ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2009.01.23 Fri
村垣 範正(むらがき のりまさ)
さて11回は、第二期外国奉行筆頭とも言われる村垣範正さんです。
幕末の旗本で、今で言う外交官的なことをしていました。
安政元年(1854)1月1日~慶応元年(1865)5月26日の間
「村垣淡路守公務日記」(別名「遣米使節日記」)を含めて、26冊もの公務日記を書いています。
公的な日誌の他に更に二冊の日記を書いている時期もあったり、かなりの筆まめさんです。
和歌も多く残っています。
蝦夷地にはアイヌの人も住んでいましたし、外国船も来ました。
何分遠いので幕府からの命令が中々来なくて振り回されることもありました。
そんな中で箱館奉行と外国奉行を務めた一人です。
武田斐三郎さんの上司ですね。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
では詳細お付き合い下さる方は以下どうぞ☆
文化十年(1813)9月24日
江戸の築地で、旗本村垣範行の次男として生まれます。
渾名は初め範忠。後に範正。通称は与三郎。
村垣家は先祖代々御庭番を務めて来ました。(範正で五代目。)
※庭番
表向きは文字通り江戸城などのお庭の警備をしていたので「庭番」。
御庭番家筋は幕末まで22家が続きました。
天保二年(1831)
新規召出で小十人格庭番となります。
遠国御用や目安箱への投書内容の調査にあたりました。
時には変装したり潜入捜査をしたり、命懸けの任務も多々あったようです。
蝦夷地にも鋳物師として潜入したことがあり、「鋳物師(いもじ)奉行」と呼ばれていたそうです。
安政元年(1854)
弘化二年の細工頭、嘉永三年の賄頭を経て、
勘定吟味役に抜擢されます。
海岸防禦筋御用取扱ならびに松前及蝦夷地御用掛を命ぜられます。
3月~10月
堀利煕と共に蝦夷地・樺太巡視を行い、日露国境を確認。
※「道の枝折」というタイトルで日記が残っています。
10月~12月
下田にロシアのプチャーチン艦隊が再来したので、筒井政憲・川路聖謨らと共に露使応接掛となり伊豆下田に出張します。
※「下田紀行」というタイトルで日記が残っています。
安政二年(1855)1月
箱館表御用に。
3月
箱館港開港。
5月
内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用。
更に東海道筋川々普請掛と次第に重用されます。
安政三年(1856)3月~4月
東海道主要河川巡察。
5月
箱館港の近くに奉行所と役宅があり、一撃で政治機能が停止してしまうこと、
外国人に五里四方の遊歩を認めた為全てが一望されてしまう危険性を
老中阿部正弘に訴え、役宅の新設、五稜郭と弁天台場の構築を申請します。
7月28日
箱館奉行に任命されます。
※「千しまの枝折」というタイトルで日記が残っています。
※箱館奉行は2人で、江戸と箱館とに交互に在勤していました。
更に1名を増員して、それぞれ江戸在勤、箱館在勤、蝦夷地巡回の任務につくことになりました。
9月
従五位下淡路守に叙されます。諸太夫に任じられ、200俵に加増。
10月
箱館に着任し、先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。
安政四年(1857)
貿易事務官ライスが箱館に駐在。
彼との交渉記録も相当量公務日記に書き記してあります。
範正は奉行所で酒や料理、茶菓子で持て成しつつ議論を重ねたようです。
西蝦夷地(今の石狩や余市、小樽などの方)見回りに出掛けます。
「村垣氏西蝦夷地巡行図巻」として絵図が作られました。
鳥瞰図的手法で簡潔に的確に描かれています。
※倉庫や茅葺きの家や、アイヌのプー(倉庫)など細々描かれ、絵師の腕と範正の観察眼が見て取れます。
安政五年(1858)
4月15日
竹内保徳が箱館奉行に着任します。
範正は蝦夷・北蝦夷を巡見に出発。
6月19日
日米修好通商条約が締結されます。
9月21日
江戸に帰着。
10月9日
安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行を兼帯します。
