ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2009.01.30 Fri
堀田正睦(ほった まさよし)
幕末の老中、堀田さん。
「国運を振張する道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」という開国派でした。
老中首座になりながらも実権は無く、出番が来たと思えば外国と国内の間で板挟み。
通商条約の交渉は失敗し、遂には失脚した無能な指導者
とも言われる堀田さんですが、果たして本当にそうだったのでしょうか。
●
文化七年(1810)8月1日
下総佐倉藩 第3代藩主・堀田正時の次男として生まれます。
初名は正篤(まさひろ)。通称 左源次。のち備中守(びっちゅうのかみ)を称し、諡号は見山。
※堀田家は譜代中の名門のひとつ。
文化八年(1811)
父が亡くなり、藩主を父の兄の子どもである堀田正愛が継ぎます。
正睦はその養子となります。
文政八年(1825)
正愛が病死し、若年寄を務めていた堀田一族の長老・堀田正敦(近江堅田藩主)がその後見を務めます。
老臣・金井右膳らは正敦の子を藩主に擁立しようとしますが、当の正敦が断り、正睦が16歳で下総佐倉藩11万石の第5代藩主となります。
文政十二年(1829)
奏者番(そうじゃばん)となります。
天保四年(1833)
佐倉藩三大改革の一つといわれる天保の改革を始めます。
子育てを奨励。間引の禁止で農村人口の回復を図り、社倉の建造、勧農掛設置などの農村対策を行いました。
天保五年(1834)
寺社奉行となります。
天保七年(1836)
反対派の重臣を排除し、藩士の生活保護、学制改革を実施します。
藩校温故堂を拡充、成徳書院を設置し、儒学・書学・数学・武芸を奨励。
特に藩士教育を重視し、蘭学を奨励。西洋砲術を採用します。
蘭法医佐藤泰然を招聘して藩校と病院をかねた順天堂を開かせました。(後の順天堂大学)
※佐藤泰然は松本良順のお父さんです。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるほど蘭学が栄え、
正睦は「蘭癖(らんぺき)」「西洋かぶれ」と揶揄もされました。
天保八年(1837)
大坂城代になります。
更に7月、西ノ丸老中となります。
天保十二年(1841)3月
本丸老中となります。
天保十四年(1843)
自分が第11代将軍・徳川家斉の側近であることを理由に老中を辞任します。
安政二年(1855)10月
阿部正弘が、攘夷派を重んじたことで孤立してしまい、緩和策として開国派の正睦を老中に推挙。
正睦は阿部に代わって勝手入用掛となります。
安政三年(1856)
阿部から老中首座を譲られ、外国掛老中を兼ねます。
※この時まで正篤と名乗っていましたが、11月に家定と結婚した篤姫の名を憚り、正篤→正睦に改名します。
安政四年(1857)6月
阿部正弘が死去。正睦が最高責任者となり、
阿部から老中を罷免された松平忠固を老中に復帰させます。
10月
下田にいるアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ました。
正睦は閣議を統一し、幕府としてハリスの出府を許可する決定を下します。
10月19日
正睦はハリスと面会し、国書の写しとそのオランダ語訳を受け取ります。
10月21日
ハリスは江戸城に登城して国書を奉呈しました。
10月26日
再度ハリスが訪れ、正睦、川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震(ただなり)、永井尚志、水野忠徳らに対して延々6時間開国の必要性を演説します。
※ハリスの英語をヒュースケンがオランダ語に訳し、それを幕府オランダ語通事の森山多吉郎と名村常之介が日本語に訳しました。
11月25日
ハリスは来訪した井上清直に脅迫まがいに回答を督促します。
12月2日
正睦自身が直接ハリスに会い、交渉に入ることを告げました。
井上の他に、当時目付の地位にいた岩瀬忠震を新たに全権に任命して交渉に当たらせることにします。
12月4日
交渉が始まります。形式は、ハリスの用意した一方的に米国に有利な条約案の文言に対して岩瀬忠震が質問し、これにハリスが答えるという形で行われました。
