ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2008.12.19 Fri
木村銃太郎
二本松藩 砲術師範・木村貫治の長男。1845年生まれ。
背丈は約174cmで、当時ではかなり背が高く整った顔立ちをしていたそうです。
厳しくも優しく、笑うと笑窪が出たともいいます。
※二本松藩
現在の福島県二本松周辺。
安政5年11月~慶応3年 江戸湾富津海岸警備に当たる。
文久3年 藩主長国が京都警護の為上洛。
元治元年 天狗党騒動鎮圧に出兵。
藩財政は困窮を極めていた。
『死を賭して信義を守る事こそ、二本松武士の本懐である』が信条。
藩士の家庭では毎朝ご飯の前に母親より切腹の作法を箸で教えらたそうです。
慶応元年(1863年)
藩命を受け銃太郎は江戸へ向かいます。
西洋学問所『江川塾』で約4年間西洋流砲術を学びました。
※他に江川塾で学んだのは、福沢諭吉、榎本武揚、大鳥圭介などです。
慶応3年(1867年)
帰藩して、父・貫治の砲術道場で指導に当たります。
新式銃隊装備と洋式訓練の意見書を藩庁に提出しましたが、藩財政困難のため認められませんでした。
※当時は鉄砲=足軽が持つもの、武士の使うものではない
という戦国時代の感覚が主流だったので、財政を切り詰めてまで鉄砲を仕入れる必要性を感じていなかったのです。
藩から許可されたのは元服前の少年に教えること。
結果、門弟は13~14歳の少年が多くなりました。
22歳だった銃太郎は親しまれました。
銃太郎は個別に徹底的に基本を叩き込み、体の小さな少年たちでも取れる射撃の姿勢をえるなど、丁寧な指導をしました。
「若先生」「小先生」と尊敬されていたそうです。
10月13日
大政奉還
10月14日
岩倉具視らが薩長に倒幕の密勅を下し、会津・桑名藩は幕賊を助けたという理由で賊軍とされます。
12月9日
王政復古の大号令
会津藩主松平容保がつとめた京都守護職は廃止されます。
慶応4年(1868年)1月
鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れます。
2月
容保は帰国し謹慎。朝廷に20数回に渡り藩の嘆願書を提出しますが、容れられません。
3月
新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝は、仙台藩、米沢藩をはじめとする奥羽諸藩に会津藩の追討令を出します。
二本松藩は、なんの恨みもない会津と戦いたくはなく、かと言って総督の命令に反するわけにもいかず、微妙な立場でした。
3月22日
徳川慶喜の命で白河城に居城していた阿部正静から、二本松藩主丹羽が城を受け取ります。
慶応4年(1868年)4月5日
総督府参謀世良修蔵と大山格之助らが白河城に入ります。
閏4月11日
奥羽越24藩で白石城に集まって話し合い、『諸藩重臣副嘆願書』を添えて、会津藩の『謝罪嘆願書』を提出しますが、
翌12日 世良は列藩の誠意を疑い、総督府が却下するよう画策しました。
会津討伐に行かないのは怠慢であるとの指摘も受けてしまいます。
18日
20日に会津藩が白河城を襲撃するという知らせが入り、世良は城を焼き脱します。
19日
世良は、新庄に駐在する大山格之助参謀に宛てて、
「奥羽諸藩に会津討伐の意志はない。奥羽諸藩も敵であり討伐すべし」との密書を送っています。
30日
世良の態度に憤慨した仙台藩士姉歯武之進・赤坂幸太夫らが
福島・北町の旅館に泊まっていた世良を暗殺します。
5月1日
白河城が政府軍の手に落ちます。
参謀の板垣退助が土佐兵と共に入りました。
5月3日
仙台藩・米沢藩・秋田藩・盛岡藩・二本松藩などによる奥羽列藩同盟が結成されます。
さらに北越の長岡藩・新発田藩など7藩が加わり、ここに奥羽越32藩による奥羽越列藩同盟が成立。
政府軍に反旗を翻すことになります。
※新政府は薩長など2、3の藩が作ったもの。天皇を利用して自分たちが天下を取ろうとしているだけ。
薩長も徳川の恩恵を受けた大名なのに、手のひらを返して徳川を攻め立てるのはおかしい。
と言った考えを持つ者は多く、会津に同情的な藩は多かったのです。