10月11日
目付津田正路(近江守)が任命され、箱館奉行は4人となります。
(掘利熙と範正が外国奉行兼任で忙しかった為)
11月27日
外国奉行所が江戸城内に新設され、仮役所より移転。
安政六年(1859)4月
外国・箱館・神奈川・勘定四奉行を同時に兼帯。
神奈川開港地決定のための応接に関わりました。
6月2日
修好通商条約による開港
箱館港に貿易船第1号として米国商船モーレー号が入港。条約違反が相次ぎました。
9月13日
日米通商条約批准交換の遣米使節副使に選ばれます。
※手当金は十ヶ月分で二千両だったそうです。
万延元年(1860)1月18日
正使新見正興、目付小栗忠順と共に品川を出発。
ペリー艦隊のポーハタン号(USS Powhatan)に乗船しました。
咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守、艦長として勝海舟など乗り込み、太平洋航路で出港します。
ニューヨークに到着し、
「ここは北緯40度余なのに、大都会のせいか我が箱館より暖かく覚える」
「ニューヨーク商業会議所の委員が使節団を訪れ、日本との交易をさらに拡大したいと要望。
自分は商売のことは知らないので、ほどほど答えておいた」
と日記に書き残しています。
途中ハワイに寄り、
3月9日 サンフランシスコに到着。
閏3月28日
大統領に謁見します。
日本古来の装束で威風堂々と振舞った使節団にアメリカ人は感激したらしく
現地新聞はその模様を大々的に報じました。
批准書の交換に先立ち、大統領や国務長官へ贈呈する品々をホテルでお披露目します。
太刀二振、鞍鐙、錦幔幕、蒔絵、硯箱、掛軸、翠簾屏風、大和錦巻物、丸火鉢などなど。
「三・四日そのまま飾り、たくさんの人が珍しがって見物しに来た。
新聞紙屋も来て写真に撮り、新聞に載せた」そうです。
閏3月29日
使節団は各国の大使に会ったりスケジュールは過密だったようです。
21時、国務長官キャス(L. Cass)宅のパーティーに招かれます。
ガス燈に照らされて昼間のように明るい室内で、男女混じっての立食パーティ。
別の部屋では数百人が夜通しダンスをしています。
ガス燈は兎も角、人前で男女が体を寄せ合ったり
立ったまま食事をとるのは、当時の日本人からすればさぞかし下品で卑猥に見えたことでしょう。
実際範正も、
「自分には夢か現か分からない。ただあきれてしまう。
案内役の高官デュホントに言い、主に暇を告げて客舎に帰る。
礼儀のない国だけれど、外国の使節を宰相が招いているのだし不礼と咎めればきりがない。
礼や義ではなく、親交の表現なのだと思っておこう」
と、最後にこんな和歌まで詠んでいます。
「何事も 姿こと葉の ことなれば 夢路をたどる 心地こそすれ」
万延元年4月3日
ワシントンの国務省において、使節団正使の新見正興(豊前守)と国務長官のキャスとの間で批准書を交換。
※二人のほか、副使である範正と小栗忠順による署名がなされています。
ブキャナン大統領と会見。
帰路はナイアガラ号にて大西洋航路をとり、南アフリカ・インドを経由。
9月27日
江戸へ到着。使命を全うし、その功により300石加増され500石取に。
箱館に戻り、引き続き外国・箱館兼任奉行として在任します。
11月20日
プロシアとの条約交渉を行っていた堀が切腹してしまいます。
翌日から彼に代わって範正が日普(プロシア)通商条約交渉の全権となり、樺太国境問題の交渉、調印に臨みました。
文久元年(1861)
ロシア軍艦対馬占領事件
ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠します。
範正は箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めました。
また箱館港の砲台建設も促進しました。
蝦夷地巡見にも向かいます。
※「辛酉紀行」というタイトルで日記が残っています。
文久二年(1862)
外国奉行専任となります。
文久3年(1863)6月
作事奉行に転じます。 ※閑職です。
翌元治元年(1864)8月
西の丸留守居、若年寄支配寄合となり、一線から退きました。
明治元年(1868)