岩瀬と井上は、条約案を丸飲みにせず、粘り強く交渉を進めました。
ハリスと、岩瀬・井上の交渉は合計14回に及びました。
12月15日
正睦は台命(たいめい=将軍の命令)を発しました。要約すると、
「今時鎖国していても埒が明かない。開国しようと思うが、納得しない人もいるだろうし、今が大事なときだから意見がある人はすぐに言いなさい」。
鎖国廃止と言い切りたいのは山々ですが、そこまで強固な態度に出られるほど幕府の権威は無く、国内の意見は分かれていました。
・幕府だけが貿易の利潤を独占するのはおかしい。
・外国人に開国するなど信じられない。
(攘夷思想の他、切支丹は魔法を使うから、という意見も)
・条約に調印しないなら武力行使に出ると不条理に脅されておいて、和議で解決するのは臆病ではないか。
などの反対意見が集まり、賛成は松平慶永や島津斉彬などごく一部だけでした。
12月25日
日米修好通商条約案が完成します。
水戸家が京都の公家達を扇動し攘夷論を盛り上げようとします。このままでは条約が結べなくなってしまうので、一刻も早く朝廷に許可を貰いに行かなくては、と林大学頭らを派遣。
しかし、「国の一大事に小吏を遣わして勅許を求めるなんて、朝廷を軽んじている」と天皇に怒られてしまいます。
安政五年(1858)2月
正睦が直々に、川路聖謨や岩瀬忠震を伴って上洛します。
2月9日
参内して日米通商条約草案を提出。
将軍家定より孝明天皇宛に黄金50枚を奉呈。
実質朝廷の意志を決定していた五摂家も、今の情勢では通商条約調印は已む無しと考えていました。通常なら勅許がすんなり降りるはずでした。
しかし、孝明天皇自らが条約への反対意見を述べます。
※孝明天皇は有名な外国人嫌いでした。因みにこのとき28歳。
九条関白がこれを黙殺し勅許を下そうとしますが、天皇は直接下級公家と結びつき、反対運動を展開。
2月23日
結局、「御三家以下の諸侯の意見を得てから改めて勅許を請え」との勅諚が出ます。
御三家の一つ、水戸家が開国に反対している為勅許を貰って黙らそうと考えたことが裏目に出てしまいました。
正睦は交渉を続け、九条関白らを動かして、外交は幕府に一任する旨を上奏します。
川路聖謨も人脈を生かして裏工作を始めます。僅か二十日ほどの間に数万両の賄賂を使ったとも伝わります。
※昔から朝廷は慢性的に財政に窮乏しており、朝廷工作には金が必需品でした。孝明天皇はこれを嫌い、九条関白に手紙を出しています。
「備中守(堀田正睦)の今回の献上金だが、前も言ったように、如何に大金であってもそれに眼がくらんでは天下の災害の基である。人の欲とは兎角金に惑うものである。迷いも事によってはその場限りですむが、今回の場合、心に迷いがあっては騒動になるであろう。 」
3月11日
正睦の画策による上奏を孝明天皇も認めます。
3月12日
88名の下級公家が、条約反対のデモ行進の末参内。幕府外交委任の勅諚案改訂を建言しました。
※この88名の下級公家には岩倉具視、中山忠能らがいます。開国=弱腰と考える攘夷派公家です。
安政五年(1858)3月20日
一度は「外交は幕府に一任する」として上手く行きそうになったものの、この公家らの反対を朝廷は受け入れてしまいます。
正睦に、条約勅許は諸大名の意見を聞いてから再願するようと再度指示します。
正睦たちは、勅許を諦めて江戸へ戻るしかありませんでした。
ところでこの頃、元々体の弱かった第13代将軍・家定の病状が悪化し、跡目争いが勃発していました。家格では水戸家の一橋慶喜。(22歳)血筋では実の従兄弟の紀伊慶福(よしとみ)(13歳)。一橋派と南紀派の争いです。
諸侯の支持で将軍になっても、独裁はできず意味が無いと、慶喜本人はこの時期、何度も後嗣辞退を幕閣に申し出ています。
将軍家定は慶福を我が子のようで可愛いと跡継ぎに推していたようです。
本人たちの意向をよそに、争いは激化。一橋派は詔勅を得て慶喜を将軍にしようとして、失敗します。
正睦も紀伊藩主の徳川慶福を推していましたが、条約の勅許を得られなかったことで考えを変えたようです。
朝廷が頼りにしている攘夷派の水戸家の慶喜を将軍にし、一橋派の松平慶永を大老にすれば朝廷も軟化し、勅許が得られるのではないかと考えます。
4月20日
正睦、江戸へ帰着します。
4月22日
登場して、家定に「松平慶永を大老にしましょう」と進言します。しかし家定は、「大老になるのは、井伊家に決まっている」と回答。
