らなかった麻田にも落ち度があるとの返答でした。

柴は大変動揺し、新選組の永倉新八が
「相手が逃げたのだから無理も無い、君がしたことは間違っていない」
と励ましたとも伝えられます。
※当時は誤認による殺傷も許可されるという特別条項があったので
尚の事柴に落ち度は無かったのです。

この頃の土佐藩は藩主山内容堂のもと公武合体を支持しており、会津藩との関係も良好でしたが、内部には土佐勤王党など倒幕を目論む勢力もありました。
この事件が引き鉄になり、過激派の面々は新選組を恨み屯所を襲撃しようと言い出します。わざわざ土佐藩から、会津藩を通して新選組に
「新選組を皆殺しにする」と通達が入ったとも言われます。
屯所では警備を厳重にし、会津の本陣である黒谷にも警戒を促す使者を送りました。

6月11日
一晩で土佐藩の態度は硬化します。
会津藩の公用方が再度医者を連れて見舞いに出向いても
「当藩では士道に背いた者の治療はしないので必要無い」
と門前払いされます。
※麻田が自ら「手傷を負った武士は、もはやこれまでと覚悟するもの」と断ったとする説あり。

麻田は後ろ傷を負わされながら立ち合わなかった士道不覚悟の理由で、土佐藩邸内で切腹となります。(享年35歳)
※自ら死を選んだのか、命によってなのかは諸説あり。

食い止めようと間に入っていた会津藩の千葉次郎も、土佐藩邸で切腹したという話があります。
※資料が極端に少なく詳細は不明です。

柴が会津本陣へ呼ばれ、心配した近藤、土方、永倉は、ただちに後を追いかけたとも伝わります。
町奉行所と容保へ新選組として柴の無実を報告し、助命嘆願したそうです。
しかし麻田が切腹した事により、会津藩が土佐藩との関係を続けていく為には、柴に対してもなんらかの処断を下さねば会津の顔が立ちません。
松平容保は、柴司の組頭である加賀屋左近に
「自分の口から、柴に藩の為に死んでくれとはとても言えない」
と泣きながら言ったそうです。

6月12日
柴は親族らに代役を立てて切腹してはどうかと言われますが
責任を重く受け止めていた柴は
「自分のせいで懇意であった土佐公と肥後守(ひごのかみ。松平容保のこと)が断交となってはいけない」
と自ら切腹を決意。風呂に入って体を清め、髪を結いなおして衣服を改め
兄(幾馬とも外三郎とも言われる)の介錯で切腹しました。享年21歳。
※土佐藩の人間が立ち会ったという話もあり。

柴は麻田が切腹したことは知らずに切腹を決めたとも言われています。
柴は自ら犠牲となる事で両藩の関係悪化を食い止め、この一件で土佐藩と会津藩の絆はますます強くなったとされます。

6月13日
柴の葬儀が執り行われました。
新選組からは局長の近藤勇を始め面々から香典が送られ、土方歳三・井上源三郎・武田観柳斎・河合耆三郎・浅野藤太郎(薫)が参列しました。
柴の兄、幾馬によれば、一同は柴の体に触れ、声をあげて泣いていたそうです。特に土方はかなり取り乱していたとも言われます。
新選組の隊士の多くは、農家出身など生粋の武士ではありませんでした。
土方などはこの一件で、武士として、藩のために・国のために尽くすとはどういうことかを、副長として思い知らされたのではないでしょうか。
この経験が、後に鬼と恐れられた冷血なほどに厳しい隊士への取り締まりぶりにつながったのでは、と見る人もいます。
浅野と武田で弔歌を詠みました。武田の歌が残っています。
『我も同じ 台(うとな)やとはん ゆくすえは
同じ御国に あふよしもかな』

新選組の五人は遺族と共に墓所まで柴を見送りに行ったそうです。

明保野亭事件で柴が使った鎖帷子と槍は、永倉から借りていたもので、
遺族に望まれ永倉は遺品として贈ります。

潔い最期に対して会津藩主松平容保は長兄の幾馬に白金を賜い、
三兄の外三郎を新たに外様組附とし、俸米を賜い
柴の霊を弔ったと言います。

京都黒谷金戒光明寺の会津墓地にある柴司の墓誌には、
『よく言われるのは、難しいのは死ぬことではなく潔く死に臨むことだ。
柴は、本当に潔く立派に死んだ者だというべきだろう。
この頃世間は尊攘を唱え、不逞の輩が集まり流言や暴行の限りを尽くした。
屡、京の都は脅かされ正に不測の状態で動揺していた。』
『もしこの日に死なず禁門の変に参戦していたなら、大活躍していただろうに残念だ』
と書かれてあります。
法名は忠信院盡孝刃司居士です。


参考
「甲子雑録」
「会津藩庁記録」
「維新前後の会津の人々」相田泰三
「幕末維新人名事典」新人物往来社
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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