二本松藩は当初日和見の立場をとっており、会議での発言権も主導権もなく、大勢を見極めることができませんでした。
藩の財政は逼迫しており、重臣たちは領内を走り回り御用金を命じて戦費を調達しました。
領民たちは戦に自分たちが借り出されることは無いと思い、金や武具を提供しました。
5月16日
白河口の戦いを皮切りに、海岸線の平潟から平、会津国境、北陸方面へと戦線は拡大します。
諸藩は戦術と兵器の差で敗退し、退却か降伏を余儀なくされました。
26日
東北諸藩が白河城奪回を試みますが成らず。
6月12日
白河城奪回、再度失敗。
数度に渡る白河城奪回作戦も実らず、逆に白河城に続き、棚倉城が落ちてしまいます。
7月
新政府軍は白河城を拠点に、会津藩の周りにある小藩から攻略していくという大村益二郎の方針に従って、軍を北上させました。
海路から攻められ、平潟、湯長谷、泉、平城が落ちます。
秋田藩が同盟を離脱。
12日
白河城奪還、失敗。
25日
白河方面ではその最前線に立たされた三春藩・守山藩が政府軍へ寝返ってしまいます。
※三春藩
尊皇色が強く、奥羽越列藩同盟結成の時は、新政府側に
「同盟に参加しなければ小藩ゆえに滅ぼされるかもしれないので、やむをえず同盟に参加する」
と使者を送っていました。
※元々薩長への憎悪から結びついた同盟。戦局が不利になれば、脱落が相次ぐのも当然でした。
26日
板垣退助率いる新政府軍主力部隊が三春城に入ります。
慶応4年(1868年)7月27日
三春藩兵が案内をし、政府軍阿武隈川を越えて本宮まで進軍。二本松城と藩兵団の間を中央突破しました。
その上二本松藩の側面を薩長軍を主軸とする別働隊が包囲しました。
※三春藩投降が伝わっていなかった現場では、援軍が到着したと勘違いし、攻撃を受けてかなりの被害が出てしまいます。
二本松藩は、奥羽越列藩同盟のためを白河はじめ諸方面に兵員を派遣していた為
二本松城を守っていた正規兵はほんの僅かでした。
また、本宮の軍勢に阻まれて二本松に戻ることもできませんでした。
28日
家老丹羽一学は、藩主丹羽長国を米沢に逃がします。
藩士の60歳以上の老人兵と16歳以上の少年(元服済)の若年兵と敗残兵で防衛隊を編成し派遣します。
それでも人手が足りない状況に、少年たちが
「出陣したい」と志願しました。
二本松藩では15歳以下の者の従軍は許されていません。
重臣達は「若い命を粗末にしてはいけない」と説得しますが、
少年達は自分たちもこの国や家族を守りたいと訴えました。
銃太郎が門下の幼年兵の出陣を藩に申請し、結局藩は黙認。
二本松少年隊が結成されます。
他にも少年達が多数志願。藩校の敬学館には63名の少年達が集結。
銃砲部隊を編成しました。
銃太郎隊は城下南方の大壇口の小高い丘で守備に就きます。
隊員は23名のはずが、開戦直前の点呼の際には25人いたとも伝わります。
(理由ははっきりとわかっていません)
※銃太郎は呼称上『隊長』でしたが、実際に隊長という役職はなく
『幼年兵世話係』でした。
銃太郎たちは官軍を迎え撃つ為、まず地面に杭を打ち込みました。
それに横木を渡して、近くの民家から借りてきた古畳を二枚ずつ並べて縄で結わえ付け、即席の砲弾避けを作り、一夜を明かしました。
装備は旧式銃と大砲が一門のみ。服装もまちまちでした。
砲車が溝に落ちると子供たちの力では引き上げることすら苦労したそうです。
29日
早朝。備前、薩摩、長州、彦根、大垣、黒羽、土佐、館林、佐土原、忍(おし)の諸藩による兵力が、二本松城を目指して進行。
正法寺口が敗れ、東方の供中口も敗れました。
板垣退助の主力部隊は、大壇口への攻撃を開始します。
政府軍は隊伍を組んだまま密集して進軍し、射程距離に入って来たので
銃太郎の指令で集中砲火を浴びせます。
精度の高い砲撃は、政府軍を苦戦させました。
※『太政官日誌』に、突破できずに作戦を変更し、一小隊を二分して一手は大砲、一手は間道より攻撃して破ったとあります。
※戊辰戦争で一番の激戦だったとの、政府軍の人間の言葉も残っています。
敵の砲撃部隊が到着。しかも装備は最新式。
