ふと思いついては消えていく戯れ言の中にも大事なことや本気なことはあるよな、と思い極力書き留めよう、という、日々いろんなことに対する思いを綴っています。
2005.11.25 Fri
ハウルの動く城
賛否両輪のこの映画、DVDで見てみました。
世界観は好きだったし、キムタクもなかなか、悪くなかった。
ただよく分からないなというところも多くあったので、
原作を読んでから見なしてからのジャッジ、ということにしようかと思います。
原作を図書館にリクエストして読みました。
トールキンに師事したらしいですが…
微妙でしたね…。
面白くないとは言わないけれど。
結論から先に言うと、駿趣味満開アレンジ、です。
掲示板などで言われていたことに、全て納得がいきました。
兎に角、主人公は可愛い女の子じゃないと駄目だ。
髪が長くて、しかも途中で切られないと駄目。
動物は出てこないと行けないし、空を飛ぶのも必須。
そして何より戦争反対、世界平和、家族の愛を訴えたい!
ということで、途中までは良かったのに、突然原作と全然違うことになってしまうわけなんですよね。
以降話の流れ順に具体的に。
ソフィに妹がいて、養子に出して入れ替わって云々という設定は、
確かに話が長くなるので端折っても仕方ないとは思う。
こっそり「マーサが心臓をハウルに食べられた」なんて
元ネタっぽいことを言わせているのがせめてのつみ滅ぼしとでもいうところか。
しかしなんで赤毛設定をやめてしまったんだろう?
これは謎。
駿さんの趣味なんだろうか…。
原作ではハウルにナンパされているソフィだけれど、
映画では兵士にナンパされてそれをハウルが助けるという設定。
これも納得はいく。
その方がてっとりばやく、ハウルを恰好良くてよい人と位置付けることができるし、
妹たちがいないという設定にしてしまった以上は
妹と間違えられてソフイが荒地の魔女に目をつけられた、ということには出来ないから、
ここでハウルと仲良く歩いているのを見て魔女が誤解して、
ハウルの居場所も分かるだろう、と画策した、
ということにすれば話は早い。
母親はなんであんな設定にしたのだろう。
原作では継母だし、最初は意地悪な人な疑いもあったけれど、
いくら風邪ひいてるからって部屋に本当に入ってこないとか
後半でも、脅されていたようだとは言え
ソフィの不利になるようなことをしちゃうなんて、どうかなぁと思う。
原作でソフイが何度も言う、「長女だから」という話は、多分日本人には
分かりにくい感覚だし(私だけなの?)、
普通に案山子を助けて、そしたら恩返しに杖をくれるし家まで探してくれる
っていうのでなんだかロマンチックだし、この魔女が普通に存在している
世界観にもすっと引き込まれるので良いと思う。
カルシファーはいい人だと思ってたけど、
原作の方がより良い人だった。
エピソードが削られた分、可愛いキャラにデフォルメされていたので
これはこれで、こんなカルシファーもいいなと思う。
マイケルがマルクルという名前で、年齢も違うというのも、
これはこれで良いと思う。
ゆくゆくは家族としてのつながりを描きたい駿さんとしては、
マルクルが子供ポジションの方が色々とやりやすくなるし。
見ていても可愛いから、良いんじゃないかなと。
おじいさんに変身するのも、原作の魔法もマントがヒントなのでしょう。
取り敢えず可愛いからいいや、と。
単に神木くん使いたかったからこういうキャラ設定にしたのでは
と思うほどに可愛かった。
ソフィのポケットに魔女の呪いが、というのも分かりやすい。
荒れ地の魔女の怖さ、ハウルの凄さも同時に示せるわけだし。
相手が見破ってくれないと話せない呪いだと言うのは、
原作を読んでやっと意味が分かった。
映画を見ていた分にはちょっとぴんときていなかった。
ぴんとこないと言えば、ソフィにも魔法に近い力があるというのは
さっぱり分かっていなくて、原作を読んで呆気にとられた。
そんな設定にしてもーたら元も子も無いのでは…と。
