タイトルだけは聞いた事があった。
ある人のblogの引用で、
"ひとりの人間の物語はすべての人類全体の物語になる"
と引用されていたのをきっかけに
読んでみた。
無宗教でミッションスクール出身の自分は
キリスト教のイエスや神の存在に
疑問を感じることが幾度と無くあった。
信徒には神を試すなと言いながら、神やイエスは
人間たちを試し、苦境に置く。
だから、"カルロス"の言いたいことは、非常に理解できる。
性善説か性悪説かとよく言われるが
人間はどちらも常に持ち合わせていて
悪人とされる人でも蜘蛛を助ける人もいれば
善人とされる人が他者を裏切ることもあり
常に一貫しないものなのではないか。
私がプリン嬢だったらどうするだろう。
どう立ち向かうだろう。
"悪魔"とふたりきりで対峙するなんて怖すぎるし
そんなことで報酬を貰うのは怖い。
また、ベルタの立場であってもやはり怖い。
かと言って全てを見捨てて逃げても後悔するだろう。
蝿の王などを読んでも思うことだが
極限状態において人間は、良心ではやはり生きられないのだろうか。
悪魔の計画に乗るのをやめようと言う人はいないのだろうか。
金のためか。自分の安全のためか。
自分がその状況にあって、どう行動するか。
"正しく"行動すると信じたいが、やはり恐怖で従ってしまうのだろうか。
人が立ち向かわなければならない
打ち克たなければ鳴らないものは
"悪魔"という抽象的な概念ではなく
常に自分自身なのだと強く思った。
そしてまた、現実に"悪魔"と対峙することは、実は多い。
その強さと種類に差はあっても
誘惑や恐怖は生きている以上常身近にある。
この村でおきたようなことはどこでも起きるし
ひとりの人間の物語はすべての人類全体の物語になるのだから。
悪魔に勝てる光を、恐怖や欲で制御されるのではなく
自分自身の良心で育てていけることが出来たなら
と思う。