徐々に兵力の優る政府軍が盛り返します。
前方の敵が側面に回りこみ、攻撃が更に激化。
銃太郎は城までの撤退戦を決意。
隊士を逃がそうと努力しますが、左の二の腕に被弾し重傷を負ってしまいます。
銃太郎は近くにいた少年たちに銃創の手当のやり方を教えたそうです。
手当を済ませた銃太郎は、隊士達を励まし尚も指揮を執り続けました。
しかし更に左腰に被弾し、銃太郎はその場に倒れました。
副隊長の二階堂衛守がすぐに駆け寄り助けようとしました。
※二階堂は銃太郎のひとつ年上でしたが、銃太郎を尊敬し、支え続けた副隊長でした。
銃太郎は致命傷であることを察しており、
「この傷では助からない」と介錯を頼みます。
二階堂は泣きながら銃太郎の首を落とし、「みんなを頼む」という
隊長の最後の命令を遂行しようとしました。
城へ戻る途中、歴代藩主の菩提寺である大隣寺があったので
銃太郎の首を埋葬しようとします。
ところが政府軍に遭遇し、戦闘中に二階堂までもが命を落とします。
少年たちは散り散りになりました。
家族から
「子供なのだから太刀打ちするな、隊長と思われる敵を身体で刺せ」
と教えられていた少年たちは、それを実行し、一人一刺をして悲壮な討ち死にを遂げました。
その中で、どうにか銃太郎の首を守ります。
子どもの腕に大人の首は重く、二人で髪を引いて持ったそうです。
なんとか首を埋葬し城へ向かいました。
※場所はわかっていません。
しかし、二本松城は政府軍の猛攻に耐え切れませんでした。
昼過ぎ。丹羽一学たちは本丸に自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自刃しました。
二本松藩が陥落したことで、仙台と会津を繋ぐルートがなくなり、会津の東側は政府軍に完全制圧されたことになります。
こうして戊辰戦争の次なる舞台は、会津藩へと移ることになるのです。
参考
「新編 物語藩史」
「白虎隊と二本松少年隊―幕末を駆け抜けた若獅子たち」星亮一
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。
二本松藩 砲術師範・木村貫治の長男。1845年生まれ。
背丈は約174cmで、当時ではかなり背が高く整った顔立ちをしていたそうです。
厳しくも優しく、笑うと笑窪が出たともいいます。
※二本松藩
現在の福島県二本松周辺。
安政5年11月~慶応3年 江戸湾富津海岸警備に当たる。
文久3年 藩主長国が京都警護の為上洛。
元治元年 天狗党騒動鎮圧に出兵。
藩財政は困窮を極めていた。
『死を賭して信義を守る事こそ、二本松武士の本懐である』が信条。
藩士の家庭では毎朝ご飯の前に母親より切腹の作法を箸で教えらたそうです。
慶応元年(1863年)
藩命を受け銃太郎は江戸へ向かいます。
西洋学問所『江川塾』で約4年間西洋流砲術を学びました。
※他に江川塾で学んだのは、福沢諭吉、榎本武揚、大鳥圭介などです。
慶応3年(1867年)
帰藩して、父・貫治の砲術道場で指導に当たります。
新式銃隊装備と洋式訓練の意見書を藩庁に提出しましたが、藩財政困難のため認められませんでした。
※当時は鉄砲=足軽が持つもの、武士の使うものではない
という戦国時代の感覚が主流だったので、財政を切り詰めてまで鉄砲を仕入れる必要性を感じていなかったのです。
藩から許可されたのは元服前の少年に教えること。
結果、門弟は13~14歳の少年が多くなりました。
22歳だった銃太郎は親しまれました。
銃太郎は個別に徹底的に基本を叩き込み、体の小さな少年たちでも取れる射撃の姿勢をえるなど、丁寧な指導をしました。
「若先生」「小先生」と尊敬されていたそうです。
10月13日
大政奉還
10月14日
岩倉具視らが薩長に倒幕の密勅を下し、会津・桑名藩は幕賊を助けたという理由で賊軍とされます。
12月9日
王政復古の大号令
会津藩主松平容保がつとめた京都守護職は廃止されます。
慶応4年(1868年)1月
鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れます。
2月
容保は帰国し謹慎。朝廷に20数回に渡り藩の嘆願書を提出しますが、容れられません。