まぁ映画版でも、マルクルがソフィを魔女ではないかと疑うのが
そのあたりのことを表しているんだろうけど、
ソフィの作った帽子の話とか入れてくれても良かったのではと思う。
帽子屋での単調でつまらない日々をもうちょっと丁寧に書いてくれたらな。
そして不思議な帽子の話なんかがあれば、もっとよく分かったと思う。
映画でソフィが帽子を被った自分を見て不機嫌になる意味が分からなかった。
案山子のカブの設定は、映画の方が断然好き。
ソフィのために無理をしたカルシファーのエピソードは良かったけど、
まぁそれは褒められて調子にのるということで代用されているし、
兎に角嫌われるのより、カブが普通に受け入れられて洗濯を手伝ってるのが
微笑ましくて良かった。
ハウルが化け物に返信して空を飛ぶとか
戦争の話は、原作には無かったんでちょっと意外だった。
疲れて帰ってきてハウルがソフィを除いて、そのソフィが元の姿だというのが
ちょっとは原作の、ハウルとカルシファーで呪いを解こうとした
というのを汲んでいるのだろうか。
敵のびらを拾うな、とか、びらだよ!って言うマルクルで
戦争とは、というのを表したいのだろうか。
このあたりからそういう、ある種説教くさい雰囲気になってきて、
原作からどんどん逸脱していくんだけど…。
ハウルがナンパ野郎だっていう設定はごっそり抜け落ちてるけど、
これもまあしょうがないか。
話が収拾つかなくなるからね。原作の設定全部やろうとすると。
僅かに、マルクルがハウルが緑のねばねばを出したとき、前に振られた時もやった、
と言うところにその片鱗が残っている。
しっかし、どろどろは駿趣味だと思っていたので、原作通りなのは
驚いた。
「私は美しかったことなんて一度もない」
とソフィが怒り出すのが突然に感じた。
原作を読んで、ソフィがそういう人でそういう考えなのか
と分かったら少し納得したけれど。
ハウルの部屋は綺麗過ぎるよなぁ。
まぁ実際原作通りじゃ汚すぎるし、魔女が本当は怖いんだ、
とソフィに告白するのはちょっと良かったけれど。
「(変名の数は)自由に生きるのにいるだけ」って台詞も好きだった。
魔法学校に入学するときに云々っていうの、ちょっと鋼の国家錬金術師を思い出しました。
お城にソフィが行くとき、カルシファーの「いってらっしゃ~い」
がたまらなく可愛い。(笑)
王様に会いに行く前にペンステモン先生に会う、というエピソードをカットするのは
分かるけれど、この当たりから設定が可笑しくなってくる。
まずこのヒンが可笑しい。
なんでこんなキャラを出したんだろう。動物が足りなかったんだろうか。
(ジブリ的に)
ヒン…おまえくらいのサイズだったら、そんな階段くらい上れるだろう…。
魔女とちょっと仲良さげなこのシーンはコミカルで良いけれど、
原作のファンからしたら、この辺りからかなり不思議というか
疑問に思いまくるだろうなというのはとても理解できる。
先生の家でのいろんなことがすっかり
サリマンのことに入れ替わっていて、サリマンって原作では全然違う。
行方不明で色々それなりに頑張っていた人なのに、これでは結構怖くて嫌な人。
荒地の魔女がここでこんな風にされるのは、
駿的趣味で絶対悪を作りたくなかったのでしょう。
荒地の魔女と戦って勝ってハッピーエンド、というラストを望まなかったんだろう。
サリマンと話しているときのソフィが若くなるのは、サリマン
もといペンステモンがソフィの歳が若いと見破っているというところに拠るのだろうか。
ハウル扮する王が言う、
「魔法で爆弾が王宮に当たらない。その代わり周りの街に落ちるのだ」
という言葉は好きだった。
魔法とかそういう力というものは、そういうものだと思う。
原作通りでは、あまりにハウルがこの当たり活躍しないし、
ウェールズが映画では無い上魔女との決戦も無くなってしまったら、
敵役はサリマンしかおらず、活躍の場もここしか無くなってしまうから
