ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2009.02.13 Fri
岡部長常(おかべ ながつね)
1300石の旗本、岡部さん。若くして病死した彼の史料は、あまり多くは残されていません。
彼の長崎での功績を評価する、同時代の人々の史料の中に名前を見つけることが多いようです。
彼と接した諸国の人が、彼の開明的で温和な態度を賞讃しています。
●
文政八年(1825)
武蔵国に生まれます。幼名は彦十郎。
父は太田運八郎です。
後に旗本岡部長英の養子となります。
安政二年(1855)9月
長崎海軍伝習所に目付として長崎に赴任します。
前年に目付として赴任していた永井尚志が7月に海軍伝習所の総取締となっていました。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
日蘭和親条約が結ばれます。
10月24日 海軍伝習所開所
鎖国から開国への過渡期にあったこの時期、長崎にいた岡部と永井は、海軍等の充実が急務だと考えていました。
永井と相談し、幕府がいつまでも回答を寄越さない為独断で製鉄所建設を決定。
踏み絵廃止、英語伝習所創設などにも踏み切ります。
安政四年(1857)閏5月
松本良順が伝習所へやってきます。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
岡部は永井が江戸へ戻った後、木村芥舟(かいしゅう)が赴任するまでの間
臨時で伝習所総取締を務めました。
この頃の伝習所は、多くの生徒が遊郭に入り浸るなど風紀が乱れていたようです。
奉行所は伝習生らを別格として扱い、取り締りの対象としなかったことが乱れに拍車をかけました。
岡部は木村と協力して風紀の引き締めを行いました。
悪所通は宿舎の部屋が狭い故のストレスでは、と。伝習所近辺の空き屋敷を借り上げて住環境を改善します。
長崎周辺の狭い海域に限られて行われていた訓練航海を他藩の領海を含めた広い海域で行えるようにもしました。
12月
長崎奉行に就任します。
安政五年(1858)8月17日
日蘭通商修好条約が結ばれます。
岡部が交渉を担当しました。
岡部、永井、岩瀬忠震が国王宛の書簡として起案。
海防懸、評定所一座、箱館・浦賀・下田の各奉行などが意見を付し、最後に老中がオランダ政府諸公宛の書簡に書き改めました。
安政六年(1859)
ポンペ、松本らの意見を容れて、解剖・病院設立・貧民医療などに便宜を図ります。
※プロイセン使節団のヴェルナー艦長は
「絶対専制支配が行われている日本だが、立憲的なヨーロッパの諸国家より個人の権利は守られている」
と述べています。
病院建設の為、ポンペが適した場所を探しましたが、そこは農民が畑を持っている丘の頂上でした。
岡部は農夫に土地を売って欲しいと頼み、断られると相場の三倍ほどの金額を提示しましたが、どんな条件を出されようとも売らない、と断られます。
そこで岡部は強制的に土地を取り上げることをせず、別の建設用地を探させたことがヴェルナーには驚きだったようです。
真偽の程は分かりませんが、岡部らしいエピソードと言えます。
※ポンペも岡部のことを、
「文化人で立派な働き者。母国日本の発展と繁栄に繋がることなら何でも大胆に行動した。多くの悪弊は彼によって打破された」
と評価しています。
2月9日
幕府からの伝習中止命令に対し、松本だけでも残って医学を学べるよう井伊大老に願い出ます。
(井伊の機転により、黙認されます。)
※ロシア総督リハチョフと交流しつつ岡部に働きかけていたのがシーボルトは
“シーボルト事件”で追放・再渡航禁止処分となっていました。
日蘭通商条約締結で処分解除となり、再来日して幕府の外交顧問となります。
長崎のみの開港を主張し、長崎の優遇策と自由港化を提言しました。
それにはオランダ側外交官は批判的で、岡部自身も、シーボルトが外交問題に関与しようとすることには閉口していたようです。
文久元年(1861)11月
