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ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2024.12.04 Wed
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2008.11.14 Fri
これはコミュニティ『日本人が忘れてはならない歴史』
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_c_home&t...
に勝手に協賛しつつ、東京裁判など近代史は
素敵な書き手さんたちが既に書いてらっしゃるので
自分はもっと過去を振り返りつつ、「日本人ってすげーな」と思った人々の
偉人伝的なものを紹介し、日本人であることの誇りを思い出そう
という勝手企画です。
暇潰しの読み物としてどぞ。
興味を持っていただければ幸いです。


浮田幸吉(うきた こうきち)
ドイツのオットー・リリエンタ-ルが飛行装置で初飛行した1891年より100年前
それに刺激を受けたライト兄弟が動力飛行をした1903年より120年前に
空を飛んだとされる人です。

幸吉は1757年(宝暦13年)。
備前の国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)に生まれました。
当時漁港として、商船の寄港地として栄えていた場所です。
ここで宿屋『櫻屋』を営んでいたのが、幸吉の父清兵衛。
櫻屋の近くには小高い山があり、鳶がよく飛んでいたと言います。

次男だった幸吉が7歳の時、父が亡くなります。
残された母は親族会議の末、一旦一族が櫻屋を経営し、11歳の長男瀬平が成人したら継ぐことを決め
幼い兄弟たちはそれぞれ親族に預けられることになりました。
幸吉が預けられたのが、近所の傘屋でした。

翌日から、竹で骨組みを作り紙を貼って作る傘職人の修行の日々が始まります。
幼い幸吉は修行に励みつつも、よく空を飛ぶ鳥を見上げていたと言います。
幸吉が14歳になったとき、腕を認められ、
遠縁の万兵衛に、自分の店の表具屋で働かないかと勧められました。
結果的に、岡山の紙屋に預けられた弟の弥作と同居できる事になり、
幸吉は喜んで岡山へ移り住みます。

当時、備前藩の表具類はとても評判が良く、
池田藩主が幕府や諸大名へ屏風や掛け軸等多数を寄進したという記録も残っています。
万兵衛の店は池田藩御用達で、腕利きの職人がたくさんいました。
表具師は武家の屋敷へ出張し襖や壁紙を貼る仕事もこなします。
壁の横幅、高さを測り、必要な紙の枚数を算出しなくてはならないので、
幸吉は算数の知識も身につけることができました。
こうして25歳の頃には、評判の表具師になっていました。
幸吉は仕事の合間に近くの蓮昌寺へ息抜きに出掛け、親子が鳩に豆を与えるのをよく見ていたそうです。

ある日幸吉は、鳩のような羽を作って背中につければ
人間でも空を飛べるのではないか、と思いつきます。

店の二階にあった自分の部屋で、仕事の後研究を始めました。
鳩を捕まえてきて、体型や翼の形、長さ、重さを量り記録しました。
ときには解剖して記録するなど、レオナルド・ダ・ヴィンチさながらの研究熱心さでした。
その末に自分の身体に合う翼の大きさ等を計算し、設計図を作ります。
更に毎朝蓮昌寺に出かけ、鳩の飛び方を観察し、左右同時に翼を上下させる仕掛けを考案したのです。
これは飛行装置(今で言うグライダーのようなもの)でした。

時は江戸時代中期。鳥以外で空を飛ぶのは、天狗や龍、神様でした。
その中で空を飛ぼうという幸吉の発想は、かなり突拍子も無いものだったはずです。
まさか岡山城下で飛行試験をするわけにもいかないので、
盆休みに八浜へ帰った時にするため、翼は部品で作って八浜で組み立てようと決めます。

表具師の腕を活かし、竹で骨組みを作り、縄で固定して
耐水性のある土佐紙を貼って、一ヶ月ほどかけて
両翼が約5.4m、胴の長さが約1.8mある翼が完成しました。

しかし故郷の八幡宮の石段での実験は、助走距離と時間が短く失敗。
羽は壊れ、幸吉も左足を骨折してしまいました。

それでも幸吉は、「1回失敗しただけじゃ諦めない」と
失敗の原因を追究しました。

高さや助走距離の他に気が付いたのが、
鳶と鳩の飛び方の違いです。
羽ばたくことで体を持ち上げて飛ぶことは難しいと悟った幸吉。
羽ばたかず風に乗って飛ぶ鳶の研究が始まります。