という前提を認めれば、ハウルとサリマンとのこのやりとりは
正解なのかもしれないが、こんなクライマックスとも言えるシーンが
原作に一切無いだなんて思いもしなかった。
原作では王様の弟を探して行方不明になっているサリマンが
こんな形で登場してしまったし、ソフィのところに魔女はひとりできたわけで
マーサの話も無くなってしまっているもんだから仕方ないとは言え、
ヒンがどうやらただの犬で、犬人間でもなんでもなくて、
しかもサリマンの使いだなんて設定はどうしてこんなことにしてしまったんだろう。
「愛してる」というソフィの台詞がとても唐突だと思ったけど、
夢落ちだったんで納得はできる。
原作の方がその当たりは余程唐突で納得ができないので、これは仕方ない。
が、荒れ地の魔女やサリマンの手下の犬と一緒に暮らすなんてとんでもない。
このとんでもない設定が原作には無いオリジナルっていうのがまた
とんでもない話だ。
そりゃあこういう設定にしてしまった以上、ソフィがあんな性格のキャラなのに
魔女をサリマンのところに放置してくるとは思えないけれど、
だからって、ねぇ。
映画の宣伝を見ていたときまさかこうなるとは思っていなかったけど、
もの凄く意外な展開だった。
原作ファンからしたら私以上の驚きだったろうと思う。
平和主義で悪くはないけれど、これじゃあ全くのオリジナルだ。
こんな設定で展開してしまったら、まぁソフィが魔女を介護してるのも
ハウルがそれを普通に受け入れているのもまぁ良いシーンではある。
原作では花を切って売るけれど、映画では単にハウルからソフィへの
プレゼントとして花畑に案内される。
このあたり、現実主義の女性の作った話と、ロマンチストの男性の脚本した映画の
違いということなのかなと思う。
ソフィではなくハウルの思いつきで、夢として花屋をやろうと語られる。
サリマンの手先がハウルを探し回るというのがいまいちぴんとこない。
サリマンとしては自分が「いいひと」で、「悪いひと」になろうとしている
ハウルを危険分子と見なしているということなんだろうか。
原作では、骸骨の話とかレティの話があるので
案山子や犬がハウルの城に来てしまうのも理解できるんだけど。
「なぜ?僕はもう十分逃げた。
ようやく守らなければならないものができたんだ」
この台詞は確かに好きだけれど…。
戦争が嫌だ、やめさせたい、好きな人を守りたい。
とっても素敵ですが、原作では微塵も無かったよね…。
勇ましい美少女って本当ジブリだよなぁ。
髪切るの好きだよなぁ…。
ナウシカだった出陣の時に短くするし。シータはムスカにやられるし。
おばあちゃんを助けるために思い余って水を…
というのは、この設定からしたらこれも正解だから致し方ない。
こっちの方が納得できるとも言える。
で、後から後悔してるし。
あの光、流れ星だとは思わなかった。
原作を読んで、流れ星は落ちて死ぬもの、それが可哀想で
ハウルがカルシファーと契約を、っていうのが分かったけれど、
映画を見ていた時点で墜落している以上流れ星ではないと思ってしまい、
しかもそれがカルシファーだってのも最初はよく分からなかった。
ウェールズが無い以上こうするしかないのかもしれないが、
「未来で待ってる」とか「涙が止まらない」とか、正直興ざめだ。
この後ソフィは、さっきはカルシファーに水をかけた、
ハウルが死んでしまうかも、と泣いていた割に、
死んでないと断言。なぜ分かる。愛でしょうか。
水をかけたり契約を破っても大丈夫な理由が映画では無いので、
このあたり微妙。
壊れて滑っていく城の欠片をとめてくれるカブが恰好良い。
でも、その後の設定があまりに唐突だ。
隣の国の王子で、ソフィが好きだったなんて尚更唐突。
王子が何故ソフィを見初める機会があったんだよ。
そんな話も書かれてないし。
戦争を大きくしたいから呪われてカブになっていたの?
どういう設定なのあなた。
「髪の毛、星の光の染まってるよ」
と言わせたいがための赤毛をやめたのか?