病のためと称して隠居、淡叟と号します。
明治維新後は官途に就きませんでした。
明治13年(1880)3月15日
東京にて没します。享年68歳。
範正さんのことを、賢くて仕事の出来る人、と言った人もいれば、
ちょっと経験があるだけで奉行の器ではない、と言った人もいます。
司馬遼太郎氏も『明治という国家』で、「封建的ボンクラ」と書いているそうです。(←まだ読んでません)
司馬先生に関しては、あの人は倒幕派についてはべた褒めするけど
佐幕派については大嫌いで貶してばかりの人ですからねぇ…。
史実とは掛け離れた内容がかなり多いのは小説だからいいんですが
(司馬先生の作品は私も好きです。)
司馬先生の小説を全て史実だと思っている読者が多いのは嘆かわしいです。
範正さんは
西洋文化=進んでる・カッコイイ より、下品、俗物という感想を持っていたようです。
それが、知識が無いとか遅れてると見る人は見たのでしょうね。
でもその分、媚びや気後れが無く、日本という国に誇りがあったように見受けられます。
国や家柄に誇りを持っていたからこそ、仕事をきっちりこなし
明治維新後の新政府に仕えるのはプライドが許さず、病気と偽って隠居してしまったのではないでしょうか。
箱館に着任した時詠んだ
「ふり積る 雪の光にてりまさる 箱館山の 冬の夜の月」
サンフランシスコに入港したときの
「古郷(ふるさと)に かはらぬ影をあふぐかな カリホルニヤのはるの夜の月」
など多数の和歌が残っています。
(日記のタイトルもなんだか風流なので、分かる部分は記載してみました。)
自分は、米大統領に謁見したときに詠んだ、
日本の誇りに溢れ過ぎていて
余りに真っ直ぐ過ぎて笑いさえ誘ってしまいそうなこの和歌が好きです。
「えみしらも あおぎてぞ見よ 東なる 我が日本(ひのもと)の 国の光を」
参考
「箱館をめぐる人物史-19世紀人の光と影-」小林裕幸
「明治維新人名辞典」
「函館市史」
「箱館五稜郭物語」河合敦
「五稜郭」田原良信
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。
さて11回は、第二期外国奉行筆頭とも言われる村垣範正さんです。
幕末の旗本で、今で言う外交官的なことをしていました。
安政元年(1854)1月1日~慶応元年(1865)5月26日の間
「村垣淡路守公務日記」(別名「遣米使節日記」)を含めて、26冊もの公務日記を書いています。
公的な日誌の他に更に二冊の日記を書いている時期もあったり、かなりの筆まめさんです。
和歌も多く残っています。
蝦夷地にはアイヌの人も住んでいましたし、外国船も来ました。
何分遠いので幕府からの命令が中々来なくて振り回されることもありました。
そんな中で箱館奉行と外国奉行を務めた一人です。
武田斐三郎さんの上司ですね。
http://senjouno-kizuna.so-netsns.jp/?m=pc&a=page_fh_diary...
では詳細お付き合い下さる方は以下どうぞ☆
文化十年(1813)9月24日
江戸の築地で、旗本村垣範行の次男として生まれます。
渾名は初め範忠。後に範正。通称は与三郎。
村垣家は先祖代々御庭番を務めて来ました。(範正で五代目。)
※庭番
表向きは文字通り江戸城などのお庭の警備をしていたので「庭番」。
御庭番家筋は幕末まで22家が続きました。
天保二年(1831)
新規召出で小十人格庭番となります。
遠国御用や目安箱への投書内容の調査にあたりました。
時には変装したり潜入捜査をしたり、命懸けの任務も多々あったようです。
蝦夷地にも鋳物師として潜入したことがあり、「鋳物師(いもじ)奉行」と呼ばれていたそうです。
安政元年(1854)
弘化二年の細工頭、嘉永三年の賄頭を経て、
勘定吟味役に抜擢されます。
海岸防禦筋御用取扱ならびに松前及蝦夷地御用掛を命ぜられます。
3月~10月
堀利煕と共に蝦夷地・樺太巡視を行い、日露国境を確認。
※「道の枝折」というタイトルで日記が残っています。
10月~12月
下田にロシアのプチャーチン艦隊が再来したので、筒井政憲・川路聖謨らと共に露使応接掛となり伊豆下田に出張します。
※「下田紀行」というタイトルで日記が残っています。
安政二年(1855)1月