既に南紀派の政治工作が完了した後でした。
4月23日
彦根藩主・井伊直弼が大老に就任します。井伊直弼は徹底した血統主義者です。その結果、将軍後嗣は慶福に決まったも同然。
5月1日
将軍継嗣を徳川慶福にする旨を家定が老中たちに申し渡します。
6月19日
井伊は勅許がとれないままに、日米通商条約調印を断行します。
6月22日
勅許を得ずに条約を調印した責任者という形で、正睦と松平忠固は老中職を罷免されます。
※罷免された本当の理由は、正睦が紀州派から一橋派に寝返り、松平慶永らと交際した為井伊に嫌われたとも
井伊は条約を断行した責任者として一時的にスケープゴートに利用しただけで、時機を見ての正睦を再登用するつもりだったとも言われます。
6月25日
慶福が家定の正式な養子になると公式発表。
一橋派の大名が謹慎・登城停止処分となります。正睦も例外ではありませんでした。
7月6日
家定が病没します。
7月10日~18日
安政の五カ国条約が結ばれました。
10月25日
慶福が十四代将軍となり、家茂と名を改めます。
安政六年(1859)
正睦は家督を四男の堀田正倫に譲って隠居します。
※正倫は父の遺志を受け継ぎ、幕府存続に尽くしました。
安政七年(1860)
藩主の後見として財政・軍制を改革を進めます。
文久二年(1862)
桜田門外の変で井伊が亡くなります。
安政の大獄では他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受けた中で、正睦は不問に付されていました。
その為井伊と結託していたと憶測されたこともあり、正睦は謹慎処分となります。
老中在職中の外交取扱不行届の廉(かど)で、佐倉城内松山御殿での蟄居することになります。
元治元年(1864)3月21日
亡くなります。享年55歳。
戒名は文明院見山静心誓恵大居士
お墓は千葉県佐倉市新町の甚大寺にあります。
参考
「明治維新人名辞典」
「幕末新詳解事典」脇坂昌宏
「日本全史」
「幕末維新」
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。
幕末の老中、堀田さん。
「国運を振張する道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」という開国派でした。
老中首座になりながらも実権は無く、出番が来たと思えば外国と国内の間で板挟み。
通商条約の交渉は失敗し、遂には失脚した無能な指導者
とも言われる堀田さんですが、果たして本当にそうだったのでしょうか。
●
文化七年(1810)8月1日
下総佐倉藩 第3代藩主・堀田正時の次男として生まれます。
初名は正篤(まさひろ)。通称 左源次。のち備中守(びっちゅうのかみ)を称し、諡号は見山。
※堀田家は譜代中の名門のひとつ。
文化八年(1811)
父が亡くなり、藩主を父の兄の子どもである堀田正愛が継ぎます。
正睦はその養子となります。
文政八年(1825)
正愛が病死し、若年寄を務めていた堀田一族の長老・堀田正敦(近江堅田藩主)がその後見を務めます。
老臣・金井右膳らは正敦の子を藩主に擁立しようとしますが、当の正敦が断り、正睦が16歳で下総佐倉藩11万石の第5代藩主となります。
文政十二年(1829)
奏者番(そうじゃばん)となります。
天保四年(1833)
佐倉藩三大改革の一つといわれる天保の改革を始めます。
子育てを奨励。間引の禁止で農村人口の回復を図り、社倉の建造、勧農掛設置などの農村対策を行いました。
天保五年(1834)
寺社奉行となります。
天保七年(1836)
反対派の重臣を排除し、藩士の生活保護、学制改革を実施します。
藩校温故堂を拡充、成徳書院を設置し、儒学・書学・数学・武芸を奨励。
特に藩士教育を重視し、蘭学を奨励。西洋砲術を採用します。
蘭法医佐藤泰然を招聘して藩校と病院をかねた順天堂を開かせました。(後の順天堂大学)
※佐藤泰然は松本良順のお父さんです。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるほど蘭学が栄え、
正睦は「蘭癖(らんぺき)」「西洋かぶれ」と揶揄もされました。
天保八年(1837)
大坂城代になります。
更に7月、西ノ丸老中となります。