3月
新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝は、仙台藩、米沢藩をはじめとする奥羽諸藩に会津藩の追討令を出します。
二本松藩は、なんの恨みもない会津と戦いたくはなく、かと言って総督の命令に反するわけにもいかず、微妙な立場でした。
3月22日
徳川慶喜の命で白河城に居城していた阿部正静から、二本松藩主丹羽が城を受け取ります。
慶応4年(1868年)4月5日
総督府参謀世良修蔵と大山格之助らが白河城に入ります。
閏4月11日
奥羽越24藩で白石城に集まって話し合い、『諸藩重臣副嘆願書』を添えて、会津藩の『謝罪嘆願書』を提出しますが、
翌12日 世良は列藩の誠意を疑い、総督府が却下するよう画策しました。
会津討伐に行かないのは怠慢であるとの指摘も受けてしまいます。
18日
20日に会津藩が白河城を襲撃するという知らせが入り、世良は城を焼き脱します。
19日
世良は、新庄に駐在する大山格之助参謀に宛てて、
「奥羽諸藩に会津討伐の意志はない。奥羽諸藩も敵であり討伐すべし」との密書を送っています。
30日
世良の態度に憤慨した仙台藩士姉歯武之進・赤坂幸太夫らが
福島・北町の旅館に泊まっていた世良を暗殺します。
5月1日
白河城が政府軍の手に落ちます。
参謀の板垣退助が土佐兵と共に入りました。
5月3日
仙台藩・米沢藩・秋田藩・盛岡藩・二本松藩などによる奥羽列藩同盟が結成されます。
さらに北越の長岡藩・新発田藩など7藩が加わり、ここに奥羽越32藩による奥羽越列藩同盟が成立。
政府軍に反旗を翻すことになります。
※新政府は薩長など2、3の藩が作ったもの。天皇を利用して自分たちが天下を取ろうとしているだけ。
薩長も徳川の恩恵を受けた大名なのに、手のひらを返して徳川を攻め立てるのはおかしい。
と言った考えを持つ者は多く、会津に同情的な藩は多かったのです。
二本松藩は当初日和見の立場をとっており、会議での発言権も主導権もなく、大勢を見極めることができませんでした。
藩の財政は逼迫しており、重臣たちは領内を走り回り御用金を命じて戦費を調達しました。
領民たちは戦に自分たちが借り出されることは無いと思い、金や武具を提供しました。
5月16日
白河口の戦いを皮切りに、海岸線の平潟から平、会津国境、北陸方面へと戦線は拡大します。
諸藩は戦術と兵器の差で敗退し、退却か降伏を余儀なくされました。
26日
東北諸藩が白河城奪回を試みますが成らず。
6月12日
白河城奪回、再度失敗。
数度に渡る白河城奪回作戦も実らず、逆に白河城に続き、棚倉城が落ちてしまいます。
7月
新政府軍は白河城を拠点に、会津藩の周りにある小藩から攻略していくという大村益二郎の方針に従って、軍を北上させました。
海路から攻められ、平潟、湯長谷、泉、平城が落ちます。
秋田藩が同盟を離脱。
12日
白河城奪還、失敗。
25日
白河方面ではその最前線に立たされた三春藩・守山藩が政府軍へ寝返ってしまいます。
※三春藩
尊皇色が強く、奥羽越列藩同盟結成の時は、新政府側に
「同盟に参加しなければ小藩ゆえに滅ぼされるかもしれないので、やむをえず同盟に参加する」
と使者を送っていました。
※元々薩長への憎悪から結びついた同盟。戦局が不利になれば、脱落が相次ぐのも当然でした。
26日
板垣退助率いる新政府軍主力部隊が三春城に入ります。
慶応4年(1868年)7月27日
三春藩兵が案内をし、政府軍阿武隈川を越えて本宮まで進軍。二本松城と藩兵団の間を中央突破しました。
その上二本松藩の側面を薩長軍を主軸とする別働隊が包囲しました。
※三春藩投降が伝わっていなかった現場では、援軍が到着したと勘違いし、攻撃を受けてかなりの被害が出てしまいます。
二本松藩は、奥羽越列藩同盟のためを白河はじめ諸方面に兵員を派遣していた為
二本松城を守っていた正規兵はほんの僅かでした。
また、本宮の軍勢に阻まれて二本松に戻ることもできませんでした。
28日
家老丹羽一学は、藩主丹羽長国を米沢に逃がします。
藩士の60歳以上の老人兵と16歳以上の少年(元服済)の若年兵と敗残兵で防衛隊を編成し派遣します。