箱館表御用に。
3月
箱館港開港。
5月
内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用。
更に東海道筋川々普請掛と次第に重用されます。
安政三年(1856)3月~4月
東海道主要河川巡察。
5月
箱館港の近くに奉行所と役宅があり、一撃で政治機能が停止してしまうこと、
外国人に五里四方の遊歩を認めた為全てが一望されてしまう危険性を
老中阿部正弘に訴え、役宅の新設、五稜郭と弁天台場の構築を申請します。
7月28日
箱館奉行に任命されます。
※「千しまの枝折」というタイトルで日記が残っています。
※箱館奉行は2人で、江戸と箱館とに交互に在勤していました。
更に1名を増員して、それぞれ江戸在勤、箱館在勤、蝦夷地巡回の任務につくことになりました。
9月
従五位下淡路守に叙されます。諸太夫に任じられ、200俵に加増。
10月
箱館に着任し、先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。
安政四年(1857)
貿易事務官ライスが箱館に駐在。
彼との交渉記録も相当量公務日記に書き記してあります。
範正は奉行所で酒や料理、茶菓子で持て成しつつ議論を重ねたようです。
西蝦夷地(今の石狩や余市、小樽などの方)見回りに出掛けます。
「村垣氏西蝦夷地巡行図巻」として絵図が作られました。
鳥瞰図的手法で簡潔に的確に描かれています。
※倉庫や茅葺きの家や、アイヌのプー(倉庫)など細々描かれ、絵師の腕と範正の観察眼が見て取れます。
安政五年(1858)
4月15日
竹内保徳が箱館奉行に着任します。
範正は蝦夷・北蝦夷を巡見に出発。
6月19日
日米修好通商条約が締結されます。
9月21日
江戸に帰着。
10月9日
安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行を兼帯します。
10月11日
目付津田正路(近江守)が任命され、箱館奉行は4人となります。
(掘利熙と範正が外国奉行兼任で忙しかった為)
11月27日
外国奉行所が江戸城内に新設され、仮役所より移転。
安政六年(1859)4月
外国・箱館・神奈川・勘定四奉行を同時に兼帯。
神奈川開港地決定のための応接に関わりました。
6月2日
修好通商条約による開港
箱館港に貿易船第1号として米国商船モーレー号が入港。条約違反が相次ぎました。
9月13日
日米通商条約批准交換の遣米使節副使に選ばれます。
※手当金は十ヶ月分で二千両だったそうです。
万延元年(1860)1月18日
正使新見正興、目付小栗忠順と共に品川を出発。
ペリー艦隊のポーハタン号(USS Powhatan)に乗船しました。
咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守、艦長として勝海舟など乗り込み、太平洋航路で出港します。
ニューヨークに到着し、
「ここは北緯40度余なのに、大都会のせいか我が箱館より暖かく覚える」
「ニューヨーク商業会議所の委員が使節団を訪れ、日本との交易をさらに拡大したいと要望。
自分は商売のことは知らないので、ほどほど答えておいた」
と日記に書き残しています。
途中ハワイに寄り、
3月9日 サンフランシスコに到着。
閏3月28日
大統領に謁見します。
日本古来の装束で威風堂々と振舞った使節団にアメリカ人は感激したらしく
現地新聞はその模様を大々的に報じました。
批准書の交換に先立ち、大統領や国務長官へ贈呈する品々をホテルでお披露目します。
太刀二振、鞍鐙、錦幔幕、蒔絵、硯箱、掛軸、翠簾屏風、大和錦巻物、丸火鉢などなど。
「三・四日そのまま飾り、たくさんの人が珍しがって見物しに来た。
新聞紙屋も来て写真に撮り、新聞に載せた」そうです。
閏3月29日
使節団は各国の大使に会ったりスケジュールは過密だったようです。
21時、国務長官キャス(L. Cass)宅のパーティーに招かれます。
ガス燈に照らされて昼間のように明るい室内で、男女混じっての立食パーティ。
別の部屋では数百人が夜通しダンスをしています。
ガス燈は兎も角、人前で男女が体を寄せ合ったり