外国奉行に就任します。
文久二年(1862)6月
大目付就任。(旗本最高位)
7月9日
越前藩用人中根靭負(春嶽の謀臣であった中根雪江)が岡部を訪ね、家門筆頭である福井藩主が他大名と同格の大老に就任するというのは受けがたいと申し出ます。
岡部はこれを容れ、その日閣老の会議で松平春嶽のポストを「政事総裁職」にすることを提案。
薩摩藩島津久光ら尊王攘夷派が春嶽と一橋慶喜の登用を幕府に求めていたこともあり
春嶽は謹慎処分を解かれ、政事総裁職に就任します。
島津久光が公武合体運動推進のため兵を率いて上京。
江戸へ行く口実を作るため堀小太郎に密命を出し、江戸に参勤します。
岡部は久光の謀臣伊地知貞馨・幕臣岡部長常・大久保一翁らと折衝します。
7月28日
堀小太郎の件を、永井を通じて春嶽に伝えます。
8月24日
春嶽から呼び出され、生麦事件の処理について
久光を引き止めて犯人を差し出させること
老中が状況して事情説明し、京都護衛につくこと
の二点を評議するよう指示を受けます。
8月27日
越前藩顧問横井小楠が、岡部を訪ねて幕政改革論
(将軍上洛と失政の陳謝、参勤交代廃止等の国是七論)を説きます。
※国是七条
国が一体となった「公共の政」と「海軍の増強」が核。
公武合体派、尊王攘夷派の主導権争いや暗殺が横行する中で、欧米列強と対等に付き合っていくための根本的な方針。
この後、坂本龍馬の「船中八策」、由利公生の「五箇条の御誓文」の原案として引き継がれて明治政府の基本方針となっていきます。
岡部は感服し、登城して将軍後見職一橋慶喜らに伝えます。
この中の一案である参勤交代廃止には板倉が反対しますが、大久保と共に説得して了解させました。
※参勤交代制は徳川幕府を守る為の策でしたが、この頃になると各藩にとって莫大な費用の負担が重荷となっていました。
8月30日
生麦事件について、英国側が板倉邸で犯人引渡しを要求してきます。
岡部は春嶽を説得して板倉邸に行かせます。
閏8月4日
越前藩が岡部の要請を受け、春嶽の登城再開が決定します。
閏8月15日
進献物廃止について老中らが自分たちの私利私欲の為反対するので、
憤慨して慶喜と共に登城をボイコットします。
9月26日
春嶽が、戦になってでも条約を破棄すべきとの攘夷論を展開。
岡部は反対します。
文久二年(1862)10月20日
幕議は開国から攘夷に一転。
岡部は開国論を曲げなかった為、尊攘急進派からは奸吏と見なされ敵視されました。
10月23日
大久保、岡部、小栗忠順に天誅を下すとの噂が広まります。
10月25日
老中格小笠原長行が、板倉に岡部らの罷免を迫ります。
11月25日
会津藩外島機兵衛が、岡部を訪ね、京都町奉行永井との共同意見として慶喜以下重職の上洛を求めます。
12月8日
将軍上洛に先発して慶喜が出発。岡部が随行を命じられます。
文久三年(1863)1月16日
反対を受けて将軍上洛が延期されます。
岡部は、中根に京都の現状を語りました。
2月27日
生麦事件の賠償について、岡部、慶喜らに、江戸へ戻り英国との交渉をするよう命じられます。
3月17日
将軍家茂が、幕府上層部の画策で江戸へ戻ることになります。
守護職の松平容保は、将軍滞京の意見書を岡部に渡し、止めます。
4月22日
慶喜が、江戸に向けて京を出立。岡部も随従します。
4月23日
東帰の道すがら、岡部は刺客に襲われ、なんとか難を逃れます。
7月
病気を理由に大目付を辞任します。
12月
作事奉行となります。
元治元年(1864)3月27日
天狗党の乱
岡部も一隊を出し、鎮圧に乗り出しています。
11月
神奈川奉行に就任。
12月
鎗奉行となります。
慶応元年(1865)閏5月
軍艦奉行となります。
7月
清水小普請組支配に就任。
8月
辞職
慶応二年(1866)12月1日
病没します。享年42歳 。
墓所は東京都中野区の境妙寺です。
参考
「明治維新人物事典」
「再夢紀事」
「維新史料綱要」
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。