それでも人手が足りない状況に、少年たちが
「出陣したい」と志願しました。
二本松藩では15歳以下の者の従軍は許されていません。
重臣達は「若い命を粗末にしてはいけない」と説得しますが、
少年達は自分たちもこの国や家族を守りたいと訴えました。
銃太郎が門下の幼年兵の出陣を藩に申請し、結局藩は黙認。
二本松少年隊が結成されます。
他にも少年達が多数志願。藩校の敬学館には63名の少年達が集結。
銃砲部隊を編成しました。
銃太郎隊は城下南方の大壇口の小高い丘で守備に就きます。
隊員は23名のはずが、開戦直前の点呼の際には25人いたとも伝わります。
(理由ははっきりとわかっていません)
※銃太郎は呼称上『隊長』でしたが、実際に隊長という役職はなく
『幼年兵世話係』でした。
銃太郎たちは官軍を迎え撃つ為、まず地面に杭を打ち込みました。
それに横木を渡して、近くの民家から借りてきた古畳を二枚ずつ並べて縄で結わえ付け、即席の砲弾避けを作り、一夜を明かしました。
装備は旧式銃と大砲が一門のみ。服装もまちまちでした。
砲車が溝に落ちると子供たちの力では引き上げることすら苦労したそうです。
29日
早朝。備前、薩摩、長州、彦根、大垣、黒羽、土佐、館林、佐土原、忍(おし)の諸藩による兵力が、二本松城を目指して進行。
正法寺口が敗れ、東方の供中口も敗れました。
板垣退助の主力部隊は、大壇口への攻撃を開始します。
政府軍は隊伍を組んだまま密集して進軍し、射程距離に入って来たので
銃太郎の指令で集中砲火を浴びせます。
精度の高い砲撃は、政府軍を苦戦させました。
※『太政官日誌』に、突破できずに作戦を変更し、一小隊を二分して一手は大砲、一手は間道より攻撃して破ったとあります。
※戊辰戦争で一番の激戦だったとの、政府軍の人間の言葉も残っています。
敵の砲撃部隊が到着。しかも装備は最新式。
徐々に兵力の優る政府軍が盛り返します。
前方の敵が側面に回りこみ、攻撃が更に激化。
銃太郎は城までの撤退戦を決意。
隊士を逃がそうと努力しますが、左の二の腕に被弾し重傷を負ってしまいます。
銃太郎は近くにいた少年たちに銃創の手当のやり方を教えたそうです。
手当を済ませた銃太郎は、隊士達を励まし尚も指揮を執り続けました。
しかし更に左腰に被弾し、銃太郎はその場に倒れました。
副隊長の二階堂衛守がすぐに駆け寄り助けようとしました。
※二階堂は銃太郎のひとつ年上でしたが、銃太郎を尊敬し、支え続けた副隊長でした。
銃太郎は致命傷であることを察しており、
「この傷では助からない」と介錯を頼みます。
二階堂は泣きながら銃太郎の首を落とし、「みんなを頼む」という
隊長の最後の命令を遂行しようとしました。
城へ戻る途中、歴代藩主の菩提寺である大隣寺があったので
銃太郎の首を埋葬しようとします。
ところが政府軍に遭遇し、戦闘中に二階堂までもが命を落とします。
少年たちは散り散りになりました。
家族から
「子供なのだから太刀打ちするな、隊長と思われる敵を身体で刺せ」
と教えられていた少年たちは、それを実行し、一人一刺をして悲壮な討ち死にを遂げました。
その中で、どうにか銃太郎の首を守ります。
子どもの腕に大人の首は重く、二人で髪を引いて持ったそうです。
なんとか首を埋葬し城へ向かいました。
※場所はわかっていません。
しかし、二本松城は政府軍の猛攻に耐え切れませんでした。
昼過ぎ。丹羽一学たちは本丸に自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自刃しました。
二本松藩が陥落したことで、仙台と会津を繋ぐルートがなくなり、会津の東側は政府軍に完全制圧されたことになります。
こうして戊辰戦争の次なる舞台は、会津藩へと移ることになるのです。
参考
「新編 物語藩史」
「白虎隊と二本松少年隊―幕末を駆け抜けた若獅子たち」星亮一
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。
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