天保十二年(1841)3月
本丸老中となります。
天保十四年(1843)
自分が第11代将軍・徳川家斉の側近であることを理由に老中を辞任します。
安政二年(1855)10月
阿部正弘が、攘夷派を重んじたことで孤立してしまい、緩和策として開国派の正睦を老中に推挙。
正睦は阿部に代わって勝手入用掛となります。
安政三年(1856)
阿部から老中首座を譲られ、外国掛老中を兼ねます。
※この時まで正篤と名乗っていましたが、11月に家定と結婚した篤姫の名を憚り、正篤→正睦に改名します。
安政四年(1857)6月
阿部正弘が死去。正睦が最高責任者となり、
阿部から老中を罷免された松平忠固を老中に復帰させます。
10月
下田にいるアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ました。
正睦は閣議を統一し、幕府としてハリスの出府を許可する決定を下します。
10月19日
正睦はハリスと面会し、国書の写しとそのオランダ語訳を受け取ります。
10月21日
ハリスは江戸城に登城して国書を奉呈しました。
10月26日
再度ハリスが訪れ、正睦、川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震(ただなり)、永井尚志、水野忠徳らに対して延々6時間開国の必要性を演説します。
※ハリスの英語をヒュースケンがオランダ語に訳し、それを幕府オランダ語通事の森山多吉郎と名村常之介が日本語に訳しました。
11月25日
ハリスは来訪した井上清直に脅迫まがいに回答を督促します。
12月2日
正睦自身が直接ハリスに会い、交渉に入ることを告げました。
井上の他に、当時目付の地位にいた岩瀬忠震を新たに全権に任命して交渉に当たらせることにします。
12月4日
交渉が始まります。形式は、ハリスの用意した一方的に米国に有利な条約案の文言に対して岩瀬忠震が質問し、これにハリスが答えるという形で行われました。
岩瀬と井上は、条約案を丸飲みにせず、粘り強く交渉を進めました。
ハリスと、岩瀬・井上の交渉は合計14回に及びました。
12月15日
正睦は台命(たいめい=将軍の命令)を発しました。要約すると、
「今時鎖国していても埒が明かない。開国しようと思うが、納得しない人もいるだろうし、今が大事なときだから意見がある人はすぐに言いなさい」。
鎖国廃止と言い切りたいのは山々ですが、そこまで強固な態度に出られるほど幕府の権威は無く、国内の意見は分かれていました。
・幕府だけが貿易の利潤を独占するのはおかしい。
・外国人に開国するなど信じられない。
(攘夷思想の他、切支丹は魔法を使うから、という意見も)
・条約に調印しないなら武力行使に出ると不条理に脅されておいて、和議で解決するのは臆病ではないか。
などの反対意見が集まり、賛成は松平慶永や島津斉彬などごく一部だけでした。
12月25日
日米修好通商条約案が完成します。
水戸家が京都の公家達を扇動し攘夷論を盛り上げようとします。このままでは条約が結べなくなってしまうので、一刻も早く朝廷に許可を貰いに行かなくては、と林大学頭らを派遣。
しかし、「国の一大事に小吏を遣わして勅許を求めるなんて、朝廷を軽んじている」と天皇に怒られてしまいます。
安政五年(1858)2月
正睦が直々に、川路聖謨や岩瀬忠震を伴って上洛します。
2月9日
参内して日米通商条約草案を提出。
将軍家定より孝明天皇宛に黄金50枚を奉呈。
実質朝廷の意志を決定していた五摂家も、今の情勢では通商条約調印は已む無しと考えていました。通常なら勅許がすんなり降りるはずでした。
しかし、孝明天皇自らが条約への反対意見を述べます。
※孝明天皇は有名な外国人嫌いでした。因みにこのとき28歳。
九条関白がこれを黙殺し勅許を下そうとしますが、天皇は直接下級公家と結びつき、反対運動を展開。
2月23日
結局、「御三家以下の諸侯の意見を得てから改めて勅許を請え」との勅諚が出ます。
御三家の一つ、水戸家が開国に反対している為勅許を貰って黙らそうと考えたことが裏目に出てしまいました。
正睦は交渉を続け、九条関白らを動かして、外交は幕府に一任する旨を上奏します。
川路聖謨も人脈を生かして裏工作を始めます。僅か二十日ほどの間に数万両の賄賂を使ったとも伝わります。