1300石の旗本、岡部さん。若くして病死した彼の史料は、あまり多くは残されていません。
彼の長崎での功績を評価する、同時代の人々の史料の中に名前を見つけることが多いようです。
彼と接した諸国の人が、彼の開明的で温和な態度を賞讃しています。
●
文政八年(1825)
武蔵国に生まれます。幼名は彦十郎。
父は太田運八郎です。
後に旗本岡部長英の養子となります。
安政二年(1855)9月
長崎海軍伝習所に目付として長崎に赴任します。
前年に目付として赴任していた永井尚志が7月に海軍伝習所の総取締となっていました。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
日蘭和親条約が結ばれます。
10月24日 海軍伝習所開所
鎖国から開国への過渡期にあったこの時期、長崎にいた岡部と永井は、海軍等の充実が急務だと考えていました。
永井と相談し、幕府がいつまでも回答を寄越さない為独断で製鉄所建設を決定。
踏み絵廃止、英語伝習所創設などにも踏み切ります。
安政四年(1857)閏5月
松本良順が伝習所へやってきます。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
岡部は永井が江戸へ戻った後、木村芥舟(かいしゅう)が赴任するまでの間
臨時で伝習所総取締を務めました。
この頃の伝習所は、多くの生徒が遊郭に入り浸るなど風紀が乱れていたようです。
奉行所は伝習生らを別格として扱い、取り締りの対象としなかったことが乱れに拍車をかけました。
岡部は木村と協力して風紀の引き締めを行いました。
悪所通は宿舎の部屋が狭い故のストレスでは、と。伝習所近辺の空き屋敷を借り上げて住環境を改善します。
長崎周辺の狭い海域に限られて行われていた訓練航海を他藩の領海を含めた広い海域で行えるようにもしました。
12月
長崎奉行に就任します。
安政五年(1858)8月17日
日蘭通商修好条約が結ばれます。
岡部が交渉を担当しました。
岡部、永井、岩瀬忠震が国王宛の書簡として起案。
海防懸、評定所一座、箱館・浦賀・下田の各奉行などが意見を付し、最後に老中がオランダ政府諸公宛の書簡に書き改めました。
安政六年(1859)
ポンペ、松本らの意見を容れて、解剖・病院設立・貧民医療などに便宜を図ります。
※プロイセン使節団のヴェルナー艦長は
「絶対専制支配が行われている日本だが、立憲的なヨーロッパの諸国家より個人の権利は守られている」
と述べています。
病院建設の為、ポンペが適した場所を探しましたが、そこは農民が畑を持っている丘の頂上でした。
岡部は農夫に土地を売って欲しいと頼み、断られると相場の三倍ほどの金額を提示しましたが、どんな条件を出されようとも売らない、と断られます。
そこで岡部は強制的に土地を取り上げることをせず、別の建設用地を探させたことがヴェルナーには驚きだったようです。
真偽の程は分かりませんが、岡部らしいエピソードと言えます。
※ポンペも岡部のことを、
「文化人で立派な働き者。母国日本の発展と繁栄に繋がることなら何でも大胆に行動した。多くの悪弊は彼によって打破された」
と評価しています。
2月9日
幕府からの伝習中止命令に対し、松本だけでも残って医学を学べるよう井伊大老に願い出ます。
(井伊の機転により、黙認されます。)
※ロシア総督リハチョフと交流しつつ岡部に働きかけていたのがシーボルトは
“シーボルト事件”で追放・再渡航禁止処分となっていました。
日蘭通商条約締結で処分解除となり、再来日して幕府の外交顧問となります。
長崎のみの開港を主張し、長崎の優遇策と自由港化を提言しました。
それにはオランダ側外交官は批判的で、岡部自身も、シーボルトが外交問題に関与しようとすることには閉口していたようです。
文久元年(1861)11月
外国奉行に就任します。
文久二年(1862)6月
大目付就任。(旗本最高位)
7月9日