とハウルの台詞でふと思ってしまった。
水晶玉を後ろから見ると、ヒンの後ろ姿が見えて尻尾を振っているのは可愛かった。
サリマンはハッピーエンドだから、だからハウルをつけねらうのをやめるというのは
分かるにしても、突然戦争をくだらないと言い出すのはなんだろう。
これもあまりに唐突。
カルシファーが戻ってくるのは原作通り。
これは可愛かった。
ラストシーンの飛ぶお城。
やっぱり取り敢えず飛ばしたいのね…。
で、ソフィ呪いはとけたの?というのがとても疑問だった。
まぁ言わずもがなってとこですか…。
元魔女のばあちゃんとサリマンの犬と同居の新婚生活なんて
大変だぞ?マルクルだっているのに。
なんて言うと夢がないだろうか。
まぁ、それは原作だってマイケルがいるんだし、
安易なハッピーエンドという点では変わりないけれど。
原作と映画を並べると、つっこみどころは沢山あったし、
原作ではわかりにくい雰囲気を映画で補ったり、
映画で描かれていない設定が原作にあったりで、
互いに補完しあっているとは言える。
で、どっちがいいんだと言われたら、原作ファンからしたら
あまりにジブリテイストに好き勝手半端にいじられてるんで
結構頭にくるだろうと思うけれど、
私としては、原作の、ソフィに力があることにしてしまうと
元も子もないじゃないかと思うし、
女好きのハウルにヤキモチをやくソフィ、でも結局ハウルもソフィが好きで、
敵役は分かりやすく魔女で、なぜだかお城に家族揃って
みんなで戦って悪い人に勝ったからハッピーエンド、ってのが
納得いかないというか、如何にも女の書いたファンタジーという気がして、
底が浅く恋愛沙汰にしかなれないんだと思ったんで
(魔法関係の設定などは面白いと思ったんだけど)
そこからすると、映画はこれはこれで、結構よくできていたんじゃないの?
と思うのでした。
ただ、今年の夏公開されるというゲド。
ゲドの最後の方は、ハウルの原作と同じで、女はこういうふうにしか
書けないのか、と苛々するんだけど、3巻はまだ面白い時期なんで、
心配ですね。
原作が好きなだけに、冷静なジャッジを下せるかどうか。
ハウルがこんなになってしまっているということは、
男ふたりで航海では終わらないでしょうねぇ。
絶対に竜の背かなにかに飛ぶんだろうし、勇ましい美少女も出てくるんでしょう。
アレンが女設定だったらどうしよう…。
トールキンに師事したらしいですが…
微妙でしたね…。
面白くないとは言わないけれど。
結論から先に言うと、駿趣味満開アレンジ、です。
掲示板などで言われていたことに、全て納得がいきました。
兎に角、主人公は可愛い女の子じゃないと駄目だ。
髪が長くて、しかも途中で切られないと駄目。
動物は出てこないと行けないし、空を飛ぶのも必須。
そして何より戦争反対、世界平和、家族の愛を訴えたい!
ということで、途中までは良かったのに、突然原作と全然違うことになってしまうわけなんですよね。
以降話の流れ順に具体的に。
ソフィに妹がいて、養子に出して入れ替わって云々という設定は、
確かに話が長くなるので端折っても仕方ないとは思う。
こっそり「マーサが心臓をハウルに食べられた」なんて
元ネタっぽいことを言わせているのがせめてのつみ滅ぼしとでもいうところか。
しかしなんで赤毛設定をやめてしまったんだろう?