『人間の筋力では羽ばたいて飛ぶことはできない』ことは
現在ではアルフォン・ボレリの理論として知る人も多いかもしれませんが
この時代に己の感覚のみで気が付いた幸吉の閃きには、
目を見張るものがあります。

実験に失敗して怪我をしたことから、幸吉が空を飛ぼうとしたことがばれ
周囲から「気がふれた」「天狗になるつもりらしい」と噂されましたが
幸吉は一向に諦めませんでした。

怪我が治り、幸吉は長屋での一人住まいを始めます。
鳥売りから鳶を買い、翼の仕組みを調べつくし、
竹ひごと紙で模型を作って何度も改良を重ねた上で
翼の作製にあたりました。
今度は9m×2mのサイズで、二つに分解できるように作りました。
強度をあげるため紙と布を張り、柿渋を塗りました。
方向を変えるために足を使って尾翼の調整が出来るようにもしました。

場所は旭川に架かる京橋。山からの風が吹く夜に、遂に決行します。
欄干から、橋の下から吹き上げる風に乗り旋回。
今回の実験結果は、飛行時間約10秒。距離は約30m。
天明5年(1785年)8月21日の事です。

一応の成功に喜んでいた幸吉でしたが、この様子を老夫婦が目撃。
「天狗が出た!」と大騒ぎになり、幸吉は捕まって牢屋に入れられてしまいます。
当時天明の大飢饉など天災で不穏な世の中。
それを更に騒がせて人々に不安を与えた罪で
所払い(追放)の処分を受けました。
これは藩主池田治政の温情と万兵衛の働きによるもので
一時は死罪になるところだったようです。

岡山城下を所払いになったので、八浜へ移り、商家橋本屋の手伝いをしました。
船での配送業務で江戸や博多へ赴く日々の中で、歯車仕掛けの時計を知ります。
その後駿府の府中(現在の静岡市)江川町で雑貨屋備前屋を始めます。
繁盛したので兄の子どもで、養子の幸助に託し、幸吉は名古屋時計と入れ歯の店をしながら
こっそりとまた飛行の研究を始めました。
器用な幸吉が作るツゲの入れ歯は有名になり、時計より歯医者業の方が
比重が重くなっていたようです。
時々子どもたちと一緒に河原で駿河凧をあげて遊びつつ
50歳になった幸吉はもう一度空を飛んでみようと決意します。

所払いになってからの経験を活かし、
歯車と滑車を使って翼を動かすからくり(時計)
平地から紐で引っ張り上空へ飛び立つ曳航方式(凧)
を入れて考案し、翼が12m、胴が1.8mの翼を作ります。
箱型の胴体に腹這い、手で紐を引いて翼を動かし、足で尾翼調整をする
さながら人間サイズの飛行機でした。

幸吉は河原で、川渡しの船に頼み込み、機体を曳航してもらいました。
今度は数十秒間、以前よりずっと上空を滑空し続けました。
現代で言うならパラセーリングというところでしょうか。
船頭たちは、
「頭のおかしいじいさんの言うことをお金をもらってきいてやった」
つもりでいたので、本当に空を飛び上がった幸吉を見て
びっくりして腰を抜かしたそうです。

ですが今回も町奉行所に呼び出され、入牢。
駿府は徳川家のお膝元でもあり、どこかの外様大名の間者の嫌疑を受け
厳しい取調べを受ける羽目になります。
またしても騒乱罪で府中城下を所払いになってしまいました。

幸吉の入れ歯を愛用していた見附宿(現在の静岡県磐田市)の香具師の親分大和田友蔵が呼んでくれて
幸吉は見附に住むことになり、小さい一膳飯屋を営み
弘化4年(1847年)8月21日 91歳の天寿を全うしました。

※二度目の滑空で死罪になったという説もあります。


航空界における偉業とも言える"鳥人"幸吉。
戦前の尋常小学校では学ばれていました。
しかし戦後学校教育では全く触れられなくなりました。
初めて空を飛んだ人は と言えば、
リリエンタールやライト兄弟を思い浮かべる人が多いでしょう。
実は彼らより100年以上前に紙と竹で空を飛んだ人物がいた。
それが浮田幸吉なのです。


参考
「飛行機とともに-羽ばたき機からSSTまで」斎藤茂太
「日本航空發達史」相模書房
「鳥人表具師・幸吉」渡辺知水
「鳥人桜屋幸吉を偲ぶ」貝原璋
「『鳥人幸吉』史料の分析」北村章
「筆のすさび」管茶山
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。

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