越前藩用人中根靭負(春嶽の謀臣であった中根雪江)が岡部を訪ね、家門筆頭である福井藩主が他大名と同格の大老に就任するというのは受けがたいと申し出ます。
岡部はこれを容れ、その日閣老の会議で松平春嶽のポストを「政事総裁職」にすることを提案。
薩摩藩島津久光ら尊王攘夷派が春嶽と一橋慶喜の登用を幕府に求めていたこともあり
春嶽は謹慎処分を解かれ、政事総裁職に就任します。
島津久光が公武合体運動推進のため兵を率いて上京。
江戸へ行く口実を作るため堀小太郎に密命を出し、江戸に参勤します。
岡部は久光の謀臣伊地知貞馨・幕臣岡部長常・大久保一翁らと折衝します。
7月28日
堀小太郎の件を、永井を通じて春嶽に伝えます。
8月24日
春嶽から呼び出され、生麦事件の処理について
久光を引き止めて犯人を差し出させること
老中が状況して事情説明し、京都護衛につくこと
の二点を評議するよう指示を受けます。
8月27日
越前藩顧問横井小楠が、岡部を訪ねて幕政改革論
(将軍上洛と失政の陳謝、参勤交代廃止等の国是七論)を説きます。
※国是七条
国が一体となった「公共の政」と「海軍の増強」が核。
公武合体派、尊王攘夷派の主導権争いや暗殺が横行する中で、欧米列強と対等に付き合っていくための根本的な方針。
この後、坂本龍馬の「船中八策」、由利公生の「五箇条の御誓文」の原案として引き継がれて明治政府の基本方針となっていきます。
岡部は感服し、登城して将軍後見職一橋慶喜らに伝えます。
この中の一案である参勤交代廃止には板倉が反対しますが、大久保と共に説得して了解させました。
※参勤交代制は徳川幕府を守る為の策でしたが、この頃になると各藩にとって莫大な費用の負担が重荷となっていました。
8月30日
生麦事件について、英国側が板倉邸で犯人引渡しを要求してきます。
岡部は春嶽を説得して板倉邸に行かせます。
閏8月4日
越前藩が岡部の要請を受け、春嶽の登城再開が決定します。
閏8月15日
進献物廃止について老中らが自分たちの私利私欲の為反対するので、
憤慨して慶喜と共に登城をボイコットします。
9月26日
春嶽が、戦になってでも条約を破棄すべきとの攘夷論を展開。
岡部は反対します。
文久二年(1862)10月20日
幕議は開国から攘夷に一転。
岡部は開国論を曲げなかった為、尊攘急進派からは奸吏と見なされ敵視されました。
10月23日
大久保、岡部、小栗忠順に天誅を下すとの噂が広まります。
10月25日
老中格小笠原長行が、板倉に岡部らの罷免を迫ります。
11月25日
会津藩外島機兵衛が、岡部を訪ね、京都町奉行永井との共同意見として慶喜以下重職の上洛を求めます。
12月8日
将軍上洛に先発して慶喜が出発。岡部が随行を命じられます。
文久三年(1863)1月16日
反対を受けて将軍上洛が延期されます。
岡部は、中根に京都の現状を語りました。
2月27日
生麦事件の賠償について、岡部、慶喜らに、江戸へ戻り英国との交渉をするよう命じられます。
3月17日
将軍家茂が、幕府上層部の画策で江戸へ戻ることになります。
守護職の松平容保は、将軍滞京の意見書を岡部に渡し、止めます。
4月22日
慶喜が、江戸に向けて京を出立。岡部も随従します。
4月23日
東帰の道すがら、岡部は刺客に襲われ、なんとか難を逃れます。
7月
病気を理由に大目付を辞任します。
12月
作事奉行となります。
元治元年(1864)3月27日
天狗党の乱
岡部も一隊を出し、鎮圧に乗り出しています。
11月
神奈川奉行に就任。
12月
鎗奉行となります。
慶応元年(1865)閏5月
軍艦奉行となります。
7月
清水小普請組支配に就任。
8月
辞職
慶応二年(1866)12月1日
病没します。享年42歳 。
墓所は東京都中野区の境妙寺です。
参考
「明治維新人物事典」
「再夢紀事」
「維新史料綱要」
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。
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