立ったまま食事をとるのは、当時の日本人からすればさぞかし下品で卑猥に見えたことでしょう。
実際範正も、
「自分には夢か現か分からない。ただあきれてしまう。
案内役の高官デュホントに言い、主に暇を告げて客舎に帰る。
礼儀のない国だけれど、外国の使節を宰相が招いているのだし不礼と咎めればきりがない。
礼や義ではなく、親交の表現なのだと思っておこう」
と、最後にこんな和歌まで詠んでいます。
「何事も 姿こと葉の ことなれば 夢路をたどる 心地こそすれ」
万延元年4月3日
ワシントンの国務省において、使節団正使の新見正興(豊前守)と国務長官のキャスとの間で批准書を交換。
※二人のほか、副使である範正と小栗忠順による署名がなされています。
ブキャナン大統領と会見。
帰路はナイアガラ号にて大西洋航路をとり、南アフリカ・インドを経由。
9月27日
江戸へ到着。使命を全うし、その功により300石加増され500石取に。
箱館に戻り、引き続き外国・箱館兼任奉行として在任します。
11月20日
プロシアとの条約交渉を行っていた堀が切腹してしまいます。
翌日から彼に代わって範正が日普(プロシア)通商条約交渉の全権となり、樺太国境問題の交渉、調印に臨みました。
文久元年(1861)
ロシア軍艦対馬占領事件
ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠します。
範正は箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めました。
また箱館港の砲台建設も促進しました。
蝦夷地巡見にも向かいます。
※「辛酉紀行」というタイトルで日記が残っています。
文久二年(1862)
外国奉行専任となります。
文久3年(1863)6月
作事奉行に転じます。 ※閑職です。
翌元治元年(1864)8月
西の丸留守居、若年寄支配寄合となり、一線から退きました。
明治元年(1868)
病のためと称して隠居、淡叟と号します。
明治維新後は官途に就きませんでした。
明治13年(1880)3月15日
東京にて没します。享年68歳。
範正さんのことを、賢くて仕事の出来る人、と言った人もいれば、
ちょっと経験があるだけで奉行の器ではない、と言った人もいます。
司馬遼太郎氏も『明治という国家』で、「封建的ボンクラ」と書いているそうです。(←まだ読んでません)
司馬先生に関しては、あの人は倒幕派についてはべた褒めするけど
佐幕派については大嫌いで貶してばかりの人ですからねぇ…。
史実とは掛け離れた内容がかなり多いのは小説だからいいんですが
(司馬先生の作品は私も好きです。)
司馬先生の小説を全て史実だと思っている読者が多いのは嘆かわしいです。
範正さんは
西洋文化=進んでる・カッコイイ より、下品、俗物という感想を持っていたようです。
それが、知識が無いとか遅れてると見る人は見たのでしょうね。
でもその分、媚びや気後れが無く、日本という国に誇りがあったように見受けられます。
国や家柄に誇りを持っていたからこそ、仕事をきっちりこなし
明治維新後の新政府に仕えるのはプライドが許さず、病気と偽って隠居してしまったのではないでしょうか。
箱館に着任した時詠んだ
「ふり積る 雪の光にてりまさる 箱館山の 冬の夜の月」
サンフランシスコに入港したときの
「古郷(ふるさと)に かはらぬ影をあふぐかな カリホルニヤのはるの夜の月」
など多数の和歌が残っています。
(日記のタイトルもなんだか風流なので、分かる部分は記載してみました。)
自分は、米大統領に謁見したときに詠んだ、
日本の誇りに溢れ過ぎていて
余りに真っ直ぐ過ぎて笑いさえ誘ってしまいそうなこの和歌が好きです。
「えみしらも あおぎてぞ見よ 東なる 我が日本(ひのもと)の 国の光を」
参考
「箱館をめぐる人物史-19世紀人の光と影-」小林裕幸
「明治維新人名辞典」
「函館市史」
「箱館五稜郭物語」河合敦
「五稜郭」田原良信
その他多数、及びインターネット、テレビ等を参考にしました。
資料により異なる点は、各資料を照らし合わせて併記するか、
一番信憑性のあると判断したものに拠りました。
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