これは謎。
駿さんの趣味なんだろうか…。
原作ではハウルにナンパされているソフィだけれど、
映画では兵士にナンパされてそれをハウルが助けるという設定。
これも納得はいく。
その方がてっとりばやく、ハウルを恰好良くてよい人と位置付けることができるし、
妹たちがいないという設定にしてしまった以上は
妹と間違えられてソフイが荒地の魔女に目をつけられた、ということには出来ないから、
ここでハウルと仲良く歩いているのを見て魔女が誤解して、
ハウルの居場所も分かるだろう、と画策した、
ということにすれば話は早い。
母親はなんであんな設定にしたのだろう。
原作では継母だし、最初は意地悪な人な疑いもあったけれど、
いくら風邪ひいてるからって部屋に本当に入ってこないとか
後半でも、脅されていたようだとは言え
ソフィの不利になるようなことをしちゃうなんて、どうかなぁと思う。
原作でソフイが何度も言う、「長女だから」という話は、多分日本人には
分かりにくい感覚だし(私だけなの?)、
普通に案山子を助けて、そしたら恩返しに杖をくれるし家まで探してくれる
っていうのでなんだかロマンチックだし、この魔女が普通に存在している
世界観にもすっと引き込まれるので良いと思う。
カルシファーはいい人だと思ってたけど、
原作の方がより良い人だった。
エピソードが削られた分、可愛いキャラにデフォルメされていたので
これはこれで、こんなカルシファーもいいなと思う。
マイケルがマルクルという名前で、年齢も違うというのも、
これはこれで良いと思う。
ゆくゆくは家族としてのつながりを描きたい駿さんとしては、
マルクルが子供ポジションの方が色々とやりやすくなるし。
見ていても可愛いから、良いんじゃないかなと。
おじいさんに変身するのも、原作の魔法もマントがヒントなのでしょう。
取り敢えず可愛いからいいや、と。
単に神木くん使いたかったからこういうキャラ設定にしたのでは
と思うほどに可愛かった。
ソフィのポケットに魔女の呪いが、というのも分かりやすい。
荒れ地の魔女の怖さ、ハウルの凄さも同時に示せるわけだし。
相手が見破ってくれないと話せない呪いだと言うのは、
原作を読んでやっと意味が分かった。
映画を見ていた分にはちょっとぴんときていなかった。
ぴんとこないと言えば、ソフィにも魔法に近い力があるというのは
さっぱり分かっていなくて、原作を読んで呆気にとられた。
そんな設定にしてもーたら元も子も無いのでは…と。
まぁ映画版でも、マルクルがソフィを魔女ではないかと疑うのが
そのあたりのことを表しているんだろうけど、
ソフィの作った帽子の話とか入れてくれても良かったのではと思う。
帽子屋での単調でつまらない日々をもうちょっと丁寧に書いてくれたらな。
そして不思議な帽子の話なんかがあれば、もっとよく分かったと思う。
映画でソフィが帽子を被った自分を見て不機嫌になる意味が分からなかった。
案山子のカブの設定は、映画の方が断然好き。
ソフィのために無理をしたカルシファーのエピソードは良かったけど、
まぁそれは褒められて調子にのるということで代用されているし、
兎に角嫌われるのより、カブが普通に受け入れられて洗濯を手伝ってるのが
微笑ましくて良かった。
ハウルが化け物に返信して空を飛ぶとか
戦争の話は、原作には無かったんでちょっと意外だった。
疲れて帰ってきてハウルがソフィを除いて、そのソフィが元の姿だというのが
ちょっとは原作の、ハウルとカルシファーで呪いを解こうとした
というのを汲んでいるのだろうか。
敵のびらを拾うな、とか、びらだよ!って言うマルクルで
戦争とは、というのを表したいのだろうか。
このあたりからそういう、ある種説教くさい雰囲気になってきて、
原作からどんどん逸脱していくんだけど…。
ハウルがナンパ野郎だっていう設定はごっそり抜け落ちてるけど、
これもまあしょうがないか。
話が収拾つかなくなるからね。原作の設定全部やろうとすると。
僅かに、マルクルがハウルが緑のねばねばを出したとき、前に振られた時もやった、
と言うところにその片鱗が残っている。
しっかし、どろどろは駿趣味だと思っていたので、原作通りなのは
驚いた。
「私は美しかったことなんて一度もない」
とソフィが怒り出すのが突然に感じた。
