ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2009.05.14 Thu
先日読んだ『悪魔とプリン嬢』の中で
ここが天国であることに人は気付かない
という話があった。
今読んでいるカラマーゾフの兄弟 中巻でも
楽園はこの人間が生きている世界である
という件(くだり)が出てきた。
天国や地獄というのは大抵が宗教的概念で
上にあげた二冊はどちらもキリスト教と無関係ではないが
それと全く切り離したところで
今ある幸せを幸せだと気がつかない
人間の傲慢さというのは、本当にその通りだと思う。
勿論、自分自身も含めて。
もっと上を欲することが一概に悪いことではなく
だからこそ向上もするのだけれど
上を見て羨んだり下を足蹴にするのではなく
よく認識し、感謝することも重要なのだ。
***
ネタバレを気にする人は以下を読まないで欲しいのだが
同じくカラマーゾフの中で
殺人をしたが、別の人が逮捕され
その人も獄中で死んでしまったという人間が出てくる。
その人は自分の罪を悔いて、十数年を過ごす。
これを読みながら私が思いだしたのが
伊坂先生の『重力ピエロ』。
まぁ、『アヒルと鴨のコインロッカー』でもいいのだが。
罪は、この場合特に限って言うなら
人を殺した罪は、どうしたら赦されるのだろうか。
盗みならまだしも、命はどうしたって返って来ない。
それでも遺族としたら、犯人が野放しになっているよりは
掴まって服役するなり
泣いて謝罪される方がまだマシかもしれないが。
しかし伊坂先生の作品のように
被害者が、当然殺されても良いと思えるほどの悪人の場合。
その悪を除いた殺人犯の罪は
果たして自首をして法律の下に裁かれることで
赦されるのだろうか。
一体誰に?
その赦しは本当に必要なのだろうか。
勿論、HRで取り上げたなら
必要だ、自首するべきだと答えるのが正解だ。
という言い方をするとデスノートみたいだけれど。
デスノートのキラは、個人的にはかなり正しいと思う。
キラなら、春や河崎を裁かないだろう。
そういえば、東野先生の『容疑者Xの献身』ならどうだろう?
石神は?
特に、自首すると強固に言っていた春を見ていて
それに対してしなくていい、とやはり強固に言っていた泉水。
心情としては泉水を応援したくなる。
法的には春が正しい。
しかし、そうやって見ず知らずの人間に
根掘り葉掘り聞かれて裁かれて、刑に服して
それで春の罪は赦されるのだろうか?
罪を償うことで、苦しみから解放される、からか?
しかし、人を殺してもなんとも思わない人間も
死刑にして欲しいから、と殺人を犯す人間もいる。
勿論法律が不要なわけではなく
抑制するための脅しとして必要ではある。
となると、悪魔とプリン嬢に戻ってくるが。
広場に絞首台は必要だ。
本当は、愛で全てが解決すると思いたいけれど。
十字架がそこにあれば良いと思いたいけれど
現実はそうはいかない。
抑制力がなければ野放図になってしまうなら
やはりアダムとイブが林檎を食べたのが間違いで
知識さえなければ生きることにのみ必死で
罪を犯そうとすることも、その行為が罪であるという認識もなかっただろう。
しかしそれは、『平和』なのだろうか?
無知であれば平和だったのか?
否、これが平和だという認識すらしなかったのではないか。
知識があっても、楽園を楽園と認識出来ないこともある。
また、無知は罪という言葉すらある。
人間は考える葦である。
我思う、故に我あり。
***
結局は、人間全体の幸福など
どうしたって不可能なのだと
私の思考はそこに戻ってくる。
宮沢賢治は好きだけれど。
キャラメルのお芝居で
『ブリザード・ミュージック』のラストが正直妥当だと思う。
全体は無理だから、自分の手が届く人を幸福に。
しかし、それすら実はとても難しい。
自分の力が足りないせいもあれば
相手が受け入れてくれないこともあり
幸せであることに気がつかないこともある。
***
不満はある。
完璧ではない。
それでも。
私は今、とても幸せだ。
そう思えることが、とてもありがたいとは
本当に心のそこから思う。
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