※昔から朝廷は慢性的に財政に窮乏しており、朝廷工作には金が必需品でした。孝明天皇はこれを嫌い、九条関白に手紙を出しています。
「備中守(堀田正睦)の今回の献上金だが、前も言ったように、如何に大金であってもそれに眼がくらんでは天下の災害の基である。人の欲とは兎角金に惑うものである。迷いも事によってはその場限りですむが、今回の場合、心に迷いがあっては騒動になるであろう。 」
3月11日
正睦の画策による上奏を孝明天皇も認めます。
3月12日
88名の下級公家が、条約反対のデモ行進の末参内。幕府外交委任の勅諚案改訂を建言しました。
※この88名の下級公家には岩倉具視、中山忠能らがいます。開国=弱腰と考える攘夷派公家です。
安政五年(1858)3月20日
一度は「外交は幕府に一任する」として上手く行きそうになったものの、この公家らの反対を朝廷は受け入れてしまいます。
正睦に、条約勅許は諸大名の意見を聞いてから再願するようと再度指示します。
正睦たちは、勅許を諦めて江戸へ戻るしかありませんでした。
ところでこの頃、元々体の弱かった第13代将軍・家定の病状が悪化し、跡目争いが勃発していました。家格では水戸家の一橋慶喜。(22歳)血筋では実の従兄弟の紀伊慶福(よしとみ)(13歳)。一橋派と南紀派の争いです。
諸侯の支持で将軍になっても、独裁はできず意味が無いと、慶喜本人はこの時期、何度も後嗣辞退を幕閣に申し出ています。
将軍家定は慶福を我が子のようで可愛いと跡継ぎに推していたようです。
本人たちの意向をよそに、争いは激化。一橋派は詔勅を得て慶喜を将軍にしようとして、失敗します。
正睦も紀伊藩主の徳川慶福を推していましたが、条約の勅許を得られなかったことで考えを変えたようです。
朝廷が頼りにしている攘夷派の水戸家の慶喜を将軍にし、一橋派の松平慶永を大老にすれば朝廷も軟化し、勅許が得られるのではないかと考えます。
4月20日
正睦、江戸へ帰着します。
4月22日
登場して、家定に「松平慶永を大老にしましょう」と進言します。しかし家定は、「大老になるのは、井伊家に決まっている」と回答。
既に南紀派の政治工作が完了した後でした。
4月23日
彦根藩主・井伊直弼が大老に就任します。井伊直弼は徹底した血統主義者です。その結果、将軍後嗣は慶福に決まったも同然。
5月1日
将軍継嗣を徳川慶福にする旨を家定が老中たちに申し渡します。
6月19日
井伊は勅許がとれないままに、日米通商条約調印を断行します。
6月22日
勅許を得ずに条約を調印した責任者という形で、正睦と松平忠固は老中職を罷免されます。
※罷免された本当の理由は、正睦が紀州派から一橋派に寝返り、松平慶永らと交際した為井伊に嫌われたとも
井伊は条約を断行した責任者として一時的にスケープゴートに利用しただけで、時機を見ての正睦を再登用するつもりだったとも言われます。
6月25日
慶福が家定の正式な養子になると公式発表。
一橋派の大名が謹慎・登城停止処分となります。正睦も例外ではありませんでした。
7月6日
家定が病没します。
7月10日~18日
安政の五カ国条約が結ばれました。
10月25日
慶福が十四代将軍となり、家茂と名を改めます。
安政六年(1859)
正睦は家督を四男の堀田正倫に譲って隠居します。
※正倫は父の遺志を受け継ぎ、幕府存続に尽くしました。
安政七年(1860)
藩主の後見として財政・軍制を改革を進めます。
文久二年(1862)
桜田門外の変で井伊が亡くなります。
安政の大獄では他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受けた中で、正睦は不問に付されていました。
その為井伊と結託していたと憶測されたこともあり、正睦は謹慎処分となります。
老中在職中の外交取扱不行届の廉(かど)で、佐倉城内松山御殿での蟄居することになります。
元治元年(1864)3月21日
亡くなります。享年55歳。
戒名は文明院見山静心誓恵大居士
お墓は千葉県佐倉市新町の甚大寺にあります。
参考
「明治維新人名辞典」
「幕末新詳解事典」脇坂昌宏
「日本全史」
「幕末維新」
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。
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