原作を読んで、ソフィがそういう人でそういう考えなのか
と分かったら少し納得したけれど。
ハウルの部屋は綺麗過ぎるよなぁ。
まぁ実際原作通りじゃ汚すぎるし、魔女が本当は怖いんだ、
とソフィに告白するのはちょっと良かったけれど。
「(変名の数は)自由に生きるのにいるだけ」って台詞も好きだった。
魔法学校に入学するときに云々っていうの、ちょっと鋼の国家錬金術師を思い出しました。
お城にソフィが行くとき、カルシファーの「いってらっしゃ~い」
がたまらなく可愛い。(笑)
王様に会いに行く前にペンステモン先生に会う、というエピソードをカットするのは
分かるけれど、この当たりから設定が可笑しくなってくる。
まずこのヒンが可笑しい。
なんでこんなキャラを出したんだろう。動物が足りなかったんだろうか。
(ジブリ的に)
ヒン…おまえくらいのサイズだったら、そんな階段くらい上れるだろう…。
魔女とちょっと仲良さげなこのシーンはコミカルで良いけれど、
原作のファンからしたら、この辺りからかなり不思議というか
疑問に思いまくるだろうなというのはとても理解できる。
先生の家でのいろんなことがすっかり
サリマンのことに入れ替わっていて、サリマンって原作では全然違う。
行方不明で色々それなりに頑張っていた人なのに、これでは結構怖くて嫌な人。
荒地の魔女がここでこんな風にされるのは、
駿的趣味で絶対悪を作りたくなかったのでしょう。
荒地の魔女と戦って勝ってハッピーエンド、というラストを望まなかったんだろう。
サリマンと話しているときのソフィが若くなるのは、サリマン
もといペンステモンがソフィの歳が若いと見破っているというところに拠るのだろうか。
ハウル扮する王が言う、
「魔法で爆弾が王宮に当たらない。その代わり周りの街に落ちるのだ」
という言葉は好きだった。
魔法とかそういう力というものは、そういうものだと思う。
原作通りでは、あまりにハウルがこの当たり活躍しないし、
ウェールズが映画では無い上魔女との決戦も無くなってしまったら、
敵役はサリマンしかおらず、活躍の場もここしか無くなってしまうから
という前提を認めれば、ハウルとサリマンとのこのやりとりは
正解なのかもしれないが、こんなクライマックスとも言えるシーンが
原作に一切無いだなんて思いもしなかった。
原作では王様の弟を探して行方不明になっているサリマンが
こんな形で登場してしまったし、ソフィのところに魔女はひとりできたわけで
マーサの話も無くなってしまっているもんだから仕方ないとは言え、
ヒンがどうやらただの犬で、犬人間でもなんでもなくて、
しかもサリマンの使いだなんて設定はどうしてこんなことにしてしまったんだろう。
「愛してる」というソフィの台詞がとても唐突だと思ったけど、
夢落ちだったんで納得はできる。
原作の方がその当たりは余程唐突で納得ができないので、これは仕方ない。
が、荒れ地の魔女やサリマンの手下の犬と一緒に暮らすなんてとんでもない。
このとんでもない設定が原作には無いオリジナルっていうのがまた
とんでもない話だ。
そりゃあこういう設定にしてしまった以上、ソフィがあんな性格のキャラなのに
魔女をサリマンのところに放置してくるとは思えないけれど、
だからって、ねぇ。
映画の宣伝を見ていたときまさかこうなるとは思っていなかったけど、
もの凄く意外な展開だった。
原作ファンからしたら私以上の驚きだったろうと思う。
平和主義で悪くはないけれど、これじゃあ全くのオリジナルだ。
こんな設定で展開してしまったら、まぁソフィが魔女を介護してるのも
ハウルがそれを普通に受け入れているのもまぁ良いシーンではある。
原作では花を切って売るけれど、映画では単にハウルからソフィへの
プレゼントとして花畑に案内される。
このあたり、現実主義の女性の作った話と、ロマンチストの男性の脚本した映画の
違いということなのかなと思う。
ソフィではなくハウルの思いつきで、夢として花屋をやろうと語られる。
サリマンの手先がハウルを探し回るというのがいまいちぴんとこない。
サリマンとしては自分が「いいひと」で、「悪いひと」になろうとしている
ハウルを危険分子と見なしているということなんだろうか。
原作では、骸骨の話とかレティの話があるので
案山子や犬がハウルの城に来てしまうのも理解できるんだけど。
「なぜ?僕はもう十分逃げた。
ようやく守らなければならないものができたんだ」
この台詞は確かに好きだけれど…。
戦争が嫌だ、やめさせたい、好きな人を守りたい。
とっても素敵ですが、原作では微塵も無かったよね…。
勇ましい美少女って本当ジブリだよなぁ。
髪切るの好きだよなぁ…。
ナウシカだった出陣の時に短くするし。シータはムスカにやられるし。
おばあちゃんを助けるために思い余って水を…
というのは、この設定からしたらこれも正解だから致し方ない。
こっちの方が納得できるとも言える。
で、後から後悔してるし。
あの光、流れ星だとは思わなかった。
原作を読んで、流れ星は落ちて死ぬもの、それが可哀想で
ハウルがカルシファーと契約を、っていうのが分かったけれど、
映画を見ていた時点で墜落している以上流れ星ではないと思ってしまい、
しかもそれがカルシファーだってのも最初はよく分からなかった。
ウェールズが無い以上こうするしかないのかもしれないが、
「未来で待ってる」とか「涙が止まらない」とか、正直興ざめだ。
この後ソフィは、さっきはカルシファーに水をかけた、
ハウルが死んでしまうかも、と泣いていた割に、
死んでないと断言。なぜ分かる。愛でしょうか。
水をかけたり契約を破っても大丈夫な理由が映画では無いので、
このあたり微妙。
壊れて滑っていく城の欠片をとめてくれるカブが恰好良い。
でも、その後の設定があまりに唐突だ。
隣の国の王子で、ソフィが好きだったなんて尚更唐突。
王子が何故ソフィを見初める機会があったんだよ。
そんな話も書かれてないし。
戦争を大きくしたいから呪われてカブになっていたの?
どういう設定なのあなた。
「髪の毛、星の光の染まってるよ」
と言わせたいがための赤毛をやめたのか?
とハウルの台詞でふと思ってしまった。
水晶玉を後ろから見ると、ヒンの後ろ姿が見えて尻尾を振っているのは可愛かった。
サリマンはハッピーエンドだから、だからハウルをつけねらうのをやめるというのは
分かるにしても、突然戦争をくだらないと言い出すのはなんだろう。
これもあまりに唐突。
カルシファーが戻ってくるのは原作通り。
これは可愛かった。
ラストシーンの飛ぶお城。
やっぱり取り敢えず飛ばしたいのね…。
で、ソフィ呪いはとけたの?というのがとても疑問だった。
まぁ言わずもがなってとこですか…。
元魔女のばあちゃんとサリマンの犬と同居の新婚生活なんて
大変だぞ?マルクルだっているのに。
なんて言うと夢がないだろうか。
まぁ、それは原作だってマイケルがいるんだし、
安易なハッピーエンドという点では変わりないけれど。
原作と映画を並べると、つっこみどころは沢山あったし、
原作ではわかりにくい雰囲気を映画で補ったり、
映画で描かれていない設定が原作にあったりで、
互いに補完しあっているとは言える。
で、どっちがいいんだと言われたら、原作ファンからしたら
あまりにジブリテイストに好き勝手半端にいじられてるんで
結構頭にくるだろうと思うけれど、
私としては、原作の、ソフィに力があることにしてしまうと
元も子もないじゃないかと思うし、
女好きのハウルにヤキモチをやくソフィ、でも結局ハウルもソフィが好きで、
敵役は分かりやすく魔女で、なぜだかお城に家族揃って
みんなで戦って悪い人に勝ったからハッピーエンド、ってのが
納得いかないというか、如何にも女の書いたファンタジーという気がして、
底が浅く恋愛沙汰にしかなれないんだと思ったんで
(魔法関係の設定などは面白いと思ったんだけど)
そこからすると、映画はこれはこれで、結構よくできていたんじゃないの?
と思うのでした。
ただ、今年の夏公開されるというゲド。
ゲドの最後の方は、ハウルの原作と同じで、女はこういうふうにしか
書けないのか、と苛々するんだけど、3巻はまだ面白い時期なんで、
心配ですね。
原作が好きなだけに、冷静なジャッジを下せるかどうか。
ハウルがこんなになってしまっているということは、
男ふたりで航海では終わらないでしょうねぇ。
絶対に竜の背かなにかに飛ぶんだろうし、勇ましい美少女も出てくるんでしょう。
アレンが女設定だったらどうしよう…。
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